異変

ってことは……、名前がってこと??」

 魚沼と虎松は互いに顔を見合わせた。


「これ……」

 少女は二人の前にスッと一冊の本を差し出した。


「教科書……?」

 目の前に置かれたのは国語の教科書だった。表紙の隅には某有名出版社の名前が表記してある。


「裏を見てくれませんか……?」

 少女の言葉通りに教科書の裏を見る。下の方にサインペンで名前が書いてあった。――そう、新学期のはじめに配られて、無くさないようにと担任からの忠告に従い、その場で書いたような文字。

 けれど――。


「二年四組 水越●晴」


 名前の一文字が黒く塗り潰されている。

 

「うわっ、何これ、いじめ??」

 魚沼は思わず口に出した。

 少女は首を横に振る。

「違う!違うんです……」

 泣きそうな顔で鞄から他の教科書やノートを取り出す。そのどれもが同じだった。名前の最初の文字と思われるところが濃い黒色で塗り潰されている。その色はサインペンでもボールペンでもない。ましてや墨汁でもない。けれど闇のようにどっしりとした黒い色。吸い込まれそうなそんな黒い色。

 

「朝、起きたら――」

「……?」

「朝起きたら、お母さんもお父さんも、私のこと●晴って呼ぶんです……!」

 今にも泣きそうな、ではなく水越みずこしという苗字の少女は既に大粒の涙を流していた。

「と、友達も、部活の先輩も……、みんな、みんな……、いつものように、笑顔であたしの名前を呼ぶんです……!でも、でも……みんな、あたしの名前……、ちゃんと呼んでくれないんです……!」

「え、あ、ちょ……」

 明らかに取り乱した水越に虎松は慌てて駆け寄る。

「あたしの名前、そんなんじゃないってことは分かってます、分かってるのに……」

 ヒックヒックとしゃくりを上げながら彼女の訴えは続く。

「じ、自分の名前が……、なんだったのか、どんな文字だったのか、それが思い出せないんです……」

 二人は唖然とした。


「ここは何でも引き受けてくれるんですよね……?」


 水越の言葉がよぎった。

「何でも」というにも限度がある。

 ましてや名前を取り返してほしいだなんて、前代未聞の依頼内容だ。魚沼は頭を抱えた。

「申し訳ないけど、その、こういった依頼は流石にちょっと――」

「ここは何でも引き受けてくれるんですよね?大人のくせに看板に堂々と掲げたことも出来ないんですか!」

 水越は詰め寄るようにキツく言う。

「うっ」

「看板や広告で大袈裟にうたうのは犯罪です!」

「うぅ……」

「……姐さん、これは引き受けましょう!いや、もう引き受けるしかないです……!」

 虎松は頭を抱える魚沼の肩を叩いた。


「また来ます……」

 連絡先を伝えたあと、目を腫らしたまま水越はとぼとぼと帰って行った。


「魚姐さん、あの子の話信じます……?」

 水越が去ったあとの扉を見つめたまま、虎松は言った。

「え、うそ、信じてなかったの?」

「いや、なんかその、ただ、なんだか可哀想になっちゃって……」

「まぁ、それは分かるけど……」


 名前が盗まれるだなんて甚だおかしい。

 けれど水越の様子から、魚沼は事が尋常ではなさそうだと感じていた。


 しかし、盗まれたものが思い出せないのであれば、探しようもない。


「さて、どうしましょうかね……」

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