翌週の土曜日、私は病院を訪れた。

そこは県でも五指には入る大きな病院だった。真っ白な壁面を基調としてデザインされており、院内には計算しつくされたかのように、作為的に日光が差し込んでいた。建物そのものが何かのオブジェクトのようで、清潔や医療を模しているかのように思えた。一瞬、立ち入るのを躊躇いたくなるような、威圧感にも似た雰囲気があった。

私は事前に花から日奈が入っているという病室の番号を聞いていた。院内の見取り図を確認して、だだっ広いエントランスを横目に抜けると、一直線にその病室があると思しきフロアへと向かった。

部屋に向かうまでは良かったが、病室のドアの前に立つと急に足が竦んだ。ドアに手をかけようか、どうしようかと逡巡している内に周囲の目線が気になりだして、私は後ずさりをして、目的の病室の前を通り過ぎた。直前にして、恐怖の波が高まりを迎えてしまったのだ。

誰かが病室から出てくるタイミングで、中の様子を覗き見ることが出来ないだろうか。他の見舞客が訪ねてこないだろうか。遠目から病室を眺め、そんな淡い期待を抱いた。目的地はすぐ近くに在るのに、意味も無く病院の真っ白な廊下を歩き回った。

すれ違う看護師や病棟の受付員たちからは、奇異の目を向けられていたようだった。しかし、私はそんな視線を気にする余裕すら無くし始めていた。フロアへの階段を上る、日奈の病室の前を静かに通り過ぎる、上ってきたのとは反対側の階段を下る。一階下の廊下を歩いて、また階段を目指す。その工程を一周として、作業のように繰り返した。同じ所をぐるぐると歩き続けて、幾周目かにして、私はとうとうすれ違う看護師の一人の顔を覚えてしまった。長い長い時間が過ぎていた。

 意を決し、ようやく日奈のいる病室のドアに手をかけることが出来た時には、病院を訪れてから一時間以上が経っていた。

 私は大きな音を立てないように細心の注意を払った。亀が歩くよりも、蝸牛が歩くよりもゆっくりと横開きのドアをスライドさせた。横開きのドアを開けるのに、ほとんど音は鳴らなかった。故に、部屋の主は私の来訪に気づかなかった。

 真っ先に、真っ白なベッドが目についた。ベッドは部屋の中央に位置していた。病室の中はカーテンから零れる淡い光に浸されていて、まるで光の湖のようだった。どの病室も同じような造りなのだろうか。もしくは、この病室が特別なのだろうか。私はそんなことを考えながら、ゆっくりと部屋の細部の情報を目で拾っていった。

 その湖の中で半身浴でもするみたいに、日奈は半身を起こしてベッドの脇に固めた枕を背にして、窓際に向かい寄りかかっていた。

私は言葉も無く、思わず目を奪われた。日奈がその片手に美しい装丁の本でも携えていれば、有名な絵画のモチーフだと言われても信じ込んでしまいそうな光景だった。視野内に映る全ての映像がどこか幻惑的で、私に居心地の悪さを感じさせた。それはちょうど、先日の夢の中の心地と似ているようでもあった。

現実の日奈は手には何も持たず、カーテン越しに窓の外をじっと眺めていた。窓の外には、病院の駐車場という面白みのない風景が広がっていた。その風景からは、駐車場にトヨタ車が何台あって、日産車が何台あるのか。というようなことを数えるくらいの楽しみしか得られなそうになかった。

彼女の頭には白い包帯が巻かれたいた。包帯は不気味なほどに真っ白だった。まるで天女の羽衣を剥ぎ取って、切り取ってきたかのように見えた。私は花の話を思い出し、その包帯の奥にあるという数針縫った傷を思い浮かべた。彼女の額を貫いた針と、その傷を抱合した清潔な糸の事を考えた。

 私が一歩分だけ彼女の方へと歩を進めると、日奈はその微かな足音に気づいたのか、私の方を振り返った。彼女の短い髪の毛先が揺れて、それがまた映画のワンシーンの様だった。

突然の来客に日奈が驚く様子は無かった。私は彼女に見つめられて、足を止めた。一体、彼女がどんな第一声を発するのかと気が気でなかった。本来、こうして顔を合わせる機会などは二度とないと思っていたのだ。私は罵倒も激昂もあらかじめ想像することで、その衝撃に備えた。しかし、実はそうならないことを最も強くイメージしていた。

