「南頓王宗反」

 表面上、平穏を維持したまま咸和元年(326)は過ぎ行き、冬を迎える。


 その十月丙寅(十日)に衛將軍汝南王祐が薨じている。汝南王祐は西陽王羕・南頓王宗の從子であるが、彼等の父である汝南王亮の嫡孫で、本宗に当たる。

 汝南王祐の父である汝南世子矩は、汝南王亮が元康元年(291)に殺害された際に共に殺されており、当然ながら、汝南王祐はそれ以前、遅くとも翌年までには生まれているので、当時「八歲」であった西陽王羕やその弟南頓王宗との年齢差は十歳に満たない。

 從って、系譜上は從父おじ從子おいであるが、実際は兄弟に近い関係であっただろう。行動を共にする事も多く、南渡も同時期であったと見られる。ただ、その官位からして、年少であったとは思われ、三十代後半であろう。壯年での汝南王祐の死に不審が無いわけではないが、史料上は何の問題もない。

 從って、彼の死が何かの契機となったと言えるわけではないが、或いは、その存在が庾亮等との緩衝となっていたとも思われる。その死が呼び水となったかの如く、程無く、「車騎將軍・南頓王宗有罪、伏誅、貶其族爲馬氏。免太宰・西陽王羕、降爲弋陽縣王。」という事態が訪れている。


 「車騎」は「驃騎」の誤りであろうが、その期日は成帝紀に記述がない。ただ、前後の記事が己巳(十三日)の「封皇弟岳爲吳王」と、庚辰(二十四日)の「赦百里內五歲以下刑」であるから、この十日間のどこかである。

 また、南頓王宗は「伏誅」とあるが、本傳には「南頓王宗反、胤殺宗。」と趙胤が殺したとある。南頓王宗傳にいま少し詳しい経緯が見え、「御史中丞鍾雅劾宗謀反、庾亮使右衛將軍趙胤收之。宗以兵距戰、爲胤所殺。」とある。


 御史中丞鍾雅が南頓王宗の謀反を劾奏し、庾亮の命を受けた趙胤が就縛に向かうも、南頓王宗が抵抗した為、殺害に至ったという事である。趙胤が相手の皇族なるを顧慮する事無く、無思慮に殺害に至ったのか、逆に、それを憚る事無く、任務を果たそうとした故の已むを得ざる仕儀か、どちらとも受け取れる結末である。

 趙胤の為人が知れる逸話はほぼ無いが、杜曾の一件から窺うに、他の事情を斟酌する事無く、自己の思う儘を貫くという風があるかに思え、ここは、良くも悪くも、庾亮の命を忠実に果たそうとした、南頓王宗の排除という一点のみを確実に実行したとも考えられる。

 庾亮傳には「亮殺宗而廢宗兄羕」とあり、南頓王宗の殺害は庾亮の責任として記されているので、どちらかと言えば、後者と受け止められたのであろう。或いは、庾亮は半ば意図的に、趙胤ならば南頓王宗の殺害に至るという可能性を思慮に入れた上で命じたのかもしれない。


 この結果、趙胤は「王導・庾亮並倚杖之」と、王導・庾亮に依倚される様になったと云う。字義どおりには杖(として)りかかるだが、「杖」は「仗」に通じ、「仗」は「剣戟」、兵器であるから、頼れる兵器といった意味合いがあると思われる。

 いざという際に武力を担保する存在、所謂「爪牙」として信任されたという事であろう。趙胤はこれまでも両者の信任を得ていたと見られるが、この功績でそれを確実なものにしたと言える。


 南頓王宗の「謀反」の内容については、庾亮傳に「復謀廢執政」とあるが、具体は不詳である。謀反を劾奏したのが、劉遐故將の乱平定に監征討軍事・假節として出征し、唯一人論功を受けている鍾雅であるのは、庾亮の側から仕掛けた陰謀である事を疑わせる。実際、この一件は「天下咸以亮翦削宗室」と庾亮傳にあり、庾亮が宗室の力を削ぐ為に行ったのだとされている。


