二月上旬。街を包み込むように吹く夜風は、まだ少しばかり冷たかった。

その日、いつものように一日の仕事を終えた私は、駅から歩いて5分とかからない場所にある居酒屋に向かっていた。私は日常的にお酒を呑む習慣があるわけでもなければ、無類の酒好きという訳でもない。その日は友人との約束があったのだ。

ベージュというよりは薄い泥のような色をした年季がかった暖簾をくぐると、店内は明るい光で包まれていた。週の終わり、喧騒が街を包み込む時間帯、なにより華の金曜日の割には店内の客はまばらだった。閑古鳥が鳴いているという程ではないがカウンターの席はほとんど空いていて、テーブル席にもいくつか空きがあった。少なくともその様子を見て、お世辞にも繁盛店とは言えなかった。

店主と思しき髭の生えた男は慌てる様子も動じる様子もなく、じっと自身の目の前で燻っている炭火を見つめていた。それはまるで、三時間を超えるような長い映画の感動的なラストシーンを見ているかのような目つきだった。一瞬のみを見ているのではなく、これまでの時間の全てをも見通しているかのような、揺らぎのない安定した目つきだった。私はその目に安心感を覚えた。客の入りに関わらず、誠実な人間が切り盛りしている店であるという印象を受けた。

そして、もしかすると残りの席は全て予約で埋まっているのかもしれないと思うことにした。これから、何十人単位の団体客が何組もやって来るのかもしれない。

しかし、それは私には分かりようのない事であったし、また分かる必要もない事だった。そんな事よりも、運ばれてくるビールの液と泡の割合は適切であるか。唐揚げは適切な温度の油に適切な時間だけ浸されて、綺麗なきつね色をしているか。料理を運んでくる店員の愛想は良いか。フードメニューの中に、冷奴はあるか。そのような些細な事の方が、私には遥かに大切であって、気にしなければならない事であった。

ただ、やはり髭の生えた男の表情には、これから店は忙しくなるのだ。と言わんばかりの自信が見て取れた。たちまち、多くの人で店内がごった返す。そんな想像を抱かせる余裕のようなものが見て取れた。

 私はテーブル席の一つに友人の姿を見つけると、そのまま対面の席に腰を下ろした。

「お疲れさま」

 花は形式的にそう口にした。誰もがそうしているように。そこに真の労いの意を込めることなく、日常の挨拶や相槌と同じようにだ。

 お疲れ様、と私も同じ言葉を返した。花はそそくさとテーブル上にメニュー表を開くと、私の同意をとりながら、手際よく注文を決めていった。私は、生ビールとシーザーサラダ、冷奴と唐揚げは必ず注文してほしいという要望を伝えた。それ以外の注文は、花の一存に任せることにした。私は自分で物事を決めるというのが苦手だった。

一通りの注文内容が決まると、花は近くの店員に声をかけ、まるでアナウンサーが重要なニュースを繰り返し伝えるように、ゆっくりと注文を伝えた。とはいえ、花の方は復唱などしなかった。しっかりとした声で一度、丁寧に注文を告げるだけだった。

店員は不慣れな様子で、注文の内容を書き留めながら復唱した。胸の辺りには研修中と書かれた名札をつけていた。店員はもごもごと喋っていて、喉の奥にティッシュペーパーを詰め込んでいるかのような声をしていた。その声は非常に聞き取りづらかったが、私はその不満を表情に出すようなことはしなかった。

 店員が何かを言い終えて厨房の方に下がっていくのを見送ると、私は華に向かって口を開いた。

「それで、話って何なの?」

 私がそう口にすると、花は目を明後日の方向に逸らした。

誰の目にも明らかに言い淀んだ態度を露わにして、口を真一文字に結ぶ癖を見せた。

私は、花のその癖を、とても久しく目にした。そして思わず、懐かしいと思った。彼女の明け透けな性格からして、その癖を目にかかれることは非常に稀なことだった。

 私にはそれが良い話であるのか、悪い話であるのか、見当もつかなかった。花が何を話そうとしているのか、その見当をつけれるだけの判断材料も足りていなかった。花が私を急に呼び出すときは決まって、仕事の愚痴か恋愛のいざこざの愚痴というのがお決まりではある。ただ、今日もそうなのであれば言い淀む必要などない。渋ることも無く、開口一番に話を始めるはずであった。