何よりも温かな受容をイメージしては、その都合の良いイメージをかき消すためだけに、冷ややかな拒絶をイメージしていた。

心臓の高鳴りを抑え込むように生唾を飲み込み、彼女の瞳を見つめ返した。ずうっと見つめていると、私はその黒点に吸い込まれそうになった。

 彼女は言葉よりも先に相好を崩した。その表情に思わず、私は実家で飼っていた愛犬の事を思い出した。もう、随分と昔に死んでしまったが、私が家を出る前、大学生のころまでは毎日のように散歩に連れていっていた。そんな愛犬が待ちわびた飼い主の帰宅を喜んで、大きく尻尾を振る姿と、目の前の日奈の表情とが重なった。

 日奈は私の目を見てもう一度微笑むと、口を開いた。

「早紀、全然来てくれないから。何かあったのかなって、逆に私が心配しちゃった」

 彼女は自然に私の名前を口にした。形骸化した朝の挨拶のように自然に。上流から流れる川が下流へと下っていくように。車のエンジンをかけ、シフトレバーをドライブに入れる動作のように。そうすることに慣れ過ぎているように。当たり前に。

それはあまりにも自然な動作過ぎた。そこに、怒りや拒絶が隠されているとは到底思えなかった。私は直感した。日奈は、私との絶縁を記憶してはいない。その記憶を失ってしまったのだ。

気が付くと、彼女の不自然な自然さに充てられて、私は無意識に返答していた。

「花から話を聞いたのは先週。仕事もあるから、平日は来れなかったし。翌週の土曜にすぐ来ただけでも、偉いもんでしょ」

 まるで学生時代のように、自然な台詞が口を衝いて出た。そのことに驚いていたのは、部屋の中で私だけだった。

「友達が事故に遭ったなんて聞いたら、仕事なんか休んででも来ない?」

「生憎、そんな簡単に休める程、気の利いた職場じゃないの」

 私が首を振って答えると、日奈は不服そうな顔を浮かべた。何よりも自分を優先してほしかったとでも言いたげな表情だった。私は苦笑いを返した。

 私は、日奈との会話が普通に成立してしまっていることに、そこはかとない気持ち悪さを覚えていた。会話という行為に取り組みながら、自分が発した言葉を一言も覚えていられなかった。頭はただただ別の事を考えていた。

日奈が、絶縁の記憶を失ってしまっているという確信が欲しい。

どうにかして、私はそれを確定させたかった。推察を明確に証明する手段と方法を模索していた。

日奈の発した言葉だけは環状線のようにぐるぐると、私の脳内を回り続けていた。休むことなく、延々と。その列車は如何様にして止まるのだろう。終着駅はどこにあるのだろう。私は思考の合間にそんなことを考えた。自身の一挙手一投足が、絶縁の事実の有無を決定づけると思うと、何気ない相槌を打つことにすら息を呑みたくなった。おのずと私は言葉に慎重になった。間合いを図るように、それを選ばなければならなかった。

「花から、記憶が曖昧になってるって聞いたけど」

 私が尋ねると、日奈は困った顔をした。そして、不安を滲ませた声で、よく分からないけれど。という前置きをつけて話を始めた。

「主に大学時代の記憶がごっそり抜け落ちてるみたいなの。でも、記憶は抜けているのに、知識は抜け落ちていない。お医者さんが言うには、それは保管されている場所が違うからだって。脳の仕組みって難しんだね。色々説明されたけど、全然分からなかった」

「なんだか、パソコンみたいだね」と私は言った。

日奈は、よく分からないという風に首をかしげた。

「今の日奈は、パソコンで言うところの特定のフォルダが削除された状態って訳でしょ。そのフォルダは消えてしまったけど、別のフォルダにしまわれていたファイルやデータは消えてないってこと」

 日奈は私の説明を理解できなかったのか、大きく首を振ってみせた。

「ううん。それ以外の事は全部を覚えているかと言われると、それがそうでも無くて。例えば、早紀の事とか、高校時代の事はしっかり覚えてるんだよ。でも、大学時代の記憶がないことで、それ以降や以前の記憶も所々あやふやになっているみたいなの。記憶にまつわる記憶というか。抜け落ちた記憶と連動していた記憶も、朧気になっているみたい。それも説明されたんだけど、よく分からなかった」

