空蝉を抱きしめる

糸屋いと

日奈が私に向かって口を開いていた。

私はそれを眺めている。テレビの画面でも眺めるみたいに、ごく自然に。彼女が何かを喋っているという事は分かるのに、私の耳には、肝心なその声が全くと言っていい程に聞こえなかった。どうしてだろうか。私は疑問に思うのだが、それは彼女が目の前にいることに対してなのか、声が聞こえないことに対してなのか、よく分からなかった。或いは、その二つは私にとって、ちょうど同じ塩梅で入り乱れていた。その真ん中に私は立っていた。

絶えず、なおも日奈はしゃべり続けた。それはまるで、無声映画を見ているかのようだった。彼女の口だけははっきりと動いているのに、そこに伴うはずの声や音だけが何処にもないのだ。それが失われているのか、或いは初めから無かったのかさえ、私には分からなかった。私はじっと彼女を見つめた。しかし、何かが変わるようなことは無かった。

日奈と私は古い友人だが、それは古い友人でなくてはならなかった。だからこそ、目の前で何かを伝えようと試みている日奈の姿に、私は違和感を覚えた。私の知り得る事実と保持している記憶が確かならば、それはあり得ない光景だった。

私は、声が聞こえないという旨を彼女に伝えようと試みた。しかし、その空間では私の声も、同じようにまるで聞こえなかった。自分では、人生で経験のない程に大きな声で叫んでいるつもりなのに、それは蚊の鳴くような音にさえならなかった。音が耳に届くとか、届かないという以前の問題に思えた。そこには、完全な静寂だけがあった。

 少しばかりして、私は一度深い息を吸い込んだ。そして、この世界には音が無いという事実を認めた。よくよく周囲を見渡すと、細やかな風景の解像度は朧気だった。

例えば、目についた看板の文字が判別できない程に歪んでいたり、建物の細部が粗雑であったり、私たち以外の人が誰も居なかったり。そういった情報の一つ一つを、私は砂浜に散らばっている貝殻を集めるように拾った。見慣れた街の真ん中に立っているようだったが、そこは全く知らない場所だった。記憶のどこにも存在していない場所だ。

私はゆっくりと、そこが現実ではないことに思い至った。現実ではないという事は十中八九、ここは夢の中だろうと私はあたりをつけた。そう考えると、不思議で曖昧な世界の全てが腑に落ちた。

 音のない世界で、目の前の日奈だけがまだなお、私に何かを伝えようとしていた。

彼女は、世界に音が無いことに気づいていないのだろうか。私はそれが気になった。ここが夢の世界だと知らないのだろうか。或いは、その上で何か伝えようとしているのか。だとすれば、一体何を。

しかし、それを彼女に尋ねる術は無かった。なにせ、その世界には音が無いのだ。小さな疑問を口にすることも叶わない。何かを伝達する術がない。如何様にしても、私の声は目の前の日奈には届かないのだ。

私は努めて冷静になろうと試みた。現実離れした世界で(現実ではないのだが)、私は正常な判断がつかなくなっていた。

そして、夢でもなければ彼女が私に懸命に何かを語り掛けようとすること。そんな目の前の光景が現実にはありえないということを、正しく思い出した。

私たちは、とうの昔に絶縁した仲だった。私はもう、長いこと彼女の顔も見ていなければ、声も聞いていない。それは全部、遠い昔の記憶として、ただ風化して薄れていくだけのものとして私の中にある。友人としての関係は、欠片さえもどこにも残っていない。

 日奈が私に何かを伝えようとする。それは表現に困ってしまう程に、とても単純なことである。しかし、現実では起こりえない事なのだ。起こり得てはいけない事なのだ。少なくとも、私の認識しうる現実においてはそうである。

私は、その場所が夢であるという予想を確信に変えた。夢でなければ、私と日奈がこうして相まみえることはあり得ないのだ。

 日奈は絶えず口を開き続けた。上唇と下唇とがくっついたり離れたりして、白い歯をのぞかせて、絶えず何らかの言葉を生み出し続けているのが分かった。その様はとても真剣なものに見えた。しょうもない話題を口にしている、つまらない冗談を言っているという風ではなかった。彼女の表情や態度は、何か言わなければならない事のある人間のそれであった。

私は閉口して日奈を見つめた。何を生み出しているのだろうと思った。言葉が無意味な世界で、彼女は何を真剣になっているのだろうか。何をそんなに、真剣に言わなければいけないことがあるのだろうか。それはどうして今なのだろうか。疑問符が一つ浮かぶと、類は友を呼ぶように、次々と疑問が溢れてきた。それがあまりに止めどないので、私は適当な所で疑問に思う事を諦めた。

もう一度日奈を見つめ直した。全体的にぼんやりとした世界で、彼女の像だけがはっきりとしている。手を伸ばせば届きそうな目の前の光景を、私は気が遠くなる程に遥か遠くに思った。それは現実と空想(もしくは、現実と夢)との距離感そのものであったのだろう。私が超人でもなければ、数百キロ先や数万キロ先の声が耳に届くはずも無いように。そのような指標では計ることすら叶わない、確かな距離の乖離がそこにはあった。

 やがて、私は彼女の声を受け止めようとすることも諦めた。耳を傾けようと試みる事さえ拒んだ。なるがまま、静寂の世界を受け入れた。

諦めて、受け入れる。

私はその世界でもそうする他なかった。そうする他ないというのは、どうしようもないという事だった。

 それでも、日奈は何かを喋りつづけていた。私の事など、まるで気にも留めない様子で。しかし、確かに私に向かって。ただ、それはもう私にはどうでもいいことであって、日奈の姿を見つめていても、粗雑な風景の一部となにも変わらなかった。

諦念が冷たく身を包む頃、世界にようやく一つの音が鳴った。それは随分と聞き覚えのある音だった。

その音がスマートフォンのアラームだという事に気が付くのに、長い時間はかからなかった。現実との境目が曖昧になってきているのだ。夢の終わりが近づいている。私がそれを認めると、目の前の世界が激しく白んで、歪んでいくように見え始めた。

覚醒が近いと私は察した。目の前では日奈が絶えず喋りつづけている。

「ごめんね」

 私は音のない世界で、声にならない言葉を日奈に向かって発した。

日奈は、頷くことも、手を振ることもしなかった。やはり、どちらの側からも声は聞こえていないのだろう。そもそも、私が自分の夢の中に作り出した彼女に自意識などあるはずも無かった。仮にあったとしてもそれは、私が都合よく象ったハリボテの自意識だろう。それはいわば、中身のない空蝉と同じだ。

 その世界で私が目を閉じると、白んでいた風景は瞬間的に暗くなった。私の瞼が、その世界を閉じたのだ。白から黒への切替は、テレビの画面を消したかのようだった。

 目を開くと、真っ白な天井が広がっていた。それは毎朝見上げている天井に相違なかった。私はそのまま、じっと天井を見つめた。そこには紛れもない現実の世界が広がっていた。

私は夢の記憶などまるで無かったかのようにベッドから身を起こすと、いつものように朝の身支度を始めた。

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