王敦の死
趙胤は建威將軍として、王導・溫嶠と共に「武旅三萬、十道並進」とされており、主力として錢鳳討伐に向かう手筈であったと思われる。
建威將軍は第四品であり、從事中郎(六品)であった趙胤が就くにはやや高く、何らかの官を経ているとも考えられる。
詳細は措くが、從事中郎からは、五品の郡國太守・內史・相(加將軍)、中書・散騎・黄門侍郎、太子中庶子、尚書吏部郎などに転じている例が多く、特に郡國太守・內史が14例、中書侍郎を経たものも含めれば15例ある。
中書侍郎以下は所謂文官であるので、趙胤の場合は郡國太守・內史であったと思われる。なお、鄧嶽が二度、從事中郎から西陽太守に、また、周撫が鷹揚將軍・武昌太守から王敦の從事中郎と為った様な例もある。
齊萬年討伐時の周處や周馥討伐時の郭逸の如く、建威將軍のみしか見えない例(13例)や、刺史が帯びている例(18例)もあるものの、これも事例は省くが、太守・內史に加えられている例(24例)が多く、その郡國には吳・會稽・丹楊・吳興など建康周辺のものが多数を占める。また、太守・內史(五品)は趙誘に見る如く、一品上の將軍号を加えられる例がある。
趙胤がこれ等の例と同様かは不明だが、
溫嶠・應詹・郗鑒・庾亮・卞壼等が、それぞれの本官から將軍号を加(爲・行・領)えられている事からすれば、趙胤も王導(司徒)の從事中郎、或いは何らかの五品官から建威將軍を加えられたとも考えられる。
何れにせよ、太寧二年(324)の時点で趙胤は建威將軍である。弱年の推定に從えば、二十代前半の若き將軍という事になるが、いま少し年長とも思われ、三十前後という想定の方が相応しいかと思われる。ただ、それでも比較的若手の將である事に変わりはない。
因みに、建威將軍と同格の奮武將軍蘇峻は「永嘉之亂」以前に「年十八、舉孝廉。」とあるので、「永嘉之亂」を永嘉五年(311)とすれば、元康年間(291~299)の中頃の生まれで而立(三十)前後となるが、四年後の咸和三年(328)に戦陣に立つ子がいるので、いま少し年長と思われる。
同じく奮威將軍陶瞻は父陶侃が咸和九(334)年に卒して「時年七十六」、乃ち魏の甘露四年(259)の生まれであるから、太康年間(280~289)以降の生まれであろう。從って、四十代半ば以下であるが、陶侃は「有子十七人」であるので、陶瞻が第何子か不明だが、いま少し年少である可能性もある。ただ、陶侃が廣州刺史に左遷された建興三年(315)頃に陶瞻は王敦の參軍とされているので、趙胤も含め、概ね三十代と見るのが妥当であろうか。
話を戻せば、趙胤は王導と行を共にする事とされ、故吏として、或いは現任の從事中郎として、王導の影響下にあった事が窺える。
倶に征く溫嶠は建武初年まで北方の劉琨の下に在り、趙誘・趙胤との接点はない。散騎侍郎から王導の驃騎長史と為り、太子中庶子に遷ると、太子(明帝)と「布衣之交」となる。その明帝が即位すると、侍中から中書令と為り、「有棟梁之任、帝親而倚之」とされるが、王敦に忌まれ、その左司馬に請われる態で君側から引き離されている。
しかし、王敦・錢鳳の信任を得て、「綜其府事、干說密謀、以附其欲」となるも、丹楊尹として建康に戻ると、一転して王敦等の「逆謀」を告げて、備えを為さしめている。從って、明帝・王導からの信任故の起用である。
なお、信頼を裏切られた王敦は溫嶠を姦臣の首として、打倒の主目的としており、名目上は彼が今回の事態の契機となっている。それ故の起用とも言えるであろう。
さて、趙胤は溫嶠、更には右將軍卞敦と共に石頭に入った思われるが、七月壬申朔、王敦が王含・錢鳳・周撫・鄧岳(鄧嶽)等水陸五萬を派遣して、「南岸」に至らしめたので、溫嶠は屯営を「水北」に移し、朱雀桁を焼いて、その渡水を阻んでいる。
ここで「南岸」・「水北」とあるのは朱雀橋が架かる秦淮河の事だが、それは唐代以降の呼称である。本は「龍藏浦」と『建康實錄』にあり、この時点では単に淮水と云うが、『晉書』には見えない。なお、「壬申朔」とあるが、七月の朔は辛未で壬申は二日の筈である。
ともあれ、七月頭の段階で、建康城の南で両軍が対峙した事となる。そして、翌癸酉(三日)夜、將軍段秀・中軍司馬曹渾・左衛參軍陳嵩・鍾寅等が甲卒千人を率いて渡水し、王含・錢鳳等の軍を大破している。この敗報を受けた王敦は、遂に「憤惋而死」すとある。反乱の首魁の死としては、いっそ呆気ないとも言えるが、それだけ病が重篤であったのだろう。