 日菜は、聞いてきた話をそのまま口にするように話した。その話は、私が聞いても分かるような内容ではなかった。

「そうなんだ。まぁ、機械と人間は違うよね」

 どうしてピンポイントで大学時代の記憶が抜け落ちたのか。数あるフォルダの中から、その一つが選ばれたのか。私はそれを尋ねてみたい衝動に駆られた。そう都合よく、絶縁の記憶のみが消えることなどあるのだろうか。

しかし、日奈にそれを聞いても、まともな回答は得られそうになかった。何より、よからぬ方向に刺激して、万が一にでも日奈が絶縁の記憶を思い出させてしまうことが恐ろしかった。なにも、寝た子を起こす必要はない。本人は、消えた記憶が存在していた事さえ、よく分かっていないのだ。何がきっかけになるのかも良く分からなかった。

「私の事は、どのくらい覚えてる?」

 私は代わりにそんな質問を投げかけた。一歩ずつ、距離を詰めるように質問を選んだ。

日奈は少し考えるような素振りを見せた。静かに目を閉じて、何かを辿るように指先を微動させていた。それは、古くからの日奈の癖だった。ピアノの調律師が一音ずつ音を合わせていくように。空想の鍵盤を叩いて、音を確かめるかのような仕草だ。

私にはそれが、丁寧に記憶のチューニングを行っているように見えた。

 そのチューニングを終えると、日奈は口を開いた。

「全部覚えてると思うよ。だって友達の事まで忘れてたら、流石にこんな明るく振舞えない」

「友達」

 日奈が口にしたその言葉を、私は思わず復唱していた。その言葉が出てくることを、何処かで予期していたはずなのに、私は思わず面食らってしまった。

それは、私にとって一つの証明材料であった。それでいて、確信を得るには十分足る根拠だった。やはり、日奈は私たちの絶縁の記憶を保持していない。失われた記憶の中、或いはそれに付随して朧気になった記憶の中にそれが含まれていたのだ。

「なに、不満? 親友とかの方が良かった?」

「親友」

 私は思わず、また復唱した。その言葉が誰の口から誰を指す言葉として発せられているのか、理解が追い付かなかった。私たちは遥か昔に、その言葉や関係に終わりを告げたはずだった。なのに、彼女は一方的にその関係を保持していると主張するのだ。

頭の中では日奈と親友として過ごした時間と、決別した時との記憶とが交互に、そして断片的にフラッシュバックしていた。それはまるで古い映画で流れるモンタージュの様だった。しかし、その映像はどこか不鮮明にも思えた。断片的な記憶の欠片の中で、どれが本物で、どれが私の生み出した偽物なのか。どれが空想で、どれが現実なのか。私は、その判別をつけることが出来なかった。日奈が記憶を失ってしまったという事でさえも、私が都合よく生み出してしまった幻想なのではないかと思えた。

日奈の内から絶縁の記憶が失われたという事は、それは私の中にのみ取り残されてしまったということだった。そう気が付くと、私は途端にそれをとても重たく感じた。今までと変わらずそこにあるものの、忘れていた重さをしかと思い出したかのような感覚が私を襲った。それは無気力な朝の倦怠感に、よく似ていた。

「どうしたの、早紀。さっきから、何か変じゃない?」

日奈は苦笑いを浮かべていた。私は彼女の笑顔に、どのような表情を返せばよいのか分からなかった。

日奈の内から、絶縁の記憶が失われてしまったこと。彼女の認識は、私との関係値が友人のままで止まっていること。それが何を意味するのか。何を意味させることが出来るのか。それを考えることで、私の思考の容積は溢れ出しそうな程に一杯になった。そこに他の思索が入り込む余地はなかった。私はただ、目の前の日奈ではない日奈の事を考える事しかできなかった。

 曇りのない眼で日奈に変だと言われると、本当に変なのは私なのかもしれないという気持ちになった。絶縁はもはや私の内にしか存在していない。絶縁は白紙に戻されてしまった。それが本当に存在したという事を証明することは出来ない。いまやそれを証明できるのは、私の記憶という、一方的で主観的なものだけなのだ。

私は常に、絶縁の記憶は自分の中にのみ存在する痛みだと思っていた。しかし実のところ、私たちはそれを二人で抱えていたのだ。おかしな話だが、私たちは絶縁の記憶によって途切れたという事実と、二人の繋がりを保持していたのだ。互いが痛みを共有することで、それを成立させていたのだ。

