趙胤と右衛將軍

 劉遐故將の乱では到着以前に鎮圧され、実際の功は無かった趙胤であるが、彼はこの時点で「右衛將軍」として見える。


 右衛將軍は第四品で、品秩としては建威將軍と変化がない。しかし、その職掌には大きな違いがある。職官志では「左右衛將軍」の沿革のみで記載が無いが、『宋書』百官志には「(左右)二衛將軍掌宿衛營兵」とある。

 つまり、「宿衛營兵を掌る」であり、趙胤は反乱討伐に起用されているが、本来は皇帝直屬の宿衛兵を統括するのが任である。


 趙胤の前任はおそらく虞潭で、更にその前任は元帝外戚の虞胤である。趙胤が右衛將軍と為った時期については、後に触れる虞胤の動向とも関わってくるので、以下で検討するが、外戚が就任する事もある権貴に近い官に趙胤が就いている事を確認しておきたい。

 なお、右衛將軍と併記される左衛將軍には、直近では何れも「領」だが同じく外戚の庾亮、宗室の南頓王宗が就いている。趙胤の就任が彼等と同質とは言えないが、この時点での彼の立場には留意が必要であろう。


 ところで、趙胤はこの時、二十代後半、想定によっては三十代半ばにはなっていると思われる。前任の右衛將軍である虞潭は先に見た様に趙誘と同年輩、或いはやや年長と目されるので、この時点で五十代と思われる。彼はこれ以前の建武年間(317~318)頃にも右衛將軍と為っているが、その時点でも四十代であろう。

 更にその前任の虞胤は、姉の虞皇后が永嘉六年(312)に薨じて、「時年三十五」と后妃傳(卷三十二)にあるので、咸寧四年(278)生まれであり、やや年少として太康年間(280~289)の生まれであれば、やはり四十代であろう。


 左衛將軍を見ても、庾亮は咸康六(340)年に薨じて、「時年五十二」と云うので、太康十年(289)生まれ、太寧二年(324)には三十六である。南頓王宗は兄の西陽王羕が元康元年(291)に父汝南王亮が害された際、「時年八歲」とあるので、太康五年(284)生まれであり、やや年少であれば、庾亮と同年輩だろう。

 何れも三十代から四十代であり、宗室・外戚である事を考えれば、趙胤の年齢は若過ぎるとも思われる。但し、虞潭の最初の例を除き、虞潭・虞胤は散騎常侍(三品)を加えられ、庾亮は中書監(三品)、南頓王宗は撫軍將軍(三品)が本官である。

 対して、趙胤は右衛將軍のみであり、やや想定が若い可能性はあるが、彼への信任の故と見ておきたい。


 その信任であるが、これまでの関係を思えば、王導からのものと考えるのが妥当である。政務の実権が庾亮にあるとしても、司徒・錄尚書事として首座に在る王導の意向も無視し得ないものがあっただろう。ただ、それだけとも言い難いものがあり、その点を検証する為に、趙胤の右衛將軍就任の事情を探ってみたい。


 明帝の下で右衛將軍であった虞胤は、明帝にとっては嫡母の弟、義理のおじという事になる。彼は散騎常侍(三品)から歩兵校尉(四品)を経て、太寧末に右衛將軍に転じている。

 歩兵校尉は屯騎・越騎・長水・射聲の各校尉と共に、「五校」や「五營校尉」とされ、「皆中領軍統之」とある様に、中軍の指揮官である。これは虞胤が武功の人であったのではなく、外戚として、皇帝(明帝)の身近にある為の一種の栄誉職である。ただ、全くの虚官というわけではなく、「與南頓王宗俱爲明帝所昵、並典禁兵。」とある様に、明帝の信任を受け、その身辺の警護を担っている。

 ところが、明帝が不豫(不悆)となると、「宗以陰謀發覺、事連胤、帝隱忍不問、徙胤爲宗正卿、加散騎常侍。」とされている。この件は庾亮傳に以下の如く、やや詳しい経過が見えるが、南頓王宗等の「陰謀」・「異謀」の内容については、「廢大臣」とある以外は不明である。