花と私は付き合いの長い友人であったが、(そしてその関係が進行形で続いている)私は彼女の全てを知り尽くしているわけではなかった。学生の時分ならいざ知らず、社会人となっては、毎日同じ時間を同じ速度で過ごすことなどありえない。大抵は、それを伝聞なんかで知ることになる。今では、私の知らない時間を生きる彼女の方が、遥かに多くて長い。それはつまり、私たちがそれぞれの組織や社会という場所で生きているという事を表していた。

またそれは同時に、彼女も私の全てを知り尽くすことなどは出来ないという事でもあった。そういうことを考えるとき、はたまたそう言う事実を受け止めなければならない時、私はなんだか人知れず寂しくなった。大人になればそういうのは自然に受け入れることが出来るようになると思っていたが、まったくもってそんなことは無い。

私は黙り込んだ花を見つめた。彼女が言い淀むに値する何かがそこには顕在しているという事実だけが、思考を埋めつくした。

 私は特に言葉を足すことも無く、彼女が話を始める瞬間を待つことにした。店員がビールやサラダを持ってくるのとどちらが早くなるかは分からなかったが、私が今日ここに呼びつけられた以上、花にそれを話そうとする意志があることは明白であった。私が待っていれば、自然の内に彼女は口を開くだろう。それは、どんなに不安な夜でも目を瞑っていれば、自然に朝が来るようなことに近かった。

彼女もまた、単に言葉を探していたり、話の順序を定めかねていたりしているだけかもしれない。そんな風に思うと、私は何時間でも待っていられるという気がした。

 花には特段、焦っているような素振りは見受けられなかった。沈黙が場に行き届き始めても、普段と変わりのない表情を浮かべ続けていた。私は、少しくらい罰の悪そうな表情を浮かべたらどうかとも思った。花の態度はこのまま数時間という時間が流れても、永遠に口を閉ざし続けているのではないか、と悪い予感を抱かせる程だった。

それはまるで、必要なことは全て口にした後のような表情にも見えた。どこか別の時間に取り残されて、私だけがそれを取りこぼしてしまったのかもしれない。長い沈黙の間に、私は半ば真剣にそんなことを考えていた。

 やがて、先ほど店員に注文を伝えた時のように、ゆったりとした口調で華は口を開いた。

「何というか。言葉にするのがとても難しくてさ。というよりかは、どこからどう話すべきかを決めかねるというか。あらゆるものが散乱した部屋の中から、何か特定のものを探し当てるような気分なんだよね」

 花の言葉は要領を得なかった。その言葉に思わず私は尋ねた。

「それは、私に関係のあること? それとも、関係の無いこと? というのは例えば、それは花の個人的な悩みや問題の話なのか。それとも、私にも関係のある問題の話なのか」

この質問に、花は即答した。

「もちろん。早紀にも大いに関係のある話。でないと、わざわざ、今日呼び出したりしないよ。…というより、早紀にこそ話すべき話だとも思ってる」

 早紀にこそ話すべき話。

やけに含みのある言葉を、私は頭の中で反芻した。断定を嫌うような口調が、やはり普段の彼女とはかけ離れていた。時に心配になるほどに、何でも直球で言ってしまう。目の前の花には、いつもの気持ちよさや、思い切りの良さがまるで感じられ無かった。

花は店内を一周するように見渡して、話を続けた。

「ただ、私にはそれを早紀が知りたがっているかどうかは分からないじゃない。これは、当然の事だけど、私は早紀本人ではないからさ」

 花の言葉に私は小さく頷いた。花は、その動きを確認すると話を続けた。

「もしかするとそれは、私が早紀に知って欲しいというだけの事なのかもしれない。いわば、私のエゴ。だってその話は、早紀にとっては必要のない事かもしれない。というより、不要なものかもしれない。だから、話すべきかどうかというのを、実は未だに決めかねているの」

 そこまで告げると、花は再び黙り込んだ。それは先ほどのように話す言葉を探っているというよりも、相手の言葉を待つような態度に見えた。リレーバトンを次の走者に渡し終えた後のような、そんな類の清々しさが感じとれた。

