「蘇峻の乱」

 外鎮との関係が不穏を増す中、咸和二年(327)は明けている。


 この咸和二年は冬以前の記事が少なく、正月に遥か西方、東晉領域の西端である寧州で刺史尹奉等が、益州(蜀)の李氏(李雄)に勝利した事と、先の祖約の「鎮西將軍」を除けば、晉に関する「人」事は述べられていない。

 ただ、人事に依らない記事は多く、三月に「益州地震」、四月に「旱」・「豫章地震」、五月に「日有蝕之」・「京師大水」、更に五行志には「京師火」と、天変地異が相次いで記録されている。五行志の「火」は「水」の誤りかとも思えるが、事実であれば、建康は大水、火災と相次いで災禍に見舞われた事になる。

 これ等は庾亮等執政の不德、そして、不吉の予兆と受け止められた事であろう。

 なお、「晉」以外の記事では十月に「劉曜使其子胤侵枹罕、遂略河南地。」と、前趙(劉曜)が枹罕を攻略し、「河南」を平定した事が見える。この「河南」は河南郡ではなく、西方、秦州の河水の南で、涼州に拠る張駿との界になっている地である。

 この地を平定した事で、劉曜は後顧の憂い無く、同じく後方の徐州を平定した石勒と対決する事になる。


 一見、大事の無い儘に時が過ぎ行く中、小さな問題が生じている。その原因となったのは「琅邪人卞咸」なる人物である。庾亮傳に依れば、彼は「宗之黨」、南頓王宗の党与であり、共に誅殺されたと云うので、趙胤の指揮で殺された事になる。彼の兄、卞闡は逃亡して蘇峻の下に奔り、庾亮がその送致を命じたにも拘わらず、蘇峻は彼を匿ったと云う。

 蘇峻は彼以外にも多くの亡命者を納れ、威刑を專らにしていたと云い、蘇峻傳には「撫納亡命、得罪之家有逃死者、峻輒蔽匿之。」とある。罪を犯した者、つまり、広義では朝廷の意に從わぬ者を受け入れ、更には「銳卒萬人」を擁した蘇峻の存在は「禍亂」を為すものと認識されている。


 ところで、この「卞咸」であるが、劉遐死後に反した故將の中に、同姓同名の「督護卞咸」がいる。この卞咸は劉遐傳に依れば劉矯によって斬られているが、兗州から徐州へと南下してきた劉遐の下に「琅邪人卞咸」がいたとしても不思議は無い。であれば、どちらかの死が誤りである可能性がある。或いは「宗之黨」であったのは卞闡自身であろうか。

 更に憶測すれば、卞咸(又は卞闡)が「宗之黨」であったならば、劉遐故將の反には南頓王宗の意が働いていた可能性もある。つまり、確証はないが、劉遐故將の反が朝廷(庾亮)による外鎮統制の一環であるだけでなく、庾亮と南頓王の暗闘の一幕でもあった可能性が指摘できる。


 ともあれ、卞闡の一件で蘇峻への警戒を強めた庾亮は彼を大司農(蘇峻傳:「加散騎常侍、位特進 」)として徴し、その軍権を奪おうとする。外鎮に在る武將を昇進の態で召還し、実質、その軍と切り離すという方策は、間々、行われるが、魏の征東大將軍・都督揚州諸軍事であった諸葛誕が司空として徴された事で反した様に、逆に反乱の契機となる事も多い。

 晉では、やや事例が異なるが、驃騎將軍・開府儀同三司・侍中・都督揚江二州諸軍事・領中護軍であった淮南王允が、趙王倫によって太尉とされ、兵権を剥奪されんとした事で兵を挙げた例がある。

 弊害も大きい方策であれば、王導・溫嶠・卞壼以下「舉朝」げて反対するが、庾亮はそれを断行している。果たして、蘇峻は從わず、祖約と結び、十一月に反す事になる。


 蘇峻は「長廣掖人」とその傳にあるが、長廣郡に屬するのは挺縣であるので、その誤りとされている。ただ、掖縣も長廣郡が嘗て屬していた東萊郡に屬する縣である。共に青州であり、その半島部突端に位置する郡である。

 蘇峻は劉遐などと同じく、「永嘉の乱」の中で、流亡する人々を聚め、郷里を防衛するも、次第に追い詰められ、南下する事になる。ただ、彼の場合、南下の理由は青州刺史曹嶷との不和にあると云う。

 ともあれ、元帝の節度下に入った蘇峻は、劉遐等と共に周堅(周撫)を討伐し、淮陵內史に任じられ、以後、蘭陵相・淮陵內史・臨淮內史と転じて、沈充・錢鳳鎮圧の功により、持節・冠軍將軍・歷陽內史・加散騎常侍とされた事は、既に述べている。