 鍾雅は潁川長社の人で、隣縣の鄢陵を本貫とする庾亮とは同郡であり、為人も「直法繩違、百僚皆憚之。」とされ、庾亮と通ずるものがある。その経歴も庾亮が琅邪王睿の鎮東西曹掾から丞相參軍を経て、參丞相軍事・掌書記と為ったのに対して、鍾雅も丞相記室參軍と、同時期に參軍と為っている。その後の経歴は異なるが、両者に親交があったとするのは、過言ではないだろう。

 なお、鍾雅の屬する潁川鍾氏は、魏初に太傅鍾繇を出した潁川の名家であるが、魏末に鍾繇の子である鍾會が征討に向かった蜀で自立を目論み、殺されてからは、やや揮わない家系である。

 鍾雅自身についても父の名(曄)以外は伝わらないが、『世說新語』(政事第三)に引く『晉諸公別傳』では「魏太傅鍾繇弟仲常曾孫也」とされる一方で、後世の『新唐書』宰相世系では「繇字元常、魏太傅・定陵侯。生毓・會。毓字稚叔、侍中・廷尉。生駿、駿字伯道、晉黃門侍郎。生廚、字叔光、公府掾。生雅」と鍾繇の玄孫とされ、系譜も、排行も、更に言えば父の名も異なる。

 元より宰相世系の系譜には問題が多いが、鍾氏の伝承自体にも混乱があるのだろう。また、彼は臨淮內史・振威將軍、宣城內史・加廣武將軍として、郡(國)の統治にも携わり、「錢鳳作逆」に際しては兵を率いてもいる。多才な閲歴を持つ人物と言える。


 事変の結果、西陽王羕は大宰を免じられ、爵も弋陽縣王に貶されている。南頓王宗の三子も赦されてはいるが、庶人とされ、汝南王祐の子で嗣立した汝南王統も廃されている。

 他に、虞胤も桂陽太守に左遷され、後に琅邪・廬陵太守に徙っているが、中央に復帰する事無く、一地方官として終わっている。なお、後に汝南王統は王に復されている。

 帝室の近屬である汝南王家、或いは汝南王房とでも言える皇族が、一時的とは言え消失した事は、帝室の藩屏となるべき諸王の欠乏に繋がったとも言える。

 同年十二月、明帝の從祖弟(武陵王澹孫)で、司馬懿の子である梁王肜の祀を奉じていた梁王翹が死去すると、残る宗室は司馬懿三弟の安平王孚系統の章武王休、同じく四弟司馬馗の曾孫彭城王釋の子である彭城王雄・河間王欽・高密王紘、六弟司馬進の孫であった譙王承の子である譙王無忌など傍系のみとなる。

 何れも、明帝からしても高祖も異なる、もはや「族」とも言い難い疎屬である。晉の藩王と言えば、「八王の乱」に見る如く、諸王が強い権限、軍権を握るという特徴があるが、東晉に於いては、後の元帝系統の諸王(明帝諸弟)を除けば、そうした例は見られない。

 例外と言えるのは、譙王無忌、及びその子孫だが、これは譙王承が「王敦の乱」で殺されている事も関係しているだろう。


 ともあれ、それが意図したものであったか否かは兎も角、庾亮は有力な皇族を排除し、諸王を統制し、彼自身の專権を確立したと言える。或いは、同年十一月の「改定王侯國秩、九分食一。」というのも、諸王抑制の一環であったのかもしれない。

 そして、その過程で、趙胤は庾亮・王導の更なる信任を得て、その爪牙としての立場を確立したと言える。本傳は続けて、「轉冠軍將軍」とあり、彼が南頓王宗を誅殺した功で、冠軍將軍となった如く記しているが、これはやや先の事であり、これに先立って、いま一つの重大事が將来する。


 それが咸和二年(327)末から、同四年(329)初までの丸一年以上に亘って続く、所謂「蘇峻の乱」である。二度に亘るとは言え、実際の事変は比較的短期間に終わった「王敦の乱」を上回るとも言え、被害も広範であり、東晉初最大の騒乱と言ってもいいだろう。

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