私の記憶と、日奈の記憶。どちらが真実性をもっているのかは、もはや分かりようがなかった。少なくとも、もう私の真実は、日奈の真実たりえないというのが現実だった。その二つを正しさの天秤に乗せた時、秤はどちらに振り切れるのだろう。

私は、思い続けていればそこに真実さえもが宿るような気がした。絶縁など無かったと、私が割切ってしまえばいいのだ。

 刹那的に、やり直せる、という言葉が私の頭を過った。これは天に与えられた機会なのかもしれない。私の記憶と人生を腐してきた苦虫を吐き出すための機会なのだ。私がそう捉えれば、それはそうなる。選択権は私に与えられているのだ。

紛れもない好機であった。私はそれを好機にすることが出来た。

 私は日奈を見た。彼女の額に巻かれた真っ白な包帯から、その全身を包む薄緑の病衣、僅かに細くなったように見える頼りない足首、その先の親指から小指の爪に至るまでを見た。じっくりと丁寧に。まるで何かの点検作業であるかのように、穴が空くまで彼女を見つめた。

 日奈はもとより風が吹けば飛ばされそうな程に細かったが、病院という環境も相まって、その程度が誇張されて見えた。私の感情が形になって彼女を襲えば、その骨ごとぐちゃぐちゃに砕いてしまいそうに思えた。

「ごめん。なんか、実感がわかなくて、ぼうっとしてた」

 日奈は私の返答をよく分からないという風に聞き流した。そのまま大きく伸びをして、乱れた病衣の隙間から、薄氷のようなデコルテを覗かせた。

そして、いつまで入院していなくてはならないかだとか、病院食の味は薄くて口に会わないだとか、病衣の着心地は割といいだとか、部屋がなんだか狭く感じるだとか、退院したら一緒に甘いものが食べに行きたいだとか。

日奈はそんな他愛もない話や愚痴を、とても楽しそうに話した。あとはそこにドリンクバーがあれば、かつての私たちの完璧な放課後の時間を再現することが出来た。

 私は日奈に当たりさわりのない、壁あてのような相槌を返し続けた。すべての事柄に全力で一喜一憂出来ていた頃のようには振舞えなかった。私は、何か意味のある言葉を発することが出来なかった。彼女の一挙手一投足の全てがどこか造り物のように思えた。

日奈は随分と長い間、休むことなく喋りつづけた。私は、日奈の身体のどこかにぜんまいがついていて、それが回り続けているのではないかという妄想をした。まるで、古いオルゴールのように。

そして、そのぜんまいが止まり、ピタリと日奈が動かなくなる瞬間を思い描いた。その時は誰がぜんまいを巻くのだろうか。それは、あまりにも空虚で意味のない妄想であった。

 時計の短針が数字一つ分ずれた頃、日奈は話に疲れたのか大きな欠伸をして、息を吐き出した。ベッドを浸していた光は、いつの間にか厚い雲に遮られていた。影が光の湖を黒い池に変貌させていた。日奈はもう一度大きな欠伸を一つした。

 その欠伸を最後まで見送ると、私は口を開いた。

「まだ、本調子じゃなさそうだし。あんまり長居してもだから。今日は帰るね」

 私は一刻も早く、その場を離れてしまいたかった。少ない荷物を手に取ると、何かから逃げるように、そそくさと椅子から立ち上がった。

「別に、もうちょっと。ゆっくりしていけばいいのに」

 日奈は残念そうな顔を浮かべてそう言った。私には、それが日奈の容をした別の何かが喋っているように見えた。その光景におぞましさすら覚えた。

「何よりもまずは回復しないと。よく休んで、よく寝る事。都合があえば、また来るから」

 言い捨てるようにして私は踵を返した。日奈は私に小さく手を振って、やはりどこか不満を漂わせながら見送ってくれた。

廊下に出て、早足で部屋から遠ざかっていくと、途端に現実との距離感を取り戻していくような気になった。私はゆっくりと呼吸をした。

私は今まで、本当に現実の中にいたのだろうか。あの病室は、どこか隔離された別の世界に繋がっていたのではないか。あの部屋にいたのは、本当に日奈だったのだろうか。

まるで白昼夢を見ていたような気分になって、日奈の病室の方を振り返った。病室のドアは重く閉ざされていた。その奥に広がる世界を、光景を、私は上手く思い出すことが出来なかった。ドアの横には、確かに日奈の名前のネームプレートが掲げられていた。

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