花が日奈の名前を口にした後、私は上手く反応を返すことが出来なかった。それが予測出来ていた名前であったにも関わらず、簡単な相槌を打つことさえも忘れて、私は古い記憶の回想に耽っていた。

「日奈が先日…と言っても、もう1か月以上も前になるけど、事故に遭ったの。交差点の右折レーンで、直進する対向車が流れていくのを待っていた所に。彼女の軽自動車に向かって、中型の輸送トラックが突っ込んできた」

 花はとても落ち着いた口調で言った。そのことから、既に何度かこの話をしてきて、話に慣れているのだと分かった。繰り返す内に、感情的にならずに、必要な情報だけを伝える方法を理解してきたのだろう。花の落ち着きが私には有難かった。おかげで、私も冷静に言葉を受け入れることが出来た。

私は一体、この話を聞く何人目なのだろうか。そんなことをほんの少し考える余裕すらあった。しばらくもしない内に、それが本題から大きく乖離していることに気づいた。順番を考えることが何になるだろうか。それを考えることの無意味さが身に染みて、やがて思考を放棄した。

私は短く息を呑んだ。よく、ドラマや映画で目にするような凄惨な事故の現場を、頭の中で思い描いた。大量の火薬を使った派手な爆発のシーンが真っ先に頭を過った。そしてぼんやりと、そういえば日奈との絶縁からどのくらいの時間が流れたのだろうという事を考えた。

私が思い出すことの出来る彼女の姿は、常に学生の時分を離れなかった。そのせいで、私の想像はまるで要領を得なかった。今の日奈が事故に遭ったという事実が、頭の中で上手く形にならなかったのだ。それは、私とは縁もゆかりもない人間を日本中から無作為に一人選んで、選ばれたその一人について、あらゆることを想像してくださいと、そんな出鱈目な無理難題を吹っ掛けられているようだった。

花の口調は、まるで絵本を読み聞かせるかのように聞こえた。丁寧でありながら、何処か現実味を欠いている。私の中には、もう長い事、昔の日奈しか生きてはいなかった。それは私の記憶の片隅にのみ棲み続ける、古い日奈だ。花が語っているのは、私の記憶には姿形も無い、現在の日奈だった。その二人を並べると、花の話に出てくる登場人物の日奈は、知らない誰かのようにさえ思えた。

「幸い、トラックのスピードがそこまで出ていなかったおかげか、命に別状はなかった。とはいっても頭を強く打ち付けて、額を数針縫うような怪我をしたんだけど」

 花はそこで一度口ごもると、半分程残っていたジョッキの中の液体に口をつけ、そのまた半分になるまで飲み干した。私は自分のジョッキに手を伸ばそうとして、その途中で手を止めた。行き場を無くし、蝶のように虚空を彷徨った手を膝元へと戻して、黙って花の言葉の続きを待った。

「…ただ。頭を打ったショックで、記憶が曖昧になってしまったみたいなの。早い話が、記憶喪失というやつ。それがどういう原理で起こって、彼女から何を奪っていったのかはまるで分からない。私も日奈と話をしてみた。日奈が一体何を覚えていて、何を覚えていないのかも、この1カ月で少しだけ分かり出してきた」

 花はそこまで話すと大きく息を吐いた。

店の入り口の方では喧騒の声がしていた。どうやら、一組の団体客がやってきたようだった。スーツを着た二十人余りの集団は、まるで烏の群れの様だった。私は電線の烏に目を奪われるのと同じように、彼らの姿を意味も無くぼうっと眺めた。そして、呆然のままに口を開いた。

