明帝崩御をめぐる情勢
明帝が崩御する太寧三年閏八月以前に、前年に定められた体制が幾つかの変更されている。その理由の一つは同年四月の「石勒將石良寇兗州、刺史檀贇力戰、死之。將軍李矩等並眾潰而歸、石勒盡陷司・兗・豫三州之地。」にあったと思われる。
元帝の末年以来、北方、淮水以北の失陥は続いていたが、兗州刺史檀贇(斌)が戦死し、西晉末以来、滎陽に拠り、一時は洛陽の奪還も果たした李矩等も勢力を保ちえず、南下した事で「司・兗・豫三州之地」は盡く石勒(後趙)の手に落ちている。
石勒載記では「於是盡有司兗之地、徐豫濱淮諸郡縣皆降之。」とあり、徐州・豫州の「濱淮諸郡縣」が降ったとあるので、概ね淮水以北の地は完全に後趙の領域となったと見ていいだろう。豫州刺史祖約の壽春、徐州刺史劉遐の淮陰は淮水南岸であり、当に最前線となっている。
これ等の淮北(淮西)が、一時的でも東晉治下に戻るのは遥か後年、永和七年(351)の後趙崩壊の中で、青州・兗州・豫州の來降が続き、同十年(354)・十二年(356)の北伐で桓溫が長安(關中)・洛陽(司州)に入った時である。この頃には、趙胤を始め、彼と係わりのある人物の殆どは既に死去している。
因みに、李矩等が南下せざるを得なくなった理由の一つは、彼等と勠力してきた郭默が一足先に南奔した事にある。郭默は征虜將軍を授けられるが、この後、趙胤と係わる事になり、追々述べる事になる。また、李矩は南下する中で、魯陽縣に於いて「墜馬卒」するが、彼に付き随った者の名がその傳(卷六十三)に見える。
「郭誦及參軍郭方、功曹張景、主簿苟遠、將軍騫韜・江霸・梁志・司馬尚・季弘・李瑰・段秀等百餘人」というのが、それであるが、郭誦(李矩甥)以外は、何れも他に見えない人物である。
ただ、その一人、「段秀」は先の「將軍段秀」とは別人であろうが、段匹磾の弟が既に建康に至っていたとするより、李矩の下に身を寄せていたという方が可能性は高い様にも思われる。
なお、石良の侵寇で戦死した兗州刺史檀贇については他に見えず、詳細不明な人物だが、後年、晉末宋初に於いて著名となる高平金郷の檀氏と同族であるかもしれない。高平郡は兗州治下であり、在地の勢力を糾合していた檀贇が刺史に任じられていたのではないか。
ともあれ、淮水以北の完全なる失陥に伴い、対北方(後趙)の軍事体制の再編が必要とされている。そこで、行われた人事の一つが、太寧三年(525)五月の「以征南大將軍陶侃爲征西大將軍・都督荊湘雍梁四州諸軍事・荊州刺史、王舒爲安南將軍・都督廣州諸軍事・廣州刺史。」である。
陶侃は王敦によって廣州刺史に左遷されるが、その後、交州で起こった梁碩の反乱を平定し、征南大將軍・開府儀同三司とされるなど、南方の廣州・交州を安定させている。
「王敦の乱」への直接的な関与はないが、子の陶瞻が参陣し、南方に於けるその存在は王敦等への一定の圧力となっていたであろう。その功績・実力を買われての荊州への復歸である。陶侃傳には「楚郢士女莫不相慶」とあり、その歸還が荊州(「楚郢」)で歓迎された事が記されている。
陶侃と交代で廣州刺史に任じられた王舒については、その傳に「舒疾病、不樂越嶺、朝議亦以其有功、不應遠出。」とあり、当人・朝議共に廣州への赴任は不適当だと見ている。これを受けて、六月に「以廣州刺史王舒爲都督湘州諸軍事・湘州刺史、湘州刺史劉顗爲平越中郎將・都督廣州諸軍事・廣州刺史。」とされ、湘州刺史劉顗と入れ替えられている。
なお、明帝紀では陶侃は「都督荊湘雍梁四州諸軍事」とあるが、これは王舒の「都督湘州諸軍事」と重複する。陶侃傳には「都督荊雍益梁州諸軍事、領護南蠻校尉・征西大將軍・荊州刺史」とあるので、「荊雍益梁」が正しい、或いは、王舒の都督湘州に伴って改められたのだろう。
