江州―應詹と溫嶠

 趙胤は咸和初年に於いて、王導・庾亮等の信任の下、右衛將軍と為り、劉遐死後の動乱を鎮圧すべく出征している。しかし、乱はその到着以前に平定され、具体的な戦功を挙げる事無く、建康に歸還した筈である。


 趙胤の歸還は咸和元年(326)七月以降であったと思われるが、それと前後して、七月の末、癸丑(二十五日)に、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史・平南將軍である應詹が卒している。鎮南大將軍・儀同三司が贈られ、烈と諡され、時に年五十三と云うので、やや若く、泰始十年(274)生まれである。

 應詹は荊州や陶侃を通じて趙誘と接点があり、趙胤との係わりは「王敦の乱」の最終局面で趙胤がその指揮下に入った事のみだが、その功で、郗鑒と並ぶ封賞を得ている。

 その郗鑒が都督徐兗青三州軍事(兗州刺史・領徐州刺史)として、建康(揚州)北方(東北方)を鎮撫するのに対して、都督江州諸軍事・江州刺史として西方(西南方)を鎮撫している。建康を左右(東西)から守禦していたとも言える。


 江州は、その更に上流の荊州や、南方の湘州と、建康(揚州)の中間に位置し、対北方の前線となる東北(揚州西北)の豫州や、西北の荊州を後方から支える地域でもある。東晉の領域の結節点、要とも言える。その要地を委ねられていた應詹はその経歴からして、陶侃と近しく、疾が重篤になる中、以下の如き書を送っている。


 每憶密計、自沔入湘、頡頏繾綣、齊好斷金。、忽然一紀、其間事故、何所不有。足下建功嶠南、旋鎮舊楚。吾承乏幸會、來忝此州、、退以申尋平生、纏綿舊好。豈悟時不我與、長即幽冥、永言莫從、能不慨悵!、雖休勿休、至公至平、至謙至順、即自天祐之、吉無不利。人之將死、其言也善、足下察吾此誠。


 陶侃との交誼、互いに「南」・「東」を鎮撫する立場である事を述べ、その上で、「共に節を本朝にくし、恩を幼主に報ひ」ん事を望んでいたとする。そして、「四方多難」なる中で、「年・德 並びに隆く、功・名 俱に盛ん」なる「足下」(陶侃)が「宜しく洪範を建つるに務め」るべきだとしている。

 應詹がわざわざ「節」を「竭」くす事を述べ、洪範(大いなるのり)を建てるべき、と云っているのは、この時、陶侃がそれに熱心でない、「本朝」に対して憤懣がある事を察していたからであろう。

 と言うのも、陶侃、そして、豫州の祖約は明帝死後の体制、庾亮傳に云う遺詔による「褒進大臣」に与っていない。陶侃・祖約は「不在其例」を怨み、庾亮が遺詔(の陶侃・祖約に関する部分)を削除したのだと疑ったと云う。

 これは、おそらくは邪推であるが、そう疑われるのは、庾亮の不德とも言える。一方で、庾亮が外鎮の諸將にいたずらに権力を与える事を望まなかった、むしろ、与えるべきでないと考えていたのは事実だろう。

 その念頭には、王敦の故事もあったと思われ、彼の如き存在の再来を憂えていたと考えられる。


 また、陶侃や祖約、と言うより、その兄である祖逖は武功を以て立身してきたとも言うべきで、それを承けた祖約共々、純然たる武將と認識されており、その点では郗鑒や應詹、更には湘州の王舒などとは異なると見做されていたと考えられる。そうした武將に権を与える事への危惧も、陶侃等が「褒進」に与らなかった理由であろう。

 「法に任」せるという為人で、規範に厳しいであろう庾亮が主導したと思われるが、陶侃等を「褒進」から排除したのは、王導等も含めた廷臣の一致した措置であったかもしれない。

 なお、王舒は劉遐や應詹の死に先立つ四月に尚書左僕射鄧攸が卒した事で、尚書僕射として召還されており、その後任は、都督(湘州諸軍事?・)安南將軍・湘州刺史・假節と為った卞敦と見られる。卞敦は卞壼の從父兄であり、郗鑒・應詹と同様、単なる武臣とは言い難い。