「記憶喪失」

 オウム返しにその言葉を繰り返した。その言葉を確かに頭に定着させるように、指でなぞりながら読みあげるように口にした。視界の隅で僅かに花が頷いたのが見えた。

「そう、記憶喪失。或いは記憶障害だとか、解離性健忘症とも言われたりするらしい」

「何と言うか、そういうのって、物語や創作の世界の中だけの話だと思ってた」

「早紀にとっては、そういうのって現実味がない?」

 花の問いに私は小さく頷いた。非現実的な物語の中の規則やルールを、突然に目の前に持ち出されたかのように思えたのは事実だった。

「そう。シンデレラが12時の魔法にかけられるのと、ちょうど同じように」

 花は、シンデレラと来たか。と私の発言に苦笑した。そして、少し考えるような素振りを見せた。

「ある物語というのは、現実を最大限に誇張した話に過ぎないとも言われるらしいよ。その境目なんていうのは、実は私たちが思っているよりも適当で曖昧なのかもしれない」

「じゃあ実際に、この世界のどこかにもカボチャの馬車に乗った魔女がいるとでも?」

 今度は私が花の発言に苦笑してみせた。

「でも、そうじゃないとも言い切れない。私たちが実際に、この世界をくまなく歩いて見て回ったわけでもないんだから」

「そんなこと、あるはずないでしょ」

 そう言いながらも、私は花の言葉にどこか納得していた。この世界をくまなく探し回れば、どこかにカボチャに乗った魔女の一人くらいはいるかもしれないと思った。

「仮に魔女がいなくても、記憶喪失の日奈は現実に存在する。そしてそれは、世界中を探し回らずともね。明日にでも病院に行けば、その目で見ることが出来るの」

 花はまたしても断定の口調で言い切った。私はその発言を持て余した。右手の指の爪を、親指から順に眺めて乾燥の具合を確かめ、何か思索に耽っているフリをした。

「それで、花は私にどうして欲しいの?」

 私が意地の悪い質問を投げかけると、花は一瞬困ったような表情を浮かべた。嫌悪感こそ滲ませてはいないものの、瞬間的な困惑までは隠しきれていなかった。花はすぐさま困惑の表情を隠して、微笑むようにして答えた。

「別に、どうして欲しいという事はないよ。欲を言えば、あの時からずっと、二人にまた仲良くしてほしいくらいの事は思ってる。それは何度か、直接伝えた事もあったっけ。二人のそれぞれの友人としてね。ただ、二人の事は、私が早紀に頼むような事じゃない。もちろん、日奈に頼むような事でもない。あの出来事に対して、私はどう足掻いても第三者の目線を抜け出せないの。故に、どちらの側にも立たない。それが、当時の私が選んだ答えだったから。今更、中立であることを崩すことは無い。思うことは、願いや祈りのようではあっても、決して懇願になってはならないの」

 花の言葉には、微かな諦念と感情の制御が入り混じっているように聞こえた。

そこには一種の真実が曝け出されていて、また一種の真実は隠されているように見えた。そういった場合、場に晒された真実のみが唯一の真実性を得る。私はそれを真実として、話を進める他なかった。

私は、彼女の中には私の知らない世界があり、また、知らない時間が流れていることをひしひしと感じざるを得なかった。私の知っていた花は、常に感情をむき出しにして生きているという訳でもないが、努めて感情を隠したり、制御したり、偽ったりしようとはしなかった。それが彼女の長所であり、短所でもあった。しかし、目の前の花はその術を知っているように思えた。知っているどころか、自由で便利に使いこなしていた。

「私たち、大人になったんだね。いつのまにか」と私は言った。

「そりゃね。何は無くとも、一年に一歳ずつ年を取るから」と花が答えた。

 年を重ねるという事と、大人になるという事は果たして同義なのかと私は思った。それを花に尋ねてみたかったが、少し考えてやめた。そして、ゆっくり口を開いた。

「昔はさ、とにかく感情に言葉が追いつかないって感じだった。感情だけが常に先走ってて、言葉は周回遅れもいいとこでさ。何とかついてきてるみたいな。そんな感覚だったんだよ」

「でも、当たり前に会話も意思疎通も成り立ってたよね」

 花が笑いながら答えた。曖昧な昔という言葉を、花は同じ時間として捉えてくれたようだった。私にはそれが嬉しかった。私は小さく頷いて、話を続けた。

「そう。あの瞬間は、言葉なんて付随品に過ぎなかったんだよ。でも、なにもかもを共有することが出来てたと思う。今思うと、どうやってたんだろうって、不思議だよ」

「…今は、何が違うと思う?」

 そう尋ねてくる花は、自分の中にはその答えが明確にあるという面持ちだった。私は、彼女は自分がいつ大人になったのかを明確に理解しているのではないかと思った。

あるいは単に、私の回答を聞いて答え合わせがしたいのかもしれない。その表情を見て、その答えが私のものと同じだと推測することが出来た。

「今は、言葉に感情が追い付いてこないよ。あの有名な童話のウサギとカメみたいに。いつの間にか立場が逆転しちゃってた。口を開けば、言葉は出てくるのに、そこに感情はほとんどないんだよ。感情を制御して、感情を諦めて、ただ無味無臭な言葉だけを吐き出してるって感じがする」