私は選択権が自分に委ねられたことを察した。その話を聞くか聞かないか。それを知るべきか、知らざるべきか。バトンは渡され、そのどちらをも私は選べる状態にあるのだ。

肝心なことは、選択は常に不可逆でなくてはならないという事だ。

私は昔から、二者択一を選び取るのが苦手であった。一方を選ぶ時、私は必然的にもう一方を捨てることになる。知ってしまったが最後、知らない状態に戻ることは叶わない。聞いてしまったら、聞かなかったことには出来ない。選んでしまったが最後、選ぶ前の状態には戻れない。その不可逆を思うと、私はその権利を放り出したい衝動に駆られた。選択とは、二つの責任のいずれかを負うという事だ。与えられた時点で、責任からは逃れられない。

私はふと、先日足を運んだショッピングモールでの光景を思い出していた。それは一組の親子の何気ない会話だ。子供のおねだりに対して、どっちか一つだけよ。と現実的に諭す親の姿を思い出す。それはとても現実的に、二つは選び取れないという事を、こどもに正しく告げるような口調であった。優しく諭すように。或いは、それが世界の仕組みであることを教えるように。決定づけられていることは変わらないように。曖昧な記憶の中で、母親の口調が私に対して語り掛けるように聞こえた。

どっちもはダメ、どちらか一つだけよ。

 そして、わざわざ花がそんな前置きをするという事は、その話はかなり深く私に関わっている可能性が高かった。それでいて、花が言い淀むような話という訳だ。条件をすり合わせていくと、該当しそうな答えはそう多くなかった。ほとんど直感的に、私は話の主体が誰に移るのかを察した。私たちに共通する第三者。それは予感に過ぎなかったが、私にはその予感が当たっているという直感があった。

私は、何者かに自分の根幹に近い部分を触れられる様を想像した。自身が一株の植物になって、その根っこから引きちぎられる映像が頭に浮かんだ。私はまだ地面を掴んでいたいのに、強引な第三者の手によって、私は地面から引き離されるのだ。こともなく、呆気なく。

それは酷く現実味を欠いていた妄想にも関わらず、微かな痛みを孕んでいた。私はこめかみを抓るようにして押さえた。

「それは、私が選ばなくてはいけないという事?」

 私がそう尋ねても、花は何も答えてくれなかった。彼女はただ、真っすぐに私の目を見返して、その答えすらも私に委ねられているのだと告げているようだった。

「ただ一つ、私から言えることがあるとするならば。どちらを選んでも、私はその選択を尊重するということだけかな」

 花は、今度は断定にも近い口調で言った。その台詞の後に少しばかり長い沈黙が流れた。注文を取ったのとは別の店員がビールと幾つかの料理を運んでくるまで、その沈黙が崩れることは無かった。

 私は目の前に置かれたジョッキグラスを手に取ると、グラスの中のビールに口をつけた。その液体は店内の照明の光を浴びて、まるで午前6時の朝焼けのように輝いていた。私は遠慮も無く喉を鳴らしながらグラス半分ほどまで飲み切ると、音をたてないように優しくグラスをテーブルへと置いた。

「どちらにせよ、聞かなければ何も始まらないんでしょう」

 私はそう言って花の目を真っすぐに見つめ返した。例えばそれが玉手箱のように、開いてはいけない類のものだったとしても。現状、私にはそれが玉手箱なのか、はたまた夢と驚きが詰め込まれたプレゼントボックスなのかは分かりなどしないのだ。

私は、それを開くより他なかった。花と重なった互いの視線は、了承を告げる暗黙の合図であった。その瞬間、確かに私と花はそこに言葉を介在させず、意思の疎通を図った。

 花は自身の目の前に置かれたジョッキグラスを持ち上げ、私と同じように半分ほど飲み切ると、それから大きく一度息を吐いた。

「日奈について。川上日奈について。ひとつ、話しておくべき事があるの」

 花は少しばかり表情を強張らせた。花の揺らいだ目が、彼女の事を覚えているかと私に問うているかのように見えた。

もちろん、忘れるはずも無い。

忘れるはずも無く、忘れようとしたことさえ、私は鮮明に覚えている。それは私の直感が告げた人物と相違無かった。

私は花の目を見つめ返した。それで覚えていると答えたつもりだった。

彼女の瞳の中に写る私の姿は小指の爪よりも小さく、掴めるのはその朧気な輪郭だけで、細やかな表情までを読み取ることはできなかった。

恐らく私は、花よりも更にひどい表情を浮かべていただろう。

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