青春の結び直し

はれ わたる

第1話

 視線の先には、今一番会いたくて、会いたくない人が立っていた。


 一年前、俺たちは別れた。二年と数ヶ月付き合った後のことだった。

 理由は同性カップルには良くある、ありふれたこと。親や周りの目、お互いの将来を気にして俺の方から別れを告げた。

 それになにより、元恋人である、立河夕陽たてかわゆうひを縛ってしまうことに対する罪悪感が強かったのだ。俺と付き合っていることで夕陽の「一般的な」幸せを奪ってしまう。そう考えた時、別れるべきなのだと自然にその考えが浮かんだ。

 もともと、告白したのは俺からだった。それも手伝って、夕陽は優しさで付き合ってくれているのだろうと考えるようになったのだ。

 実際、夕陽は優しい。付き合ってくれただけではなく、俺の話をよく聞いてくれるし、いつもニコニコと笑顔を絶やさない。だからこそ、そんな夕陽を俺が縛るわけにはいかないとも思うようになってしまったのだ。


 今からちょうど一年前のこと。あの時も今と同じように桜が散り始め、ツツジが咲き始めた、春の終わりのことだった。

 二年になって、文理選択によってクラス替えが行われたことをきっかけに、俺はついに夕陽に別れを告げた。


 俺が落とした「別れよう」の言葉に夕陽は「うん」と一言だけで返事をした。その返事で、彼の別れたいという気持ちを察してしまう。だけどそれと同時に、その返事は自分の判断を、決断を肯定するための良い材料にもなってくれた。彼も別れたいと思っていたのだから別れを切り出したのは正解だったのだ、と。実際は、そう思わないとやっていけなかった、という方が正しい。だって俺はまだ夕陽のことが好きだから。でも、好きな人の幸せは願っていたいものだろう。

 そうして、俺たちは別れた。後悔はしていない……と思う。


 夕陽と付き合っていた時間は、俺にとっては長いようで一瞬の、夢のような時間だった。

 だけど、未練がないと言ってしまったら嘘になる。一年経った今でも夕陽のことは忘れられない。多分、俺は一生夕陽のことを忘れられないだろう。でも、それでいいのだと思う。まだ忘れられなくてもいずれきっと、思い出になる時が来るはずだから。それまではこの思いを抱えて生きていこうと、あの時決意した。


 だが実際はどうだろうか。一向に忘れられそうな気配はないし、思い出になるような気配もない。辛い時、悲しいことがあった時、嬉しかった時、楽しかった時。その全てで夕陽に会いたいと思ったし、今どうしてるのだろうかと気になってしまった。

 どこに行っても、何をしても、全ての瞬間に夕陽を重ねてしまったし、夕陽とだったらどうだろうかと考えてしまった。


 そんな風に考え続けていたのがいけなかったのだろう。目の前には夕陽がいた。本当に偶然のことで、夕陽も驚いた顔をしていた。

 夕陽に会いたいとはずっと思い続けていたが、今はタイミングがとても悪い。


 受験勉強のストレス、伸び悩む成績、焦り、不安、焦燥感。常に感じ続ける緊張感と、思うようにできないもどかしさ。色んな要素が積み重なり、俺の心は限界ギリギリだった。もし、これが普段だったらそれすらも燃料にして更に頑張ることができただろう。だけど、今はそんな元気もなく、ただただ心がすり減っていくのを感じることしかできなかった。


 こんな状態で夕陽に会ってしまったら、情けなく縋って別れたくなかったと泣き出してしまうかもしれない。だから、会いたくなかったというのに。

 目の前の男は段々と覚悟を決めた顔つきになり、俺の方へと向かってきた。

 だめだ、本当に泣いてしまいそうだ。

「ねぇ、今時間大丈夫?」

 久しぶりに聞いた夕陽の声。中学からずっと一緒で、現在も同じ高校に通っているというのに、実に一年ぶりの会話になる。それもそのはず、文理選択で俺は理系、夕陽は文系を選び、クラスがバラバラになったのだ。だからといって全く存在を感じないわけではないが、自分から関わらないようにしているだけあって顔を見たりするだけに収まっている。