 及帝疾篤、不欲見人、群臣無得進者。撫軍將軍・南頓王宗、右衛將軍虞胤等、素被親愛、與西陽王羕。亮直入臥內見帝、流涕不自勝、既而正色陳羕與宗等、辭旨切至。帝深感悟、引亮升御座、遂與司徒王導受遺詔輔幼主。(庾亮傳)


 庾亮が社稷に言及している事を思えば、明帝の死後に西陽王羕等の何れかが登極するという事が図られたとも考えられる。


 成帝の年齢を考えれば、幼帝を戴く事への不安、それによって外戚である庾亮が権を握る事への不満などからの企てであったとも考えられる。

 西陽王羕等は、元帝・明帝から最も近親の皇族で、司馬懿の孫であり、彼等の父である汝南王亮は元帝の祖父琅邪王伷の兄であるから、長君を立てるという点で、即位の正統性があるとは言える。


 ただ、彼等がそこまでを考えていたかには疑問もあり、これは明帝の外戚である庾亮と、宗室の西陽王羕・南頓王宗、及び彼等に結び付いた元帝の外戚である虞胤の主導権争いであったのだろう。

 虞胤は外戚とは言え、先帝の、しかも、明帝は虞皇后の所生ではないから、その関係は薄く、庾亮に劣る。それ故に、南頓王宗等と結ぶ事になったのだろう。

 明帝は結局、末期に庾亮・王導等に輔政を委ねるが、虞胤等も排除せず、西陽王羕は輔政に名を連ね、南頓王宗も驃騎將軍に進んでいる。

 虞胤も宗正(三品)と為っているので、南頓王宗と共に「典禁兵」(南頓王宗傳:「委以禁旅」)からは遠ざけられているが、官位自体は進められている。だが、南頓王宗は「怨望形於辭色」とその傳にあり、遺恨は残った儘となっている。


 この虞胤の後任が、虞潭であり、尚書から遷り、散騎常侍を加えられている。だが、彼は「成帝即位」によって輔國將軍(三品)を加えられ、吳興太守に出ている。この「即位」を厳密にとれば、彼が右衛將軍であったのは僅か数日という事になるが、早くとも太寧三年(325)九月の皇太后の臨朝稱制時、遅ければ咸和元年(326)に入ってからではないか。

 虞潭が任用されたのは、彼が義兵を挙げて沈充を討った事が、忠亮と認められた故であろう。吳興太守に転じた後だが、遅まきながら、「討充功」を以て、爵を東郷侯から零陵縣侯に進められている。因みに、零陵縣は湘水の最上流部に在る縣で、趙胤の封地湘南はその支流沿いだが下流に位置し、中途には劉遐の封地泉陵も在る。


 趙胤が右衛將軍と為ったのは、この虞潭の転出に伴ってと推定され、咸和元年の年頭から、遅ければ六月の李龍等の討伐に出征する直前であろう。

 前後の経緯を踏まえれば、「禁兵を典」どる右衛將軍等の地位は、庾亮にとって南頓王宗等への対抗上、掌握しておくべき地位であったと思われる。つまり、その地位には信頼し得る人物を充てた筈である。

 実際、南頓王宗の後任の左衛將軍には「成帝初」に褚翜が太子左衛率(五品)から転じた事が、その傳(卷七十七)に見える。褚翜は河南陽翟の人だが、その舅は庾亮の父庾琛の從兄弟である庾敳で、やや遠いものの庾亮の縁戚である。庾敳は家族を褚翜に託して南渡させているので、庾亮等庾氏との縁は保たれていたと思われる。

 太子、乃ち成帝の左衛率から、その即位によって同種の役割を担う左衛將軍に遷っただけとも言えるが、背景には庾亮からの信任もあったと思われる。なお、褚翜は咸康七(341)年に卒して「時年六十七」であるので、咸寧元年(275)生まれ、咸和元年には五十二である。


 從って、趙胤が右衛將軍とされた事には、禁兵の掌握を望む庾亮の意思も働いていたと考えられ、趙胤は庾亮の信任を得ていたと推定される。それは王導を通じてのものであったかもしれないが、庾亮自身が建康に於ける沈充・錢鳳等との戦いを目にした結果でもあろう。

 王導共々、固有の武力を持たず、当然ながら、自ら武力を担う事も無い庾亮にとって、趙胤は武力を担保する存在として、信を置かれていたのではないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る