Ⅳ
読みおえて顔をあげると、時計の針は四時半を指していた。店に入ってから二時間が経とうというころだ。
「ごちそうさまです」
店主に声をかける。ドアチャイムがきらきらと音を立てた。さっきよりも涼しくなった風が通りすぎる。とはいえ、じめじめしているのに変わりはない。ふたたび、腕まくりをした。公園の隅や、庭の陰など、鬱蒼とした陽の当たらないところにいるとき、鼻先をしっとり濡らす空気を感じたものだった。小学生のころに通っていた道場は、先生の自宅の敷地内にあった。砂利を敷いた広い前庭の向こうに、道場の入口が見える。左横には、木々に隠れるようにしてアパートが建っており、先生の家は二階だ。鍵が開くまで、俺たちは道場の扉のまえでちょっかいを出しあう。鬼ごっこがはじまることすらあった。稽古の時間が近づくと、鉄製の外階段を降りる鋭い音とともに、道着姿の先生が現れる。足音が聞こえると、取っくみあうのをやめて、先生にあいさつした。ひんやりした空気に包まれるたび、きまってあの庭がよみがえる。しょっちゅう蚊に刺されて、夏のあいだじゅう、どこかしらがいつも痒かった。
道すがら、市民センターに立ちよった。芝生を敷いた前庭の脇には、樹木が何本もそびえている。真裏にある入口の自動ドアを抜けた。薄暗いエントランスの右手に、ブックポストはある。読みおえたばかりの本を入れた。今回もなんとか読みきることができた。
外はまだ明るい。初夏は夜まで長く感じるけれど、暮れはじめるとあっという間だ。冷蔵庫のなかはよく覚えていないが、夕食に困るほどではないことはなんとなくわかる。納豆はゆうべ食べきってしまったから、買って帰ることにした。生鮮食品でないかぎりは、薬局で買って済ませることが多い。スーパーは少し離れたところにある。いつもよりゆっくりと歩きながら、誰にも聞こえないくらい小さく、鼻歌をうたう。うたいはじめても、なんの曲だったか思いだせない。
外出帰りに寄る客が多いのか、レジには行列ができていた。向かって右奥に進み、冷蔵食品の売場をめざす。三個一組の納豆をふたつ、胸のまえに積みあげて踵を返した。下手に菓子のコーナーなどをうろつくと、よけいなものを買ってしまいかねない。列の最後尾で、レジを打つ店員の手際を眺めながら、鼻歌のつづきが頭をめぐる。辛抱づよく記憶の底をさらっていると「三月の水」だと気づいた。映画の劇伴で流れたのをきっかけに知ったのだった。歌詞の内容を追いかけているうちに、俺の番が来た。
トートバッグをベッドに放り、冷蔵庫を開ける。味噌の横が空いていたので、さっそく納豆を突っこんでしまう。冷凍庫には鶏胸肉、野菜室には玉ねぎ、にんじん、じゃがいもが転がっていた。冷凍ご飯もまだある。真先にカレーを思いついたが、あいにくルウがない。肉じゃがにでもするか。実家では豚肉を使ってつくっていたけれど、妥協する。あとは使いかけのもやしと豆腐で味噌汁でもあれば上等だ。
夕食の算段をつけたが、つくりはじめるにはまだ早い。ベッドにうつ伏せに寝ころがる。テレビのリモコンに手を伸ばした。マットレスに頬杖をつき、地上波のチャンネルを回す。ふだんはネットの配信や動画ばかり観るので、はやりの俳優や芸人にはすっかり疎くなった。以前はうっとうしいだけだったコマーシャルすら新鮮だ。名前を知らない出演者たちが通りすぎる。車、酒、菓子、掃除機、炭酸飲料、買ったことのない品物ばかりだ。おまえの暮らしには彩りが足りない。誰もが口をそろえる。
きのう掃除したばかりの床に、切るまえの長い髪が一本だけ落ちていた。拾おうと手を伸ばしても、あと少しのところで届かない距離だ。かわりに、ベッドサイドテーブルにある本を手に取った。テレビのおしゃべりを聞きながしながら、ページを繰りはじめた。本は、どんなに半端なところで切りあげても悪く思わずに済む。映画やドラマとなると、途中でやめるのが後ろめたい。
母は、俺や妹が読みたがる本には文句をつけないかわり、漫画は読ませなかった。中学校に入り、友人から隠れて漫画を借りるようになると、妹の本に対する興味は薄れていった。俺は漫画に触れる機会を逃した。本ばかり読んでいないで、少しは手つだいなさい。学校が休みの日、ソファで寝そべって本を読んでいると、言われたものだ。
