内憂と外患
「内」に於いて、独裁は過言にしても、專制を確立したと言える庾亮であったが、「外」、外鎮に対しては陶侃・祖約等との不和を抱えた儘である。そして、更にその「外」、後趙の攻勢も熄んでいない。
後趙(石勒)はこの頃、西方の前趙(劉曜)と対峙する一方で、兗州・豫州方面、祖逖が「晉土」に復した河南への侵攻を進めている。そうした中、十一月には、石勒の將石聰が壽春を攻めている。
なお、壽春は成帝紀や祖約傳では「壽陽」とあるが、これは後に簡文帝(元帝子)が即位して以降に、その母の名「鄭阿春」の「春」を避けて改めたものであるから、この時点では存在しない地名である。
簡文帝以降に編纂された史料を『晉書』がそのまま載録した故の記述である。一方で、石勒載記に「壽春」とあるのは、『十六國春秋』など晉とは無関係に作成された史書の記述を、これまたそのまま載録した故だろう。現行『晉書』の校訂の杜撰と言える。
ともあれ、壽春を攻めるも勝てなかった石聰は南に転じ、逡遒・阜陵に侵攻して五千餘人を殺掠する。この一帯は、江水の対岸ではあるが、建康の西に位置する為、司徒王導が大司馬・假黃鉞・都督中外征討諸軍事を加えられ、守禦を担う事となる。
しかし、歷陽太守蘇峻がその將韓晃を派して石聰を討ち、敗走させた事で、王導は江寧(烏江対岸)まで至ったのみで、軍を解いている。後の事例などを鑑みると、王導の下には趙胤もおり、実動を担っていたと思われる。
この事態を受けて、朝廷では「作涂塘以遏胡寇」という議が起こる。「作涂塘」というのは、逡遒・阜陵一帯を東に流れ、江水に合流する涂水(滁水)に塘(隄防)を築いて、その南の歷陽郡、延いては建康の防波堤としようというものである。
これに不満であったのが、その北に取り残される事になる祖約である。彼は石聰の侵攻に際して、救を求めるも、結局官軍が至らなかった事もあり、憤懣を高ぶらせており、この朝議によって、己が見棄てられたと邪推する様になる。
斯くして、祖約と朝廷(庾亮)との緊張が高まる中、十二月には「濟㟭太守劉闓殺下邳內史夏侯嘉、叛降石勒。」と、濟㟭太守劉闓が下邳內史夏侯嘉を殺害して石勒に降っている。
濟㟭(濟岷)郡は地理志濟南郡の条に「或云魏平蜀、徙其豪將家於濟河北、故改爲濟岷郡。而太康地理志無此郡名、未之詳。」とあり、実態が知れない郡だが、濟南郡であれば、青州西部の郡である。
下邳國とは離れているので、同國内、又は周辺に僑置されていたのだろうか。下邳は淮北の郡だが、劉遐が淮南に退いた後も維持されていたのか、劉遐死後に反した李龍・史迭も同地に逃亡し、斬られている。
夏侯嘉の殺害で淮北の拠点がまた一つ失われているが、石勒載記では「濟岷太守劉闓・將軍張闔等叛、害下邳內史夏侯嘉、以下邳降于石生。」という記事に続けて、「石瞻攻河南太守王羨于邾、陷之。龍驤將軍王國叛、以南郡降于勒。晉彭城內史劉續復據蘭陵・石城、石瞻攻陷之。」という記述がある。
この中で王國に関する部分は、後の咸和三年(328)四月に「石勒攻宛、南陽太守王國叛、降於勒。」という該当する記事があり、石勒載記の後文にも「晉龍驤將軍王國以南郡叛降于堪。」とあるので、竄入と見做すべきである。また、宛は南陽郡であるので、「南郡」は「南陽」の誤りである。
因みに、南陽郡は荊州の北部に位置するが、咸和元年の時点では荊州北部は前趙(劉曜)の侵攻を受けており、十月に「劉曜將黃秀・帛成寇酇、平北將軍魏該帥眾奔襄陽。」という記事が見える。
酇縣は南陽の西隣順陽郡に屬し、宛の西南であり、關中や漢中からの経路が交差する位置にある縣である。或いは、王國が叛したのは、魏該の南下により、孤立する事を憂えてであったかもしれない。
また、魏該は「永嘉の乱」の中で、族父魏浚と共に、洛陽西方の河東・弘農方面に拠り、李矩や郭默とも連携していたが、やがて劉曜(漢)の圧迫をうけて南徙している。その後、周訪を助けて杜曾を討った功で順陽太守と為っているので、趙胤とも接点があるかもしれない。
「王敦の乱」(第一次)に於いては事態を観望しようとする梁州刺史甘卓が、その去就を試そうと王敦の旨として彼を動かそうとするが、「我本去賊、惟忠於國。今王公舉兵向天子、非吾所宜與也」として応じなかった事がその傳(卷六十三魏浚傳附)に見える。王敦を拒否するも、それに抗するわけでもない立場をとっているが、彼の位置を思えば已むを得ない態度とも言えるだろうか。
話を戻せば、「石瞻攻河南太守王羨于邾、陷之。」及び「晉彭城內史劉續復據蘭陵・石城、石瞻攻陷之。」が咸和元年末頃の事態となる。彭城內史劉續は劉遐(劉長)が彭城から退いた太寧二年(324)に蘭陵に敗れており、「復」た蘭陵・石城に拠ったところを石瞻に攻め陷された事になる。
