劉遐故將の乱
咸和元年(326)に起こった事件の切っ掛けは、同年六月癸亥の「使持節・散騎常侍・監淮北諸軍事・北中郎將・徐州刺史・泉陵公劉遐卒」である。
劉遐は幾度か触れたが、淮陰に鎮し、対後趙の最前線、その最も東方を担ってきた將である。廣平易陽の人、河北の出身である。
その傳(卷八十一)では「性果毅、便弓馬、開豁勇壯。」とされ、天下が乱れる中、郷里を守って戦い、張飛・關羽に比されたと云う。同郷の冀州刺史邵續に重んじられ、その女を妻とし、遂には「賊不敢逼」となっている。
冀州刺史邵續は元帝への勸進に名を連ねた一人であり、劉遐も元帝の節度を受け、龍驤將軍・平原内史と為り、「建武初」には下邳内史に転じている。
平原國(郡)は郷里の廣平より東方だが、同じ河北であり、隣郡の樂陵厭次に拠った邵續と合同し得る位置だが、下邳は遥か南方、徐州の中部、泗水と沂水が合流する一帯で、「淮泗」とも云われる様に、淮水との関連も深い土地である。
劉遐が下邳に遷ったならば、邵續との連携は期待し得ない事になる。実際、太興三年(320)二月には「石勒將石季龍寇猒次、平北將軍・冀州刺史邵續擊之、續敗、沒於陣。」と、邵續は捕虜となっている。
この頃、劉遐は太興元年(318)十二月に「彭城內史周撫殺沛國內史周默以反」とある周撫(周堅)を徐州刺史蔡豹・太山太守徐龕と共に討っている。この功により、隣郡だが更に南の臨淮太守に徙り、翌年(319)四月に今度は徐龕が反すと、戦後に北中郎將・兗州刺史に任じられている。なお、徐龕が反した理由は周撫討伐の論功で劉遐が先んじた事にあると云う。
徐龕の討伐には征虜將軍羊鑒、武威將軍侯禮、臨淮太守劉遐、鮮卑段文鴦、及び建威將軍・徐州刺史蔡豹が当ったが、徐龕が石勒に降り、その援兵を得ていた事もあり、羊鑒以下「諸將畏懦、頓兵下邳、不敢前。」であったと云う。この羊鑒の起用は王導の意による。
なお、「鮮卑段文鴦」は段秀と同じく、段匹磾の弟である。段匹磾は邵續を援け、邵續が虜囚となった後は猒次に拠り、太興四年(321)四月に、邵續の兄子邵竺、子の邵緝や文鴦等と共々、石勒に捕われ、邵續も含め、後に殺されている。
劉遐の妻からすれば、邵緝は兄弟、邵竺は從兄弟であり、段匹磾も含め劉遐とは所縁のある者達である。この時点では劉遐と邵續の連携はまだ健在であったという事であろうか。
余談だが、劉遐の妻は「驍果有父風」とされ、劉遐が石虎に包囲された際、単独で数騎を率いて出撃し、彼を「萬眾之中」から救い出したという武功の持ち主である。
ともあれ、蔡豹が独り進軍を主張するも、羊鑒は許さず、後に勅を受けてもなお「鑒及劉遐等並疑憚不相聽從、互有表聞、故豹久不得進」であった云う。これ等の記述だけを見ると、羊鑒や劉遐が怯懦であった様に見えるが、後の経過を見れば、慎重であったと言えなくもない。
乃ち、尚書令刁協の奏により、羊鑒が免じられ、徐龕を攻めた蔡豹は、石虎の来援により遁走して、輜重も奪われ、將軍留寵・陸黨が戦死している。蔡豹は歸還し謝罪せんとするが、北中郎(將)王舒が「胡寇方至、使君且當攝職、爲百姓障扞。賊退謝罪、不晚也」、賊を退けてからでも遅くないと制止している。
しかし、敗報を聞いた元帝が蔡豹を収監すべく使者を送ると、王舒が一転して彼を執らえて、建康に送り、蔡豹は斬られている。蔡豹は「在徐土、內撫將士、外懷諸眾、甚得遠近情。」であったので、その死を聞いたものは、悼惜したと云う。
嘗て、徐州刺史であった祖逖は司馬であった蔡豹を「
話が逸れたが、劉遐は徐龕平定後に、北中郎將・兗州刺史とされ、永昌元年(322)の王敦挙兵時には、淮陰に逃れた劉隗を攻撃し、石勒の下に逃亡させている。その後、彭城から泗口に屯を移し、「王敦の乱」の中で蘇峻と共に功を立て北中郎將・徐州刺史と為っている。
その死後に安北將軍を追贈されているが、張飛・關羽に比肩されたという事や、徐龕討伐における怯懦とも言える態度を見ると、個人としての武勇は卓越しているが、將としては卓抜したものが無いとも言える。とは言え、北方の鎮めとしての重責を担うには十分な人物であったのだろう。
その享年は不明だが、その子劉肇が「年幼」とされている事、岳父邵續の経歴が太安年間(302~304)からである事、彼自身は「值天下大亂」以降の経歴しか見えない事を鑑みれば、遅くとも元康年間(291~299)以前、おそらくは太康年間(280~289)の生まれで四十前後、いま少し年長とも思えるが、やや若い死であっただろうか。
劉遐について、詳しく見たのは、武功を以て昇進してきた人物として、趙胤の参照とする為と、蔡豹に関しても含め、これまでに触れてきた人物が関与している事、そして、北方の情勢の再整理の為である。