洗濯機を使いなれないころ、妹は気に入っていたよそゆきの服を乾燥機にかけて大泣きしたことがある。母と一緒に買いにいった服だったとあとで聞いた。あのころは、小さなことがいちいち悲しかった。大人になって、彼女は微笑んだ。
今年のはじめ、妹から連絡がきた。お正月の写真だよ、というメッセージとともに、一枚の写真が送られてきた。妹が自撮りしたものだ。父と母、弟も一緒に写っている。撮られ慣れているのか、妹の表情はじかに顔を合わせたときと変わらない。写真で見るかぎり、両親はさほど老けたようにも見えなかった。年末に帰らなかったことには何も言わなかったので、やや虚をつかれた。何かあったのかと訊ねると、みんな会いたがっていたけれど元気なのかと返ってきた。家族のあいだではむしろ、俺のほうに何かあったと考えているらしい。弟は就職した会社で元気に働いているという。俺が早くに家を出たために、言葉を交わした覚えはあまりない。希望通りの仕事に就けたのだろうか。ぎこちない笑顔で写る弟の顔を眺めた。
こんど結婚することになったの。
妹の恋人の顔を思いうかべてみる。印象派の絵画のように、目鼻の位置だけをかろうじて思いだすことができるだけだった。おめでとう。それだけ書いて返信した。手を煩わせて悪かった、とは言えなかった。
読みかけの本をふたたび放りだし、台所に立った。まだ時間は早いものの、腹が減ってきた。母のつくる肉じゃがは、好きだったことばかり覚えていて、肝心の味はよく思いだせない。見ためは覚えているから、野菜の切りかたは真似できる。にんじんは乱切り、玉ねぎはくし切り、じゃがいもは四分の一ずつ、切りおえたそばから鍋に放りこんだ。レンジ任せにしていた鶏肉の解凍がちょうど終わったので、鍋に加える。ガスに点火して油をたらし、ヘラでなじませた。鶏肉の温度が低いために、火をつけるとすぐ、鍋の底から細い湯気が立ちのぼってくる。食材の焼ける音が聞こえてくるのは、もう少しあとだ。水、醤油、みりんの配合を考えないせいで、鍋が煮汁でじゃぶじゃぶになることばかりだった。さいきん、ようやくちょうどいい水加減でつくれるようになってきた。
肉じゃがを煮ている鍋のふたを取ると同時に、小鍋に水と昆布、わたを取ったにぼしを入れて火にかける。すべての料理を冷めないうちに出すのはむずかしい。味噌汁はかんたんに温めなおせるので、とくに冬場の食卓にはありがたい。もやしの残りを鍋に加え、手のひらのうえで豆腐を切る。はなから、きれいに等分にする気はない。これで冷凍の米をあたためれば、食事にありつける。肉じゃがも味噌汁も多めにつくった。数日分にわけて冷凍して、平日の夕飯の足しにしよう。
今夜の肉じゃがのにんじんを食べてみた。母の味ではない気がする。こんど、妹に訊いてみよう。もっとも、そんなことは覚えていないとあっさり応えそうだが。ベッドに放りだしておいた文庫本を取りに席を立つ。椅子に座りなおして、肉じゃがをつつきながら、ページをめくった。
独りで食事をとるのは好きだ。場にいる人数が増えれば増えるほど、その場の空気で満腹になる。食べた気がしない。独りの食事では食欲がわかないという友人もいた。腹が減らないんだよ。会食とか飲み会とかがなくなると、くちびるの端が切れるんだ。栄養不足の症状なんだってさ。幸い、彼は一緒に食事する相手には困らなかった。以前はよく声をかけてもらったが、俺が引っこしてからは断ることが増え、誘われなくなった。
親しい相手と会ったとしても、数時間後には、食卓の椅子が恋しくなる。実家がべつの街に移るとき、処分するからと譲りうけた木製の椅子だ。座ってみると、しんとした冷たさがなじむ。座面は硬く、座り心地がいいともいえないのに、心地いい。俺の身体は、いつもどこかが冷たいのだ。ぬくみに触れる時間が長くなると、ぐらぐらしてくる。椅子はその熱を冷ましてくれる。
誰かと一緒にいることをうらやましいとは思わないけれど、誰かと一緒にいたいとしぜんに思えるとしたら、どんな感じだろうと想像することはある。俺は、妹が結婚することを、たぶん、彼女が思うよりずっと、嬉しく思っていた。
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