マンションのエントランスを出ると、湿度はさほど感じなかった。ふたつならんだゴミストッカーの横を通りすぎて、右手に曲がる。まずは早歩きからだ。ショートパンツのポケットから、携帯電話を出した。ランニング用のアプリを起動して、登録してあるタイマーのスタートボタンを押す。最初のインターバル、五分、堅調。両耳につけたイヤホンから、抑揚のない声が流れこむ。同時に、運動用に組んでおいたプレイリストの音楽がかかった。


 土曜日の七時半となると、出勤する人もなく、歩道も空いていて走りやすい。ランニングに使っているスニーカーは、大学時代から履いている。あちこちに小さな穴があるが、足になじんでいるので買いかえる気にはならない。半袖Tシャツの裾から、風が忍びこむ。


 いつも日用品を買う薬局を通りすぎた。開店後には幟がはためく店先も、いまは沈黙している。隣のブロックは八階建ての病院だ。入口の右横から奥の通りにつながる車両の通用口の端に、パイプ椅子が何脚か畳んである。開院前に、外来の患者が順番待ちするためのものだ。八時半ごろになると、暗い色の服を着た老人たちがならんで座る。通りをぼうっと眺めている人や、うつむき加減の人、背もたれに身を預けてまぶたを閉じている人もいる。本を読んだりパズル雑誌を解いたりする人などは見たことがない。


 ふたつめのインターバル、五分、速いペース。踏切を渡り、信用金庫の支店を通りすぎたあたりで、アプリの機械音声が告げる。浅く息をついて、地面を蹴りだした。ここからはランニングだ。二〇分間、速さを変えながら走りつづける。


 広い通りから、少し幅の狭い通りに入る。スクールゾーンという間延びした文字がアスファルトに刻まれていた。細い車道の横を、金網に囲われたいびつなかたちの公園が、線路に向かって伸びる。突きあたりまで行くと、古い石橋が道路の一部として残っている。昔は川だったのだろう。埋めたてたあと、中途半端にあまった土地を狭い公園にしたのだ。シーソー、すべり台、回転型の遊具などが点々とあり、そのどれも、塗装がはげかけている。線路の近くには、桜の木が二本ある。最初に見たときは、こんなところに公園があって使う人がいるのだろうかと思った。じっさいに何度か通りかかると、ジャージ姿の父親が子どもを抱きあげて桜の枝に触らせたり、老人たちがゲートボールに興じたり、野良猫が我が物顔で横切ったりと、さまざまなものが訪れる。管理をしているらしい作業着姿の男性を見かけたこともあった。公園で遊ぶ子どもを、空のネコ車に載せて押してやっていた。子どもは無表情だったが、そばに立つ母親の、よかったねえ、楽しいねえ、という声が聞こえてきた。


 さらに走ると、線路に突きあたる。高架になっているため、踏切はない。太いコンクリートの橋脚は金網で囲われており、内側では草が生え放題になっている。車通りは少ない。白線は無視して走った。高い壁の向こうには、変電設備がある。黒々した太い電線がいくつも伸び、高架のうえの電線につながる。電車は、ほんとうに電気で動いているらしい。はやる呼吸をしずめて、一定のリズムに近づける。今朝は少し、身体が重い。


 高架をくぐり、繁華街へと向かう道と交差する四つ辻が見えてきた。ひとつの角に、お地蔵さんがある。ちょうど、自動車教習所の入口となっているところだ。あの交差点は、なんとなくいやな感じがする。最初はランニングコースとして走っていた。あるとき、車に気づかず、ぶつかりそうになった。それからは、交差点から一本手前の道を走るようにしている。お地蔵さんのいる道を通る車が多いらしく、手前の道にはほとんど来ない。


 変電所の高い壁に沿って走りつづけた。このあたりに差しかかると、いつもわくわくする。壁のうえには黒い金属製の柵が取りつけられており、所内のようすが垣間みえた。白子を長細くしたような設備が鎮座している。建物には人気がない。点検などで出入りするだけで、管理はべつの場所から遠隔でおこなっているのかもしれない。

 右手に折れると、自動車教習所だ。ちょうど、白い教習車が門を抜けて公道に出ていくところだった。立ちどまり、その場で足踏みする。顔にわっと熱が集まる。教習車が、公道にのろのろと鼻先を出した。免許は持っているが、じっさいに運転する機会はない。いま車に乗ったとしても、眼のまえの教習車とさして変わらない動きをするだろう。


 教習所の脇を過ぎると、こんどは地上に敷設された線路が現れた。踏切は渡らず、線路に沿って走る。線路脇には背の高い金網がつづくが、五月の半ばには、脇に植えられたバラが盛りだった。といっても一本ではない。十五メートルほどつづく金網に、ずらりと植えられている。株によってさまざまな色の花を咲かせた。ざっと思いだしてみただけでも、赤、白、橙、黒に近い赤などがあった。誰が植えたものか、また誰がめんどうを見ているのかはわからない。ひとりでに育つ花ではないはずだ。バラは手がかかると耳にしたことがある。


 踏切のそばの道路脇にも小さな公園があり、敷地の四割ほどを花壇が占める。こまめに手が入るとみえて、雑草もなく、枯れた花がそのままになっていることもない。遊具は隅のほうに小さなすべり台があるきりなのだが、ベンチの数は五つほどあり、座ってゆっくりすることを考えてつくられたらしい。が、すぐ脇が道路、眼のまえが線路に踏切となると、花が多いだけにかえって殺伐とした感じを受ける。


 右手にそびえる公営団地の駐車場に沿って走っていくと、カーブを描きながら、高架のほうへUターンすることになる。ふたつの線路は同じ駅に向かう。三つめのインターバル、三分、堅調。アプリの音声が伝えた。ペースを落とし、深く息をつく。高架をくぐったあたりが折り返し地点だ。コースは、マンションを起点にいびつな円を描く。最初は道を決めずに走っていたのだが、時間や体力を調整するうちに、だんだんと決まってきた。


 泣きながら帰った日、母はまず手と顔を洗ってくるようにと静かに言った。洗面台がびしょぬれになるのも構わず、しゃくりあげながら顔をすすぐ。湯を沸かす気配を耳がとらえた。タオルで顔をぬぐい、居間に入ると、湯気のたつカップと、缶詰の黄桃がガラスの器に盛られていた。カップの紅茶にスティックシュガーを半分だけ入れて、スプーンでかき混ぜる。母は自分のカップにコーヒーを淹れ、何も言わずに斜め向かいに座った。


 やりかえしなさい。わたしがそいつらをぶん殴りにいくことはできないのよ。


 スプーンを抜きとっても渦巻きを描きつづける水面に眼を落としたまま、くちびるを噛む。俺はやられっぱなしだった。担任教師はまだ若く、もめごとを裁くのに手をこまねいていた。カップに眼を落としたまま、母がコーヒーをひとくち飲む。俺が泣いていることには、もう触れなかった。黄桃をちびちびとかじった。


 インターホンが鳴り、母が立ちあがる。ただいま、とスピーカーから妹の声が聞こえた。開けてあげて。フォークを置き、居間から三和土までだらだらと歩いた。鍵を開けるやいなや、扉が勢いよく引かれる。おっそ。悪態をついたくちびるのまま、妹の表情が固まる。とっさに顔を背けた。妹は脇を通りすぎ、家に入った。

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