その日は朝から大粒の雨が降っていた。しかし、私が仕事を終えて保育園を後にする頃には雨は上がっていた。仕事に熱中していて、いつ雨が止んだかという事には気が付かなかったので、私には雨が陽炎のように立ち消えたと感じられた。駐車場の脇に停めていた白い軽自動車のフロントガラスは、微かに濡れていた。その具合から、数時間前に雨が止んだのだろうと目星をつけることができた。

 肩から提げた大きなトートバックの中から、文庫本ほどのサイズの小さなサイドバックを取り出し、その中から車のキーを手に取った。

 車に乗り込もうとすると、車内は不快な気怠さを孕んで湿っていた。それもまた、雨が降っていた事実を私に報せた。

私は運転席に座り込むや否や、シートベルトを締めるよりも先に、窓を全開に開け放した。冷たい風が助手席側から流れ込み、運転席側へと流れた。澱んだ空気が排出されていくと、それはまるで車が呼吸をしているようだった。ブレーキペダルを踏みこみながら、キーを捻ってエンジンをかけると、駆動音とともに心臓が動き出したという心地がした。

 前日に高校時代のアルバムなどを開いたせいか、私は浅い眠りから揺り起こされるように、その当時の事を思い出していた。


それは私と日奈との出会いについての記憶である。別れの確約された出会いであり、まだ絶縁を知らない幼気な少女たちの姿を、ゆっくりと私は呼び起こした。記憶は不鮮明な部分を要しながらも、確かに形として思い出すことが出来た。

 高校一年、十五歳の春。薄桃色の花弁が散ってはアスファルトを染めていく様に、人々が出会いの季節などという名前を付ける時期。そんな時期に私は日奈と出会った。

 私と日奈の出会いに特別な彩りはなかった。物語の始まるような予感も無く、劇的な変化の兆しもなく、流暢で優雅なメロディーが頭に過るようなことも無い。辞書を引いたら真っ先に出てくるような出会いであり、コンビニに行けば、どの店舗でも必ず置いてあるような、陳腐な出会いであった。

 私たちは日常的にとりとめのない会話をした。会話の内容うんぬんでなく、多くは会話を交わすことに意味があった。時間を一人で消化していない事、誰かと意思を疎通させていること。互いが互いを必要としていること。発した言葉に対して、返って来る言葉があること。会話は手段の一つであって、そういうことが何よりも大切だった。

しかし、当時はそれを真剣に考えるようなことも無く、直感的に選び取り、享受していた。

私たちの間には、常に普遍的な時間と事象があった。まるで、朝食のトーストと共に、ゆっくりと喉を流れる温かいコーヒーのように。それは淀みなく流れていた。

出会いや過ごした日々と同様に、私も日奈も特別な人間ではなかった。どちらも圧倒的な勉学の才に恵まれていたわけでもなく、頭一つ抜けた運動能力が備わっているわけでもなく。また、傾国の美女のような容姿が備わっているわけでもなかった。一般的という言葉を体現していたとまでは言えないが、そのカテゴライズから大きく逸れることのない範囲内に定まっていた。私たちは、そういった普通の女子高生であった。

私は十五歳女子の平均的な身長よりも少しばかり背が高く、逆に日奈は平均よりも少しだけ背が低かった。日奈は自身の背が低い事を特に気にしていなかった。私は、周囲よりも頭一つ分だけ背が高い事を気にしていた。意中の男子が背の低い女子の方がタイプだという噂を聞きつけると、真剣に背を縮める方法を模索したりもした。私は大真面目だったが、日奈はその話を聞くと大笑いして、一週間の間は私を馬鹿にした。

私は肩を少し超す程度にまで髪を伸ばしていて、日奈は肩よりも高い位置でさっぱりとショートヘアに切り揃えていた。私は骨太で肉付きが良く、日奈は骨細で、肉付きが悪かった。そしてどちらかというと私は内向的で、日奈の方が外向的であった。それらの違いを挙げだすと、まるでキリがない。

何かと、私は日奈を羨むことが多かったように思う。私にとって日奈は隣の青い芝生だった。

私たちには共通点よりも相違点の方が多かった。思えば、二人が似通った部分を真向いで突き合わせるようなことは、数える程しかなかった。そして、その数える内の一つが絶縁という結果をもたらした。

例えば、凸凹が向かい合い衝突すればうまくハマる事があり、一つの四角が出来上がる。けれども、凸と凸、或いは凹と凹が向かい合うと、それが四角になることは無いのだ。共通項こそが衝突を生み出すのだと、当時の私はそれを知らなかった。

多くの共通が無くとも、私たちは深く共感しあうことが出来ていた。そして、少なくとも私はそれを難儀に感じてなどいなかった。日奈がどう感じていたのかは、もちろん分からない。日奈はそういう事をまるで口にしなかったし、態度にも出さなかった。

まるで毎朝の歩き馴れた通学路を歩くように、私は自然に友人であることが出来ていた。誰かと友人になることに明確な定義が存在するのかは分かりかねるが、私は日奈とはまるで何かに運命づけられて友人になったとさえ思っていた。

しかし、今更どのように足掻いてみせようと、例えば藁に縋ろうと、その全てがあくまで褪せた記憶の中での出来事であることは変わりようがない。今となってはその事実だけが、私の中には残っていて、刃物のように鋭く、内から冷たく心臓を刺すのだ。

 息を吐くと、もうすっかりと車内の空気は入れ替わりを終えていて、後はただ、冷たい夜風が私の身を凍えさせるばかりであった。

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