猫瓶
風待葵
Ⅰ
電波時計が乾いた音で朝を告げた。腕を頭上に伸ばす。人差指が時計の角に触れた。スヌーズ用のボタンを押して音を止め、裏側にあるスイッチを切る。眼玉とまなうらの隙間が、ざらざらしている。まぶたをひらき、天井に向けて両腕をあげた。寝間着の袖がずるりと落ちて、肌があらわになる。点在する三つのあざは、昨晩までと同じだ。かたちはそれぞれちがうが、どれも黒に近い、深い紫いろをしている。ひとつは上腕の内側、ひとつは肘のしわから外側に差しかかったところ、ひとつは二の腕を覆うように、崩れた楕円形が刻まれている。三つのあざは、ときどき腕を突きぬけて、底なしの闇へとつづく穴になった。あいつら、まとめて、ここに押しこんでやる。みんなの輪から離れたところで、肌が焼けるほどに見つめた。消えてほしいとは思わない。あざがある俺と、あざがない俺と、けっきょくは同じだ。どこで枝分かれしようと、ある一点に吸いこまれていく。腕を足元のほうにさらに伸ばして、ゆっくりと身体を起こした。カーテンの隙間から漏れた弱い光が、寝室の床に映っている。
寝起きの頭は重い。使い捨てのアイマスクで、眼精疲労をごまかしながら暮らしている。洗面所の鏡に顔を映すと、まぶたが少し腫れていた。アイマスクをして眠った翌日は、必ずと言っていいほど腫れる。冠羽のような寝癖を人差指で軽くはじき、歯ブラシを口につっこむ。鏡の隅に吸盤で貼りつけた時計は、朝七時過ぎを指している。朝、歯を磨かずに飲み食いすると歯周病を招くという記事を眼にしてから、いの一番に歯磨きをするようになった。
南側のカーテンを開けてみる。くもっているらしく、光が白い。晴れた日の光はもっと黄み混じりで、胸に差しこむ。レースカーテンを細くひらき、電線で区切られた空をたしかめた。
ケトルに残っていた水を台所のシンクに捨て、蛇口を浄水に切りかえた。実家の台所にも、同じ浄水装置があった。水道水をそのまま飲みたくないからと母が取りつけたものだった。装置といっても仕組みはかんたんだ。もともとの給水口の栓を外して、浄水用の給水口と、小さな濾過タンクを取りつける。浄水機能に切りかえると、もとの口から出た水が濾過タンクを通り、あらたに加わった給水口から出てくる。母が亡くなってからも、浄水器は残された。
眠れない夜、水を飲みたくて寝室を出た。すりガラス越しの街灯りをぼんやりと映す台所で、蛇口が銀いろに浮かびあがる。手を伸ばして、スイッチをつかんだ。スイッチにもっとも多く触れたのは、母だろう。絆創膏を巻いた人差し指、親指にできたあたらしい切り傷、冬場に乾燥して赤みを帯びた手の甲、つぶさに観察したことはないのに、はっきりと思いうかぶのが不思議だった。
翌朝、ミネラルウォーターを箱で買ってもらえないかと父に頼んだ。希望は通った。何も訊かれなかった。
歯ブラシをくわえたまま、ケトルに今朝の水を汲む。一.五リットルの目盛りまで、必ず沸かすことにしていた。飲みきらないことも、足りなくなることもあるが、日に何度も汲みなおすのがいやなのだ。
立ったまま、携帯電話の画面を見る。誰からも連絡はない。
三ヶ月ほどまえ、この町に越してきたばかりのころだ。地図アプリを眺めていると、中学卒業まで父と通っていた床屋が近所にあると気づいた。実家は、ずいぶんまえに離れた町に移っている。行ってみようか、やめようか、などと考えているうちに忘れてしまうのだが、髪が伸びてくると思いだす。ついに、きょう行くことに決めた。
規則ただしい間隔で、ケトルが電子音を響かせる。出かけるまで時間があることだし、コーヒーでも淹れよう。台所の戸棚からコーヒーフィルターとドリッパー、引き出しからコーヒー用の計量スプーンを取りだした。カップは、水切りラックに置きっぱなしのもので間に合わせる。これを繰りかえしているので、同じものばかり使ってしまう。ドリッパーにフィルターを取りつけて、カップに載せた。残り少なくなった粉コーヒーの袋にスプーンをつっこみ、一杯分をかき出す。フィルターのうえでスプーンを逆さまにして、ドリッパーの縁に柄を軽く叩きつけた。
ケトルをそっと傾ける。気をつけないと、お湯が一気に注がれてしまう。コーヒー用のケトルも売られているが、とにかく量を沸かしたかったので、選択肢には入らなかった。水分を含んで、コーヒーがむくむくとふくらむ。フィルターの縁から指一本分の高さを残してお湯を注いだ。だいたいマグカップ一杯分になる。夏でも、コーヒーは温かいものにかぎる。ゆっくりと、部屋に香りが満ちていく。
何も見ずに母の顔立ちを思いだすことはできない。
写真を眺めてみても、こんな顔だったかと首をかしげてしまう。笑みの気配だけを、ぼんやり覚えている。写りのいい母は、いつも横顔だった。脳裏に焼きついている写真がある。レストランのテラス席に座り、向かって右手に眼をやっているものだ。いまの俺より二、三歳は若いだろう。母親になるまえから、写真は苦手だったらしい。風が髪をあおり、白い横顔があらわだ。両手をゆるく組みあわせて、肘をついている。テーブルには、赤と白のギンガムチェックのクロスが敷いてある。席に着いたばかりなのか、注文の品が届くのを待っているのか、テーブルには水のグラスがふたつ置かれているきりだった。薄膜の向こうで、テラス席に座った若い母が、こちらを振りむく。瞬間、風がふいに強まり、表情は髪に隠れた。
マグカップを置き、テーブルの隅にある小さな猫瓶に手を伸ばした。手のひらに載せると、ひんやりと重みが伝わる。母が最後にくれたものだ。なかには金平糖が詰まっていた。
ランニングにでも出ようか。コーヒーをすすりつつ、ぼんやり思う。中学生までは空手を習っていた。高校では部活に入らなかったが、ランニングや家でのトレーニングはつづけていた。運動だけはつづけておくこと、細々とでもいいから。母は繰りかえし言った。ただ、運動習慣が潰えないのは、むしろ父の影響がおおきい。若いころはスポーツマンだったらしいが、知っているのは運動嫌いの太った父だけだ。ちょっと無理するだけで肉離れを起こすのに、若いころはこのくらい跳べたと、胸あたりに手をかざしながら話した。
家族とは、昨年の正月から顔を合わせていない。年末年始くらいは顔を出さなくてはと思いこんでいたため、こちらから連絡して帰るようにしていた。ふと、放っておいたらどうなるのだろうと試したところ、今年は帰らないのかと妹から連絡がきた。仕事が立てこんでいて云々と返すと、了解のひとことがあったきり返事はなかった。
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