 郷里や流亡を糾合し、それ等を保庇しつつ戦うという、この時代の典型的な將の一人である。その点では郷里との関係が、「其の父が餘兵を領す」程度しか見えない趙胤が、むしろ、やや異質とも言える。逆に、そうした郷里を背景としない点が、王導・庾亮等の信任を受けた理由の一端であるかもしれない。

 一方で、嘗て趙誘も係わった湘州に於ける「杜弢の乱」が「巴蜀流人」から起こり、それ以前、荊州にて王如等が關中への流人の送還問題からっている様に、流亡を背景とした問題が騒乱を引き起こす事を思えば、庾亮の警戒も故無き事ではない。まして、蘇峻は兵権を握って建康の対岸に在るのだから、「亂」を危惧するのは当然とも言える。ただ、その対処は結果として拙劣であったと言える。


 庾亮は乱への初期対応に於いても過ちを犯している。尚書左丞孔坦、及び司徒司馬陶回が蘇峻反すを聞き、王導に対して「及峻未至、宜急斷阜陵之界、守江西當利諸口、彼少我眾、一戰決矣。若峻未至、可往逼其城。今不先往、峻必先至。先人有奪人之功、時不可失」という策を述べた事が、孔坦傳(卷七十八)に見える。

 早急に「阜陵之界」を断ち、「江西當利諸口」を守り、速やかに「其城」に逼り、一戦すれば、「眾」である我が方(官軍)が勝利できるというものである。

 「當利諸口」(當利口)は歷陽東方の江水の渡しで、後漢末、劉繇が袁術の軍を阻む為、その將張英を配した場所である。この地点で江を渡れば、やや南方に晩年の王敦が拠った于湖(姑孰)、北上すれば、王導が石聰迎撃に際して至った江寧がある。

 「斷阜陵之界」が判り難いが、阜陵は歷陽の北方で、先の「涂塘」を築くべき一帯であるから、北の壽春に在る祖約との連携を阻止するという事だろうか。祖約の援軍が至らず、蘇峻の軍が「少」である内に、歷陽に逼り、これを討つべきという策である。

 言わば速戦の勸めで、王導はこれを是とするが、庾亮は朝廷が虚となるという理由で却下している。


 なお、援兵となるべき祖約は、蘇峻が彼を崇め、「執政」(庾亮)を罪とした事で、大いに喜び、從子の祖智、及び祖衍の勸めもあり、「逖子」(祖逖の子)である沛內史祖渙(煥)、及び「女婿」の淮南太守許柳を派遣している。祖智・祖衍は「傾險好亂」とされているが、祖渙のみが「逖子」とされている事からすれば、祖逖以外の兄弟の子と見られる。

 祖逖・祖約は「兄弟六人」とされ、祖約任用の不可を説いた祖納以外に、該という名の兄及び、名不明の兄二人がいる筈で、祖智・祖衍や、先に汝南で執われた祖濟は、彼等の子の可能性があり、一方で、祖納の子ではないと思われる。因みに、祖納は祖約が反した事で「鑒裁」を讃えられている。


 「女婿」とされる許柳は、祖約の婿とも思われるが、『世說新語』(政事第三)に引く『許氏譜』に依れば「高陽人」で、同劉謙之撰『晉紀』に「柳妻、祖逖子渙女」とある。つまり、許柳は祖渙の女婿という事になる。

 一方で、祖約傳には「逖妻、柳之姊也」ともある。これに從えば、許柳は祖逖の妻の弟で、その孫女を妻としているという事になる。「柳之姊」・「祖逖子渙女」は共に繼室であるのかもしれないが、奇妙な関係ではある。

 或いは、強引だが、「柳、祖逖の子渙に女を妻す」と読んで、姊及び女がそれぞれ、祖逖・祖渙に嫁いでいたのかもしれない。この場合、世代の問題は解消されるが、彼が誰の「女婿」かが不明となる。何れにせよ、祖氏と許氏の深い結び付きが確認できる。

 また、「逖妻、柳之姊也」には続けて「固諫不從」とあるが、誰が諌め、誰が從わなかったのか、やや判然としない。おそらく、「逖妻(柳之姊)」が許柳を諌めたのであろうが、許柳が祖約を諌めたとも読める。


 ともあれ、祖渙・許柳の援軍を得た蘇峻は十二月辛亥(一日)、その將韓晃・張健等をして、姑孰に入らしめ、于湖を「屠」している。「屠」は屠城、城を毀ち人衆を殺す事だが、孔坦傳では「破姑熟、取鹽米」と塩・米、兵糧を手に入れた事だけが記されている。

 庾亮はこれを悔やんだと云うが、判断の誤りは致命的であったと言える。なお、この時、孔坦は「觀峻之勢、必破臺城。自非戰士、不須戎服」と「臺城」、建康の落城も予見している。

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