「うん。大丈夫だけど、なるべく早めにお願いできる?」

 そう言うと、夕陽は一瞬苦しそうな顔になった。なんで、そんな顔する義理なんてないはずなのに。

「わかった。簡潔に頑張るね」

 そう夕陽が言った時のことだった。パラ、パラ、と雨が頬に当たり始める。

「ありゃ、降っちゃったか」

 今日は午後から雨が降ると朝のニュースが言っていた。その通りに、お昼から雲行きが怪しくなり始め、ついさっきまで、空は黒い雨雲に覆われていた。

あおい、ちょっと走るよ!」

 そう言って夕陽は、俺の手を取って走り出す。彼が掴んでいるのは俺の手首だ。きっと彼なりの配慮なのだろう。でも俺は、久しぶりに感じる彼の手に、温度に、ドキドキしっぱなしだった。


 そうして走っている間にも雨はどんどん強くなり、俺たちの制服のシャツを遠慮なく濡らしていった。


 強まる雨の中をどのくらい走っただろうか。夕陽が立ち止まるのに合わせて俺も立ち止まると、着いた場所は公園の東屋の中だった。俺たちの中学の近くにある、かなり大きめの公園。中には川が流れている場所があったり、中央には噴水があったりもした。


 ここは、思い出の場所だ。


 俺たちが出会った場所であり、俺が夕陽に告白した場所でもある。中学の帰りや、ある時には高校の帰りにも、俺たちはよくここに来た。雨の時は決まって東屋に座り、二人でたくさんのことを話したのを覚えている。


 ふ、と視線を上げると、そこには雨に濡れてシャツが透けている夕陽がいた。その姿が今の俺にはあまりにも魅力的に見えて、思わず視線を下げてしまう。心臓の音が一段とうるさくなったのを感じていた。

「いやー、派手に降られちゃったねー」

 夕陽はそう言って笑う。あぁ、彼の笑顔はこれほどまでも眩しかったのだろうか。

 本当に、馬鹿な想いを抱えているのだと、自分でも思う。夕陽を縛りたくなくて別れたというのに、まだ夕陽のことが好きだというのだから。また夕陽を縛るように、夕陽のことを求めてしまう自分はこれ以上ないほどに愚かだろう。

「俺に用事だったんだよね?」

 これ以上一緒にいたら無理だ、と判断して夕陽に話を促す。

「……うん」

 ザア、ザアという音が辺りを満たす。

 しばらくして、夕陽が口を開いた。

「あの、さ。今更だと思うし、気持ち悪かったら忘れてほしいんだけど、これだけは伝えておきたくて」

 そう言った後、夕陽は大きく息を吸い込んだ。

「俺は、まだ葵のことが好きだ。別れた後でも忘れられなかった。ごめん」

「……え」

 思わず声が口から漏れてしまった。幸か不幸か、雨の音で夕陽の耳には届いていないようだ。

「……じゃあ、俺はこれ伝えたかっただけだから」

「待って!」

 思わず去ろうとする夕陽の腕を掴んでしまった。

 だって、だって、だって!

「夕陽も俺のことまだ好きだったの……?」

 俺は夢でも見ているのだろうか。現実にしてはあまりにも上手くできすぎてはいないだろうか。


「葵……?」

「俺はあの時も、今も、ずっと夕陽が好きだよ」

 そう伝えると、夕陽は一瞬驚いた顔をした後、泣きそうな顔になった。

「……っ、じゃあなんで別れようって言ったの?」

「それは……、俺が夕陽を縛っちゃいけないって、思ったから」

「っ、それは俺の方だよ! 俺が付き合うことで葵の将来を奪っちゃうんだって考えてた! だから、早く別れなきゃって」


 二人を雨音が包む。夢のような、でも確かに現実の時間が俺たちの間に流れた。

「俺たち、お互いのために別れてたんだね」

 再び口を開いたのは夕陽だった。彼の声色が喜色に満ちたものでも、目元には涙が光っていて、それだけで胸がいっぱいになってしまった。


「俺、ほんとは別れたくなかった」

 思わず、零れ落ちた言葉。

「ああ、俺も」

 俺たちはどちらからともなく近づき、抱きしめ合った。久しぶりの夕陽の体温はあの頃のままで、変わらず安心できた。

 濡れたシャツが付くのも気にせず、俺たちは長い間抱きしめ合っていた。


「ねぇ葵」

 どのくらいあのままでいた後だろうか。夕陽が体を離し、俺と視線を合わせた。

「葵のことが好きだ。もう一回、俺と付き合ってくれませんか?」

「もちろん。俺も、夕陽が好き」

 そうしてしばらく視線を繋げた後、俺たちは顔を近づけた。

 いつの間にか空に出ていた太陽の作る、二人の影は一つに重なっていた。

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