話を戻せば、劉遐の死で問題とされたのは、その死そのものも然る事ながら、子劉肇の「年幼」である。軍権を世襲させる事の弊害もあるが、最前線を担う武力を「幼」い者に委ねる事への不安が前提にある。
そこで、「成帝以徐州授郗鑒、以郭默爲北中郎將、領遐部曲。」と劉遐傳にあり、これは同月癸酉(十五日)の「以車騎將軍郗鑒領徐州刺史、征虜將軍郭默爲北中郎將・假節・監淮北諸軍。」という記事に当たる。「成帝」とあるが、当然、その命を発したのは庾亮であっただろう。
郗鑒は明帝の顧命を受けた一人であり、都督徐兗青三州諸軍事として、名目上は徐・青・兗州を、実質は徐州を都督している。
因みに、郗鑒の女は王導の從子(從兄弟王曠の子)王羲之に嫁いでいるので、彼の立場は庾亮より、王導に近いと言える。一方で、同じく彼の女は卞壼の嫡子と思われる卞軫(卞眕)にも嫁いでいる。
卞壼は「斷裁切直、不畏強禦」とされ、王導が「稱疾不朝、而私送車騎將軍郗鑒」であった事を「導虧法從私、無大臣之節」として、彼の免官を請うている。こうした点は「法に任せて物を裁く」とされた庾亮の為人に似る。
実際、「皇太后臨朝、壼與庾亮對直省中、共參機要。」とある様に、庾亮と卞壼には近しい面もある。以上から考えると郗鑒は王導と庾亮・卞壼を親和させる位置に在ったとも言える。
その郗鑒の下、北中郎將・監淮北諸軍として劉遐の後任となり、その部曲(軍)をも指揮する事となったのが郭默である。
郭默は李矩に協力して洛陽方面を維持してきたが、その頽勢の中、いち早く南下して、征虜將軍に任じられている。因みに、征虜將軍は第三品であるので、第四品の北中郎將であった劉遐より格上であるかに見えるが、劉遐は散騎常侍(三品)でもあるので、宮中での序列としては劉遐が上であっただろう。
郭默が徐州刺史に任じられていないのも、それが理由と思われる。但し、この時点以降の中郎將の官品については疑問があり、郭默が後に北中郎將と為っている様に、実質三品となっていると見られるが、ここでは措く。
さて、この決定に不満であったのが、「遐妹夫田防及遐故將史迭・卞咸・李龍等」である。おそらく、兗州方面で威望のあった郗鑒の徐州刺史就任自体には不満は無く、何の所縁もなく、新来でもある郭默に屬する事が問題であったのだろう。彼等は劉肇を立て、「代遐位」(劉遐傳:「襲遐故位」)を名目に兵を挙げ、郭默を拒む。
劉遐傳では最後に記される李龍が実質的には主導者であったのか、成帝紀では「劉遐部曲將李龍・史迭」、郭默傳(卷六十三)では「遐故部曲李龍等」とされている。彼等の憤懣にも正当性が無いわけではなかったが、それを容れる情勢に東晉はなく、それを考慮する事が無いのが、庾亮の為人である。
この反乱平定を詔によって命じられた一人が趙胤であり、郭默傳には「詔默與右衛將軍趙胤討平之」とある。劉遐傳には「成帝遣郭默等率諸郡討之」とあり、郭默・趙胤は諸郡(兵)を率いて討伐に向かっている。
この「詔」・「成帝」も実質としては庾亮であろう。また、御史中丞(四品)の鍾雅が「監征討軍事・假節」と為った事がその傳(卷七十)に見え、これは「監」とある様に監軍、監督役であったと思われる。
ただ、実際の征討は郭默・趙胤が至る以前に淮陰(廣陵郡)の隣郡、臨淮の太守劉矯が李龍等を攻め、田防及び督護卞咸等を斬り、逃走した史迭・李龍も下邳で斬っている。この為、成帝紀には「臨淮太守劉矯擊破之、斬龍、傳首京師。」と、劉矯の功として記され、趙胤の関与は見えない。
反乱に加担しなかった「(劉)遐母妻子參佐將士」は建康に迎えられ、劉肇は襲爵を許されて、後に散騎侍郎(五品)に至ったと云う。その官からすれば、比較的早くに亡くなったと思われるが、その爵(泉陵公)は劉肇の子・孫・曾孫と受け繼がれ、東晉末まで続いている。
劉遐の妻(邵氏)は田防等の反乱を止めようとするも、聞き入れられなかった為、密かに「甲杖」(武器・鎧)を悉く焼いてしまったと云う。この事は早期の反乱鎮定に一役買ったであろう。劉遐と共にその妻の功が累代の襲爵を担保したと言える。
この反乱平定の論功は鍾雅が「事平、拜驍騎將軍。」とされた以外は不明である。実質的な功が無かった趙胤や、同じく功が無く、一面では乱の原因となったとも言える郭默に封賞が無かったとしても不思議はないが、鍾雅にそれを上回る功があったかも疑問である。
実際に乱を鎮圧した劉矯には、当然何らかの封賞が在った筈だが、彼の名は他に見えず不明である。
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