この人事によって、荊州方面の対後趙の軍事は、当時は対前趙(劉曜)も含めてだが、陶侃が担う事になる。これは「李矩等」(司州)が不在となった事に対する処置である。
いま一つの「檀贇」(兗州)不在への対処として、七月に「以尚書令郗鑒爲車騎將軍・都督青兗二州諸軍事・假節、鎮廣陵。」と郗鑒が青州・兗州の都督と為っている。郗鑒傳では「俄而遷車騎將軍・都督徐兗青三州軍事・兗州刺史・假節、鎮廣陵。」とあり、徐州も含み、兗州刺史も兼ねている。
何れにせよ、「鎮廣陵」とあり、廣陵は江水河口部に近い北岸であるから、後方からの督護であり、実質はこれまで通り、徐州刺史劉遐が前線を担ったと思われる。郗鑒は兗州高平郡金郷が本貫であり、永昌初まで魯の鄒山(嶧山)に拠っていたので、その点が考慮されているのだろう。
なお、青州刺史は不明であり、豫州の都督についても、刺史の祖約が兼ねていたのか、不在であったのか判然としない。但し、実土としての豫州は失陥しており、祖約は豫州刺史と言いながら、揚州の壽春に僑居している立場である。それ故に、都督が置かれていないのかもしれない。
対北の軍事態勢が整えられる一方で、尚書令郗鑒の転出に伴い、領軍將軍卞壼が尚書令に、閏八月に尚書左僕射荀崧が光祿大夫・錄尚書事に、尚書鄧攸が尚書左僕射と為っている。なお、右僕射は不明だが、王敦に殺された戴淵の弟戴邈が「敦誅後、拜尚書僕射。」とその傳(戴淵傳附)にあるので、彼であるかもしれない。
こうして、政・軍の体制が整えられる中、閏八月壬午(十九日)、明帝が不悆となり、戊子(二十五日)に急逝し、翌己丑(二十六日)に太子、後に「成」と諡される成帝が即位する。
但し、彼は「永昌」がその誕生を言祝いで改元された様に、太興四年(321)の生まれで、僅かに五歳である。当然、政務を担うには弱年に過ぎ、母である庾氏が皇太后として臨朝稱制する事になる。
不悆となった明帝も後顧を憂い、太宰西陽王羕、司徒王導、尚書令卞壼、車騎將軍郗鑒、護軍將軍庾亮、領軍將軍陸曄、丹楊尹溫嶠を召して、遺詔を授け、太子(新帝)の輔佐を命じている。これ等の人物は王敦打倒に功を挙げ、明帝朝の中枢を為した者達である。
この中で、最も重んじられる事となったのは、皇太后となる庾皇后の兄でもある庾亮であり、中書令と為り、九月癸卯(十一日)に皇太后が臨朝稱制すると、錄尚書事と為った司徒王導と共に「參輔朝政」している。実際は、「政事一決於亮」とその傳(卷七十三)にある様に、実権は庾亮が握っている。なお、南頓王宗が驃騎將軍、汝南王祐が衛將軍とされたのも、この時点である。
庾亮の專制が定まる中で年は暮れ、明くる二月丁亥(二十七日)に改元されて、咸和元年(326)となる。この改元も何故か正月ではないが、その理由は不明である。
庾亮は琅邪王睿(元帝)の鎮東將軍西曹掾から官を始めており、元帝の僚屬としてはやや後来である。ただ、彼はその年齢から言っても明帝との関係が深く、溫嶠と共に太子(明帝)と「布衣之好」を為し、妃の兄でもあるから、その信任は篤かったと言える。
一方で、「寬和得眾」を旨とした王導とは異なり、「任法裁物」、法に任せて物を裁くという厳格さが在った為に、人心を失ったと云う。良く言っても生真面目、悪く言えば冷淡とでもすべき為人であったと思われる。
故に、と言うわけでもないが、成帝の治世はその始まりから、「咸和」とは裏腹に、不和が顕在化していく事となる。
その不和は先ず、庾亮と宗室の西陽王羕・南頓王宗等との間に起こり、それが本傳の「南頓王宗反」以下の部分に当るのだが、これ以前に起こった一つの事件にも趙胤は係わっており、それについて触れておきたい。
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