Ⅲ
にじんだ汗を拭おうと首筋に触れる。短くなった襟足が手のひらをちくちくと刺した。切りたての髪が、まだ身体になじまない。床屋の店主は、俺の顔を見てもなんとも言わなかった。かといって、素性を言わずにおくのも気が引けて、父の名前と、中学のころに一緒に通っていたことを伝える。店主は軽く口をひらいたまま、一瞬だけ固まって、俺の名前を確かめた。もうそんなに経つか、立派になったねえ。達弘さんは元気?
店主は、家族や仕事のことを聞きたがった。独身の会社員だと伝えてしまうと、もうほとんど話すことがない。仕事がつまらないなら、自分で何かをはじめたらいいさ。達弘さんの会社を継がせてもらうわけにはいかないのか。笑ってはぐらかした。父は再婚した。母には連れ子がいた。俺の五歳下、妹の二歳下で、弟だった。会社を継ぐなら、彼だろう。
父が再婚してから、高校進学と同時に家を出ることを考えた。いっぽう、妹は、時間が経てば経つほど、家族に溶けこんだ。妹には、どんな相手にでも魅力を探しだす心根のやわらかさがある。親戚じゅうに嫌われている大叔父と法事で顔を合わせたときも、嫌われ者と知りながら平気で声をかけ、法事のあいだじゅう話し相手になった。ふたりの笑い声まで聞こえてきた。法事のあと、あんな人なんて放っておけばいいのよと少しきつい口調で母が言った。
どうして。あの人おもしろいよ。みんな何がいやなんだろう。
妹はけろりとした顔で答えた。
部屋は母さんと見にいけ、俺は仕事があるから契約も母さんが一緒に行くよう頼んでおく、家賃は出すから心配するな。高校に進んだら独りで暮らしたいと伝えると、父は用意していたかのように口にした。母は母で、頼まないうちから部屋を見つくろってきた。どうせ引っこすなら、学校とこの家との中間がいいだろうから、このあたりになるかしらと思ってね。合鍵はもらうわよ。食事も洗濯も慣れないうちは大変だし、これから受験もあるんだから。電車で四駅さきの高校に通っていた。実家のある駅からでも通学に不便はなかったが、この際、ほかの町に住むのでも構わない。産みの母が亡くなってしばらく、妹と一緒に家事をやっていたので、必要なことはわかる。
俺と母の話を聴いていた妹が、いいなあ、私も高校に行ったら独りで暮らしたい、と言いだした。絵里ちゃんまでいなくなるの? 早すぎるわよ。まだ一緒に暮らしてそんなに経たないのに。母は寂しい気持ちを隠さない。妹は笑って、じゃあお母さん一緒においでよ、と冗談めかして答えた。
父は何もしなかった。
俺や妹を殴らなかった。怒鳴らなかった。酒びたりでもなければ、賭けもやらなかった。誕生日を迎えても祝いの言葉ひとつ言わなかった。学校のことを訊かず、友だちのことを訊かず、好きな食べものや本や映画など、ふたりの関心ごとについて何ひとつ訊かなかった。何もしないことが正しいと思っていたのだ。用がないかぎり、父は実家に寄りつかない。電話がかかってくると、必ず喧嘩腰で応え、何ごとか言いすてて切ったものだ。
梅雨入りまえの乾いた風が髪をなでる。道端のあじさいは、黄緑いろのつぼみをいくつもつけていた。細かな粒の集まりがひとつの花になり、その数十個の花が、一本の木から咲く。
いつもの店で、コーヒーでも飲もう。
ヘンリーネックの襟ボタンをひとつ外し、腕まくりした。天気予報を見たかぎりでは、長袖でも快く過ごせそうだったが、思ったよりも暑い。
床屋のある駅から自宅の最寄りまでは三駅だ。改札をくぐってホームにあがったところで、ちょうど電車が来た。小走りに乗りこむと、背中でドアが閉まる。遅れて、車内の冷えた空気が身体を包みはじめた。座席は、端っこを除いて虫食いのようにぽつぽつと空いている。年配の女性と男性のあいだに腰かけようと、座席に近づいた。女性が文庫本からわずかに眼をあげる。俺の右腕のうえで、瞳が動きを止めた。腰かけて、腕まくりした袖をおろす。慣れたことだ。
半年ほどまえ、自宅から歩いて五分ほどのところに小さな喫茶店ができた。駅から歩いて十五分ほどかかる立地のためか、休日でも満席にはならない。そのかわり、ひとりが出ると、またすぐに客が入ってくる。携帯電話を家に置いて、二時間ほど本を読みに行くのが休日の習慣だ。誰かから連絡が来ることはまれだが、手元にあると集中できない。携帯電話を家に置きに帰るかどうか、迷った。本はつねに持って出るので、そのまま喫茶店に行っても困ることはない。
向かい側は空席だった。乗客のあいだから車窓を眺める。何度も通りすぎた景色だ。目新しいことは、どんどんなくなっていく。隣に座った女性が、つぎの駅に着く直前に立ちあがる。白いカーディガンを羽織った背中は、すべてを忘れたかのようだった。
けっきょく、携帯電話を置きにいくのはやめて、そのまま喫茶店に向かうことに決める。のどが乾いていた。きょうは冷たい飲みものを注文してみよう。ふだんはホットコーヒーばかり飲んでいる。店主は、俺がブラックコーヒーを好むことを覚えた。砂糖とミルクが必要か、もう訊ねない。
駅から喫茶店までは、歩いて五分ほどだ。パン屋、寿司屋、花屋、洋菓子店と小さな店がひしめく短い通りを過ぎる。各駅停車しか停まらないこぢんまりした駅だが、休日ということもあり、ふだんよりは人通りも多い。遮断機は沈黙している。十歩ほどで踏切を渡りきった。
