深夜の飼育場

俺は40歳手前で転職した。理由は…まあ、言いたくないようなことばかりだ。前の職場でのトラブル、そして家族との衝突。気づけば家も職も失い、再出発を余儀なくされていた。そんな俺が辿り着いたのは、有名な動物園の『深夜帯担当』の飼育員。夜の動物園で、次の日に向けての準備や夜行性の動物たちの世話をする仕事だ。年下の先輩たちばかりだが、そこそこ打ち解けて、今では充実した日常を送っている。


ただ、一つだけ拭えない未練がある。それは前の職場で出会った『あの子』のことだ。彼女とは同僚だった。若くて輝いていた彼女の姿が、今でも頭から離れない。俺の中では、彼女は失敗した人生の唯一の希望だったのかもしれない。


そんなある日、いつものように夜、動物園へと向かった。時間はいつもと同じ深夜。集合時間ギリギリだったが、他の飼育員が誰一人いなかった。妙だと思っていると、携帯が鳴った。上司からの電話だ。


「今日は体調不良者が多いから、君一人でできるか?やり方はマニュアル用紙があるはずだ。それを見ながら進めてくれ。」


仕方がない。俺はその場でマニュアルを手に取り、読み進めた。普段は担当しない『食材準備』も含まれていた。動物たちのための餌を準備するのは簡単だと思ったが、ふと目に留まったのが『肉の加工』という項目。マニュアルによれば、決まった時間に搬入口に届く肉の塊をミンチ機に入れるだけの作業らしい。機械任せだし、難しいことはない。


最初に面倒な作業を片付けようと思い、俺は搬入口へ向かった。そこには大きめの段ボール箱が一つ、ぽつんと置かれていた。妙なことに、その段ボールから聞こえてくる音があった。小さく、どこかで聞いたことがあるような泣き声…。


俺は驚きながらも、恐る恐る段ボールを指定された場所まで運んだ。そして慎重に段ボールを開けた。


その瞬間、俺の心臓は止まりそうになった。段ボールの中にいたのは、ボロボロのスーツを身にまとった『あの子』だったのだ。


「どうして…」


震えながら彼女を見下ろした。彼女は痩せこけ、頬はやつれ、目はどこか虚ろだった。声にならない声を上げながら、彼女は俺に向かって手を伸ばした。その瞬間、俺は背筋が凍りついた。


何が起こっているのか理解できない。彼女は死んだはずだ。前の職場で事故に遭い、彼女の葬儀にも出た。俺はその時、心の中でずっと彼女に別れを告げていたはずだった。


それなのに、なぜここに彼女がいるのか。


彼女は俺の名前を呼んだ。かすれた声で、弱々しく、それでも確かに俺の名前を。俺はその声に引き寄せられるように、彼女に手を差し伸べた。その瞬間、彼女の顔がねじれ、恐ろしい笑みを浮かべた。


「やっと、見つけた…」


その言葉を聞いた瞬間、俺は意識を失った。


目が覚めた時、俺は動物園の地面に横たわっていた。朝日が昇り始め、周囲にはいつものように働く同僚たちの姿があった。だが、あの夜のことは誰も知らない。誰も『あの子』のことを見ていないと言う。


ただ、一つだけ。俺の手には、あの段ボールの一部が残っていた。それには彼女の名前が書かれていた。


それ以来、俺は深夜の動物園に一人でいることが怖くなった。どこかで、彼女がまだ俺を探しているような気がしてならないのだ。

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