蘭陵は彭城東北、下邳北で東海國に屬する。劉續は下邳內史夏侯嘉や濟岷太守劉闓と共に徐州北部を転戦、維持していたのであろうが、それも潰えている。
管見の限り、以降の徐州方面に於ける晉の活動は、この後の「蘇峻の乱」の影響などもあろうが、咸康元年(335)頃の「晉將軍淳于安攻其琅邪費縣、俘獲而歸。(石虎載記)」などを除き、全く絶えている。
次にこの方面で晉軍が攻勢に出るのは、永和五年(349)で、失敗に歸しているが後趙石虎死後の混乱に乗じた褚裒の北征を俟たなければならない。
一概には言えないが、庾亮等が宗室との問題に感けている間に、徐州の情勢は致命的となったとも言える。なお、北中郎將と為った筈の郭默の、この時点での動向は不明である。そして、問題はいま一つの「石瞻攻河南太守王羨于邾、陷之。」である。
「河南太守」は当然、「河南郡」の太守であり、本来であれば洛陽周辺であるが、これは遥領であろう。「邾」に攻められたとあるのであるから、同地に「河南郡」が僑置されていたと考えられる。
しかし、邾縣は地理志では豫州弋陽郡に屬し、その南端であるが、弋陽郡は魏代に汝南郡から分置された際に、江夏郡東北部を合わせており、邾縣はその一帯である。なお、弋陽郡には西陽縣が有り、西陽王羕が王に封じられた時点で弋陽郡は西陽國となっている筈である。
漢代の江夏郡はこの時点では江北の江夏郡と江南の武昌郡に分かれているが、実のところ、邾は武昌の北、対岸に当たる。從って、邾が陷とされたという事は、揚州と荊州を結ぶ江州の中心たる武昌の対岸まで、後趙の勢力が及んだという事でもある。
これに先立つ四月に「石勒遣其將石生寇汝南、汝南人執內史祖濟以叛。」とあり、西陽の北、汝南國が祖逖の從子である內史祖濟を執らえて降っており、後趙がそのまま南下、邾を降したと見られる。なお、汝南は南陽の東隣でもあるので、これも王國の叛に繋がっているかもしれない。
ただ、武昌の対岸、邾の陥落は控えめに見ても重大事である。後年、咸康五年(339)九月に、やはり「邾城」が陥落し、守將毛寶等が戦死するという事態が起こるが、この時、同地を管掌していた庾亮は自ら貶降しており、やがて、それを憂慨して疾を発し、翌年正月に死去している。
この時、庾亮が北征を目論んでいたという事情はあれ、邾の失陥は等閑にできる事態ではない。しかし、江州刺史溫嶠を始め、朝廷がこの事態に対処した形跡は見えない。從って、この時、邾が陷とされたという事には疑問が残る。
また、「河南郡」について言えば、地理志(司州)に「元帝渡江、亦僑置司州於徐、非本所也。」とあり、河南を含む司州は「徐」(徐州)に僑置されたとある。であれば、河南郡も徐州に僑置されたと見るのが妥当ではないか。
前後の記事も竄入とみられる王國の記事を除けば、徐州に関するものである。邾を陷としたと云う石瞻は「勒將兵都尉石瞻寇下邳、敗晉將軍劉長、遂寇蘭陵、又敗彭城內史劉續。」、「勒徴徐・揚州兵、會石瞻于下邳、劉遐懼、又自下邳奔于泗汭。」、「石瞻攻陷晉兗州刺史檀斌于鄒山、斌死之。」、そして「晉彭城內史劉續復據蘭陵・石城、石瞻攻陷之。」という石勒載記の記事を見ても、太寧(323~325)年間以来、兗州・徐州方面にある。
殊に、記事間の期間が不明ではあるが、豫州西南の邾を陷とした後に、豫州の東北、その更に東にある東海の蘭陵を陷としていると云うのはやや不自然である。
從って、「邾」は何らかの誤り、或いは東海國の「郯」であろうか。郯は蘭陵の東、下邳の東北であり、一貫した軍事行動としては相応しい位置にある。「河南」に拘れば、豫州の西北、本来の司州河南郡に接する襄城郡に「郟」がある。
ただ、李矩・郭默等が南下した後に、河南に接する郟を維持し得たかは疑問である。よって、この記事も徐州北部に関して述べた一連の記事と見るのが妥当と考える。
咸和元年末の豫州・徐州方面について見たが、同方面での後趙の圧迫が強まる中で、豫州の祖約との関係は悪化する一方である。ただ、これ以降、石勒は劉曜との対決に重点を移し、圧力は緩まる事になる。そうした中で起こるのが、「蘇峻の乱」である。
なお、祖約に関しては翌咸和二年(327)五月に「加豫州刺史祖約爲鎮西將軍。」とあり、これは「不豫明帝」以前とする祖約傳の記述と一致しない。石聰撃退の功によって、平西將軍から鎮西將軍に進める事で、彼の不満を宥める意図であり、この時点での任命と見る方が妥当ではないか。
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