おおきな病院のある広い通りに出ると、横断歩道の向こうにレンガ色のビルが見える。築三十年近くにみえるが、喫茶店になるまえはなんだったろう。
道路に面したおおきな窓から、店内が見えた。二人がけの席がひとつだけ埋まっている。窓際に座る客の頭が、うなずくように小さく動いた。奥にひとりがけの席も設けられているが、外からは見えない。
ガラス戸をくぐり、「こんにちは」と声をかける。ボブカットの店主が、木製のカウンターの向こうから、明るい声で応えた。ヘリンボーンの板張りの床は磨きこまれ、ほこりひとつない。窓際にはふたりがけが三席、カウンターの横から奥に向かってひとりがけのカウンター席が四席、設けられている。うち、二席が埋まっていた。入口の横には背の低い本棚があった。うえの二段には雑誌や漫画が整然とならび、三段めにはブランケットが丸く畳んで置かれている。先ほど窓から見えた席では、若い女性のふたり組が頭をくっつけるようにして、一台の携帯電話を見ながら何ごとか話し合っていた。旅行の計画でも立てているのかもしれない。グラスには、溶けかけの氷だけが残っている。ふたり組の席からひとつ置いて、窓際のテーブルを使うことにした。トートバッグから財布を出して、カウンターに向かう。注文と会計を済ませると、店主がテーブルまで飲みものや食事を持ってくる決まりだ。
いつもなら何も見ずにコーヒーを注文するところだが、華奢な明朝体で刷られたメニュー表を眺める。そういえば、インスタグラムで、新メニューとしてフルーツティーが出たとの投稿を見た。独りのときは、凝ったものを飲み食いするのも楽しい。
「フルーツティーをお願いします」
財布からポイントカードを探りだす。十個ある枠のうち、すでに六つが埋まっていた。スタンプには店のロゴがあしらわれている。特注したものだろう。店主のこだわりを感じる。
「七八〇円でございます」
財布から千円札を出したのと引換えに、押印済みのポイントカードが差しだされた。
「いつもありがとうございます」
店主が明るい声で言った。何度も通うとは思っていなかったが、このままいけば、二枚めのポイントカードをつくることになりそうだ。おおきな窓を背にして席に着く。店はトラックやバンが多く走る道路沿いにあり、斜め向かいには病院の四角い建物がある。お世辞にもいい景色とは言えないが、くもりの日でも自然光が降りそそぐ。
鞄から本を取りだした。図書館から借りたもので、先週から少しずつ読みすすめている。返却日は明日なので、きょうじゅうに返すつもりだった。病院の隣にあるコミュニティセンターに、図書館のブックポストがある。喫茶店の帰りに寄り、本を返して家路につくのがお決まりだ。以前は小説しか読まなかったが、哲学や社会学などの専門書を好んで読む知人の影響で、図書館であれこれ借りて読むようになった。今回は哲学者の本だ。芸術と社会の関わりについて書いたエッセイで、とくに現代アートを取りあげている。
店主がグラスを載せたお盆を片手に近づいてきた。
「お待たせしました。フルーツティーです」
コースターを敷き、ブルーベリーや輪切りのパイナップル、オレンジなどがたっぷり入ったアイスティーのグラスをテーブルに置く。コースターには、店のロゴがおおきく刷られている。冷たい飲みものを注文したことがなかったので、はじめて眼にした。ごゆっくり、と頭をさげて去る背中を見つつ、グラスの底からコースターをひそかに抜きとる。しおりに使うつもりだった。
「ありがとうございました」
カウンターと席のちょうど中ごろあたりで、お盆を腹のあたりに引きよせたまま、店主が顔だけを振りむけた。横のテーブルにいた女性ふたり組が出ていった。店主はカウンターの内側に入り、布巾を手にホールへ戻ってくる。
ストローをグラスに差してかき回してみた。歯車のように噛みあった氷とフルーツが、かたまりになって回転するばかりだ。グラスの横に、ナプキンをきつく巻いたスプーンがあることに気づいた。俺が店主の説明を聞きのがしたのだろう。
まずは大物からと、輪切りのパイナップルをグラスの壁に沿わせて引きあげる。パイナップルはふた切れ入っていた。見たところ、缶詰を使っている。グラスの縁に顔を近づけるので、犬食いになってしまった。崩れかけた繊維のあいだに、歯がたやすく沈んでいく。シロップ漬けの果物は、自分では買ったことがない。冷たい紅茶に沈んでいても、かじってみると、さみしい味がした。手づくりしたケーキにでも載せてあればいいのだろうか。これを食べるくらいなら、コンビニでもスーパーでも、できあがっているケーキを買ってきたほうがよかったのにと、つくり手にうっかりこぼしてしまう気もする。
黄桃やみかんのシロップ漬けは、子どものころのおやつでは定番だった。果物を食べおわったあとの残り汁を飲むのがひそかな楽しみで、俺がはじめると妹も真似た。いちごに練乳をかけたら、皿の底を必ずなめとっていた。母は笑った。醤油やポン酢をご飯にかけて食べるのも、家のなかでなら許す母だった。
砂糖水に浸かった果物と混じり、紅茶もほんのりと甘い。身体が帯びた湿り気も落ちついた。俺は本をひらいた。
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