余談だが、ここに「將軍段秀」と見える段秀について、『通鑑』は「匹磾之弟也」と、劉琨と共に漢・趙に抗し、元帝の帝位勸進にも名を連ねている幽州刺史段匹磾の弟としている。
段匹磾は劉琨との不和から彼を殺し、幽州も逐われ、太興四年(321)四月に石勒に降っている。「經年」して殺害されたとその傳(卷六十三)にあるので、既に故人であろう。
その弟「秀」の存在は確認できないが、何らかの典拠に依っていると思われる。段匹磾は「東部鮮卑人」とあり、所謂「五胡」の一、鮮卑である。從って、段秀も鮮卑であるが、彼等の父(段)務勿塵には、西晉末に幽州刺史であった王浚の女が嫁いでいるので、或いは、段秀の母はこの王浚の女であり、その故で東晉に仕えていたのかもしれない。
なお、明帝は「鬚黃」であり、王敦から「黃鬚鮮卑奴」と呼ばれている。母の荀氏は、燕代人と云い、その系譜には鮮卑、或いはそれに近しい者が交っているのかもしれない。元帝に勸進した「一百八十人」の中には、段匹磾以外にも、同族の段辰・段眷、更には、別部の「鮮卑大都督慕容廆」がいる。
他に名が挙がっているのは司空・并州刺史劉琨、領護烏丸校尉・鎮北將軍劉翰、冀州刺史邵續、青州刺史曹嶷、兗州刺史劉演、東夷校尉崔毖の六名であるから、当時の「鮮卑」の存在の大きさが窺える。その「鮮卑」に勸進された元帝の子が「鮮卑奴」と呼ばれ、その麾下にも「鮮卑」がいたというのは、その時代性が窺え興味深い。
さて、王敦の死を以てしても、乱は終熄せず、沈充が萬餘人を率いて来援し、建康の攻防はなお続いている。
とは言え、建康以外での大勢は決しており、會稽では疾で歸郷していた虞潭が兵を挙げ、義興では周札等と同族と思われる周蹇が王敦の任じた太守劉芳を殺し、淮南では祖約が同じく太守任台を壽春から逐っている。また、これと前後して、劉遐・蘇峻も建康に至り、朝廷側の優位が確定したかに見える。
そうした中、乙未(二十五日)夜に、沈充・錢鳳等が劉遐・蘇峻等「北軍」の疲弊が癒えぬ内にと攻撃を仕掛け、趙胤が護軍將軍應詹の下、迎撃に当っている。
この戦いは趙胤に不利で、宮城の南門である宣陽門まで進攻を許すが、劉遐・蘇峻等が横撃を加えた事で勝利し、翌丙申(二十六日)に沈充・錢鳳等は屯営を焼いて遁走している。
この後、沈充は故將の吳儒に殺され、錢鳳は周撫の弟周光に捕われ、斬られている。周撫・鄧岳は倶に逃亡し、周光が兄の助命の為に鄧岳を捕らえようとするのを振り切って、遂に「西陽蠻中」に入っている。「西陽蠻」は荊州・豫州界に住まう「蠻」であるが、後に両者共に赦されている。
王含・王應父子は王含が荊州の王舒に、王應が江州の王彬の下に逃れるべきとするが、結局、王含の言を採り、王舒の下に赴いた所を、江水に沈められ、殺害されている。
ところで、沈充には專傳が無く、王敦の傳に附されているが、王敦の存在がいま少し小さければ、第五猗を擁した杜曾の如く、叛逆傳とも言うべき卷百に立傳されていたかもしれない。
一方で、彼の子沈勁は、後に慕容恪(前燕)の侵攻に晒される洛陽の守禦に赴き、敗れ殺された事で忠義傳(卷八十九)に立傳されている。その志が「立勳以雪先恥」に在ったとは言え、対照的な生き方である。
尤も、沈充にもそれなりの人望はあったらしく、この後、十二月に彼の故將顧颺が武康に反して、城邑を焼くも、州縣によって討たれ、斬られている。
但し、この顧颺は司馬として沈充に「今舉大事、而天子已扼其喉、情離眾沮、鋒摧勢挫、持疑猶豫、必致禍敗。今若決破柵塘、因湖水灌京邑、肆舟檻之勢、極水軍之用、此所謂不戰而屈人之兵、上策也。藉初至之鋭、并東南眾軍之力、十道倶進、眾寡過倍、理必摧陷、中策也。轉禍爲福、因敗爲成、召錢鳳計事、因斬之以降、下策也」という、上中下の三策を献じるも用いられず、「逃歸於吳」したという人物と思われる。
吳に逃げ歸ったという事は、同郡の顧氏の族員と思われ、同郡の顧眾の從弟に「護軍參軍顧颺」がいる。しかし、この顧颺は後の「蘇峻の乱」時に存命であるから、別人であるのか、「州縣討斬之」が誤りなのであろう。
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