 吐き捨てるようにそう言うと、私はジョッキを手にとって、その中の液体を飲み干した。そして、ジョッキをテーブルに置くのと同時に店員を呼びつけた。すぐに、厨房の方から若い大学生のような店員がやって来た。私は生ビールを一杯注文した。そのタイミングで華もジョッキを空にすると、追加でもう1杯のビールを注文した。店員が愛想よく頷き、厨房へと戻っていくのを私たちは二人で見送った。

 二杯目のビールは一分と経たない内に運ばれてきた。私はそれを一気に飲み下したいような気分になった。粗野にグラスを掴んで、その縁に口をつけて、荒々しく喉を鳴らした。

やがて喉の奥がきゅっと締まって、それ以上の液体の流入を拒むサインを出した。グラスをテーブルの上に置くと、液体は半分も減っていなかった。それでも、アルコールが胸を浸し、その容量を満たす分を、私は吐き出さなくてはならなかった。

「正直な所、日奈に会う、自信も勇気もない。ついでに言うと、その資格があるとも思えない。彼女に会って、私は何を話すべきなのか、どんな顔をすればいいのかも分からない」

 私が言うと、花はどうしてか笑顔を浮かべた。顔色を変えず、彼女もジョッキを呷った。

「怖い?」

 それは核心を突いた質問だった。まさしく、私の内にあるのは恐怖に他ならなかったのだ。ただ、その恐怖は純粋な恐れのみから成るモノではなく、幾つかの感情が入り乱れた上で、総合的に、或いは統合的に恐怖として排出されたモノだった。私はそれを恐怖と呼んでいいのか分かりかねていた。花にそれを突きつけられてようやく、私は恐怖の形を自身の内に認めることが出来た気がした。

清々しい程に直線的な質問に、私は誤魔化しを用いて答えることが出来なかった。

「怖いよ、そりゃあ。何かが起きてしまうことも、何も起きないことも。感情の振り子がどちらかに振り切れてしまうことも。思い出せなくなることも、思い出すことも。与えることも、与えられることも。どっちも怖くて仕方ない」

 自分の言葉が僅かに遅れて聞こえてきた。世界そのものが、数秒遅れで進行しているようにも思えた。アルコール特有の脳内が綿菓子のように軽くなる浮遊感が、私の判断と思考を鈍らせていた。

「どう。言葉に追いついてきた?」

 花は浮かべた笑顔を悪戯っぽく変化させた。その笑顔の奥に、一瞬だけ学生の彼女が姿を覗かせたように見えた。私の知らない彼女が増えてもなお、私の良く知る彼女が死んだわけではないのだ。当たり前のことが頭を衝いて、私はそれをゆっくりと咀嚼した。その言葉が脳に染み渡るのに、少し長い時間がかかった。

「どうだろう、よく分かんない」

 私がそう答えると、間を空けずに、花が口を開いた。

「分かんないなら、会ってみるしかないんじゃないの?」

 私はジョッキの縁を指でなぞった。水滴を指で拭って、ジョッキの中に残っている液体を眺めた。

花の言うように、会えば分かるのだろうか。言葉が見つかるのだろうか。

私は、自分が何を探しているのかさえも良く分かっていない。何を分かるべきなのかさえも分かっていない。

グラスの縁から伝った水滴は、テーブルの上に小さな水溜まりを作っていた。私はどうしてか、幼い時分にピンク色の長靴を履いて、水溜まりの上で跳ねて遊んでいたことを思いだしていた。問題とは何の関係の無い記憶の、無意味なリフレインだった。

「まぁ、考えておくよ」

 にべもない私の曖昧な返事に花は口を出さなかった。対して、私は何か口出しをされることをどこかで期待していた。明確な動機を、きっかけを、花から与えて欲しかったのだ。

しかし、花は何かを確信しているかのような表情で、黙って私を見つめているだけだった。どれだけ待っても、言葉を投げかけてくることは無い。態度ひとつでそれを表していた。

記憶喪失の日奈は、私との絶縁の記憶を失っているかもしれない。或いは、私の存在すらも忘れているかもしれない。あらゆる可能性を想像することが出来て、私の脳はアルコールにブレーキをかけられながらも、忙しなく働いた。

 夜はゆっくりと街を侵食し始めていた。私はふと、今朝見た夢の事を思い出した。

真っ白な思考のキャンバスの上に、私に何かを真剣に語りかけようとする日奈の姿を丁寧に描いた。それが天啓なのか、或いは運命にも似た作為なのか。その真偽は分かりようも無かったが、私には一つ確信めいたものがあった。

私は、何かの流れに身を攫われる気がしてならなかった。

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