冥界を裂く

江蓮蒼月

冥界を裂く

 彼の人は酷く遠い場所に行ってしまった。もう届かない場所。其の人は幽冥へと旅立って逝ってしまったのだ。やるせない思いが胸の内で燻っている。ただの風邪と侮るなかれ。人の命の儚きや。彼の人を返せと咽び泣いても死神はただ笑うだけ。


 彼の人との出会いは町のうどん屋だった。そこで出会った私たちは直ぐに恋に落ちた。一目惚れだった。そして、初恋だった。

 生まれてこの方、恋なんてしたことがなかった。町娘たちの恋愛話はとんとわからぬ。一人で家を継いで、兄弟たちの子の面倒を見て、やがて年老いて死んでゆくのだと思っていた。灰色の、色がない世界。つまらない世界。

 それなのに、そのはずだったのに。目の前を突風が吹き抜けて、次の瞬間には私の視界は鮮やかな色で溢れていた。彼の人が、色を宿してくれた。

「好きだ」

 彼の人の口からぽろりと漏れた言葉。その視線が私を貫いていることは痛いほどわかる。私も彼の人をじっと見つめていたから。

「私も」

 うどん屋が拍手に包まれた。


 それから数年。彼の人は風邪をこじらせて逝ってしまった。私が彼の人を返せと咽び泣いても死神はただ笑うだけ。私は死神に縋り付いて懇願した。私の望みは唯一つ。彼の人と共に生きること。

 私は冥界に飛び込んだ。生きている私の身体は白く光り、冥界の闇を切り裂いた。彼の人はすぐに見つかった。私は彼の人を抱きしめて、その魂を現世に連れ帰った。

 さあ、もう一度一緒に……。

 彼の人が死んで、またなくなっていた色が戻ってきた。私はここで生きていく。彼の人と共に。

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冥界を裂く 江蓮蒼月 @eren-sougetu

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