 して見ると、「褒進」がなかった事は、荊州・豫州という前線、それを守る武將への統制の一環でもあったのだろう。その点では、劉遐死後の措置も、統制の一環であったと言え、その故將等による反乱の鎮圧も、統制を維持する為である。

 その実行に中軍を担う趙胤が充てられたのも、州郡諸將への不信からとも考えられ、逆に言えば、趙胤への信任の証とも言える。

 趙胤も武將であり、その点では陶侃などと同様だが、州郡に関与しておらず、庾亮・王導等の統制下に在ると言える。庾亮等にとって、趙胤の如き將領は武事のみに専念している事が望ましく、政柄に係わるべきではないと見做していたのではないか。

 郭默も、新参であり、その為人も「狡猾」・「多詐」とされているが、それだけに「無私」を装う風もあり、その点が庾亮等の信を得たのであろう。一方で、彼が刺史とされていないのは、その権限を軍事のみに限定する意図があったとも考えられる。

 郭默については、趙胤との係わりもあり、後にも触れる。


 陶侃や祖約との緊張が増す中で、少なくとも陶侃との仲立ちとなり得る應詹の死は大きな損失であったと言える。また、江州に於いて、「撫而懷之、莫不得其歡心、百姓賴之。」という治政を為し、杜弢征討などで軍事的経験も有した應詹の存在は、荊州・豫州を睨む江州の鎮撫としても大きかっただろう。

 從って、その後任の人選は重要であり、陶侃・祖約等が乱を為す事を懼れた庾亮は溫嶠を以てこれに充てる。八月の「以給事中・前將軍・丹楊尹溫嶠爲平南將軍・假節・都督、江州刺史。」という人事がそれである。

 溫嶠は明帝の顧命を受けた一人だが、前將軍・丹楊尹(共に三品)と、太宰西陽王羕、司徒(一品)・錄尚書事王導、尚書令(三品)卞壼、車騎將軍(二品)・兗州刺史(・領徐州刺史)郗鑒、中書令(三品)庾亮、散騎常侍(三品)・左光祿大夫(三品)・開府儀同三司陸曄等に比べると、朝政に直接係わっておらず、やや威儀が低い。


 溫嶠は咸和四年(329)に卒して、「時年四十二」、太康九年(288)生まれであるから、同十年生まれの庾亮に次いで若く、南渡したのも建武以降と、やや遅い事が影響していると思われる。

 なお、陸曄は元来、領軍將軍で、明帝の遺詔は「曄清操忠貞、歷職顯允、且其兄弟事君如父、憂國如家、歲寒不凋、體自門風。既、加散騎常侍。」であった事がその傳(卷七十七)に見える。

 「六軍を以て委」ねられ、錄尚書事となるべき陸曄が左光祿大夫・開府儀同三司とされ、実権から遠ざけられ、やや祭り上げられた感があるのは、彼が吳郡吳の人、所謂「南人」であるからだろう。


 参考までにこの時点での執政(大臣)達の年齢を確認すれば、西陽王羕が四十三、王導は咸康五(339)年に薨じて「時年六十四」であるので、咸寧二年(276)生まれの五十一、卞壼は咸和三年(328)に「時年四十八」で死して、太康二年(281)生まれであるから四十六、郗鑒は咸康五年(339)に薨じて「時年七十一」であるから、泰始五年(269)生まれの五十八、庾亮が三十八、溫嶠が三十九、咸和九年(334)に「時年七十四」で卒する陸曄は、吳の永安四年(261)生まれで六十六と最年長である。

 因みに、陶侃は六十八、祖約は兄祖逖が泰始二年(266)生まれであるから六十以下、五十代後半であろう。家系や経歴の違いがあるとは言え、陶侃・祖約の憤懣に理由が無いわけではない。


 さて、溫嶠は武昌に鎮し、「甚有惠政、甄異行能。」と、應詹の後任に相応しい治績を見せ、要としての江州の安定を維持している。

 庾亮は溫嶠を江州に出すと共に、石頭城を修築し乱に備えているが、不和は外鎮との間では伏流として残るものの顕在化せず、一方で、建康に於いて宗室との間で噴出する事となる。

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