Ⅴ
マグカップに半分ほど残っていた水を一気に飲みほす。入浴後の熱は冷めた。空になったカップを台所の作業台に置き、食卓の椅子に腰かけた。視線のさきにある猫瓶に手を伸ばして、手のひらに包んでみる。もとは金平糖が詰まっていた。母が、スーパーか雑貨屋か、買い物に出かけたさきで見つけてきた。可愛かったからと、妹と俺にひとつずつくれたものだ。妹はめずらしがって瓶を手に載せ、銀いろのふたを開けてさっそく食べはじめた。俺は、受けとったきり机に放ったまま、見向きもしなかった。ある晩ふと思いだして、一日にひとつずつ、金平糖をなめはじめた。粒は頼りなく、溶けきるまえにほろほろと崩れる。母が笑う。金平糖のかさは四分の三になり、半分になり、四分の一になり、最後の一粒になった。
瓶を手のひらに沈めるうち、ガラスの冷たさが肌になじんできた。テーブルの端、箱ティッシュの横が猫瓶の場所だ。できるだけ静かに置きなおす。
時計を見上げると、十一時を回っていた。椅子から立ちあがり、ベッドサイドのランプを灯してから、蛍光灯のスイッチを切る。枕元にオレンジ色の光が落ちた。いつかの自分が思いださなければ、きょうのできごとは置き去りにされ、ほこりをかぶるだけだ。ほとんどのことを、俺は覚えていない。繰りかえし思いだす記憶ばかり、日に日に輝きを増す。
明日からは、また仕事がある。どんなに暑い日でも、職場では長袖を着て過ごす。あざのことを知っている人はいない。マットレスのうえにあぐらをかき、半袖の寝間着から出た腕をなんとなしにさする。おまえは腕だけになっても見つけてもらえるよな。友人のひとりの言葉がよぎる。ゾンビ映画か、B級の災害映画を観たときにふざけて言ったのだ。浅いつきあいだったが、光のようなやつだった。
子どものころ、眠るのが恐ろしかった。同じ部屋で横になっていても、誰もが独りの眠りを眠る。ランプを消して、身体を横たえた。冷蔵庫の稼働音が聞こえる。おやすみ。誰にともなく、胸の奥でつぶやく。
まどろみにたゆたうあいだに、遠くで応える声が聞こえた。
猫瓶 風待葵 @ym71d_bibi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます