明帝即位

 永昌元年(322)閏十一月に明帝が即位し、翌年三月戊寅朔に改元されて、太寧元年(323)となる。

 新皇帝が即位すると、翌年正月を以て改元するのが基本だが、何故か、この時は三月に至ってから改元されている。その理由は不明だが、王敦の挙兵、権力掌握という、簒奪(禪譲)を思い起こさせる事態の中での即位が関係しているのかもしれない。


 この事態、そして、元帝の治世末期の情勢は、東晉がその建國当初の「王と(司)馬、天下を共にす」という状態からの転換点に差し掛かっている事を示している。

 それは河南の失陥に見られる様に、版図の拡大の停止、一定の縮小後の安定への途次でもある。周訪・祖逖等の目指した中原回復の停滞でもあり、深くは立ち入らないが、司馬氏や北来の人士の在り方にも変化をもたらすものであっただろう。


 そうした転換点に趙胤は立ち合う事になるが、その前段とも言うべき太興末年を彼がどの様に過ごしていたのかは、王導の從事中郎であった事以外は不明である。

 この間に権力を伸長させた王敦は、父・趙誘が基本的にその節度下にあった人物である。趙誘が存命であれば、王敦の挙兵に何らかの形で関与したのは間違いないであろう。

 行動を共にすることが多かった周訪の如く、王敦に距離を置いたのか、從来通り、又は周訪の子周撫の如く、爪牙として彼に從ったのか、本傳の記述が簡略であり、想像し難い。或いは、杜弘の例を見れば、杜曾が趙誘を殺す事がなければ、彼等が共に王敦の為に働くといった事もあったかもしれない。


 だが、趙胤は以後の行動を見ても、王敦の為に動いた形跡は無い。見方によっては、王敦は趙誘を頤使したとも言え、「甚だ悼惜」したとは言え、結果的に使い捨てにしたとも言えなくはない。

 一方で、王敦と隙を生じた周訪は、趙胤にとっては父の仇を討ち滅ぼし、復讐を遂げる手助けをしたと言えるが、「(趙)胤を以て(杜)曾に餌とす」とある様に、趙胤を利用したとも言える。

 対して、王導は『世說新語』(政事第三)に引く『晉陽秋』に「王導接誘應會、少有牾者。雖疏交常賓、一見多輸寫款誠、自謂爲導所遇、同之舊暱。」とあり、「款誠」(まごころ)を以て「輸寫」(心中をうちあけて示す)するので、「舊暱」(ふるなじみ)の如く遇されたと感じさせる人柄である。

 或いは、趙胤はそうした王導に心酔とまでは言えなくとも、依拠する様になったと想像される。少なくとも、王導に附した事で、趙胤は王敦からも、その敵対者からも距離を置いたと言えるのではないか。王導の立場・在り方に倣ったと言えなくもない。


 王導にとっても、驃騎將軍など、名目上は軍権を握っているものの、実際に動かせる戦力としては、彼固有の武力と言えるものは無かったと思われる。その点では州郡を掌握している王敦、或いは、在地の「豪右」として、「鄉里義眾」を糾合し得る吳興(義興)周氏などに対抗し難いと言える。

 一方で、趙胤は対杜曾戦に於いて「其父餘兵」を領していたと云い、これは父、更にはそれ以前から趙氏に從ってきた部曲(兵)であったと想像され、その規模は不明だが、ある程度、趙胤に私從する兵達であったと思われる。

 つまり、王導が趙胤を從事中郎としたのは、その武力を以て、王敦等に対抗する一助とせん、という一面もあったのではないか。趙胤としても、その部曲を、言わば養っていく為には官の庇護を必要とし、それが王導であったとも考えられる。


 さて、一旦、武昌に戻った王敦は三月に朝廷に諷して、己を徴さしめ、それに応じる態で于湖(丹楊郡)に屯を移し、司空王導を司徒に、そして、自ら揚州牧を領している。

 なお、王敦傳・顧眾傳では「鎮姑孰」とあり、『世說新語』(言語第二)には、「宣武移鎮南州」・「敦既逆謀、屯據南州、含委職奔姑孰。」という文が見える。『世說新語箋疏』では前者への箋疏として、程炎震が『文選』(二十二殷仲文南州桓公九井作一首)の注に引く『水經注』に「淮南郡之于湖縣南、所謂姑孰、即所謂南州矣。」があるとし、趙一清が「今本水經注沔水篇無此文。」としている。

 從って、逸文ではあるが、「南州」と「姑孰」は同一であり、「于湖」の南でもある。「淮南郡」とされているのは、地理志に「分丹楊僑立淮南郡、居于湖。」とある様に、後(成帝時)に于湖縣に淮南郡が僑立された為である。

 于湖は建康の南西、その喉元とも言うべき位置にある。因みに、「宣武」とは王敦と同卷に立傳されている桓溫の事だが、趙胤とは入れ替わる様に史上に登場する為、ほぼ無縁な人物である。


 また、この時、兼太常應詹をして王敦に「黃鉞、班劍武賁二十人、奏事不名、入朝不趨、劍履上殿」を加えせしめている。

 「黃鉞」は征伐の権限を象徴するもので、大規模な征討の折に見られるが、他の「奏事不名、入朝不趨、劍履上殿」については、漢末以来、それを許された人物を挙げれば、以下の如くである。


 董卓:入朝不趨、劍履上殿

 曹操:贊拜不名、入朝不趨、劍履上殿


 曹眞:賜劍履上殿、入朝不趨

 曹爽:賜劍履上殿、入朝不趨、贊拜不名

 司馬懿:奏事不名

 司馬師:黃鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。

 司馬昭:奏事不名/奏事不名、假黃鉞 /加之九錫、假斧鉞、進號大都督、劍履上殿。/假黃鉞


 平原王榦:劍履上殿、入朝不趨。

 汝南王亮:入朝不趨、劍履上殿

 衛瓘:劍履上殿、入朝不趨

 成都王穎:加黃鉞・錄尚書事、入朝不趨、劍履上殿


 皇族(宗室)を除けば、董卓・曹操・司馬懿・司馬師・司馬昭・衛瓘であり、汝南王亮と共に輔政を担った衛瓘以外の名を見れば、「皇太弟」とされた成都王穎も含め、如何なる意味を持つかは自明とも言えるだろう。


 一方で、北方における版図の後退は続いており、三月に「石勒攻陷下邳、徐州刺史卞敦退保盱眙。」、八月に「石勒將石季龍攻陷青州、刺史曹嶷遇害。」、翌二年(324)正月に「石勒將石季龍寇兗州、刺史劉遐自彭城退保泗口。」、石勒載記に「勒將兵都尉石瞻寇下邳、敗晉將軍劉長、遂寇蘭陵、又敗彭城內史劉續。東莞太守竺珍・東海太守蕭誕以郡叛降于勒。」、と淮水以北はほぼ失われている。なお、石勒載記に見える「劉長」は劉遐字正長の誤りである可能性もある。

 南方でも五月に「梁碩攻陷交州、刺史王諒死之。」と交州で反乱が起こっているが、これは六月に「平南將軍陶侃遣參軍高寶攻梁碩、斬之、傳首京師。」とあり、陶侃が鎮圧している。この功により、陶侃は征南大將軍・開府儀同三司に進んでいる。なお、「參軍高寶」は、杜弢平定時に「獲」られたと云う「高寶」の後身と見られる。


 こうした事態に、王敦も対処する必要を感じたのか、十一月に兄王含を征東大將軍・都督揚州江西諸軍事、從弟の廷尉王舒を鷹揚將軍・荊州刺史・領護南蠻校尉・監荊州沔南諸軍事とし、江北を鎮撫させると共に、自らが揚州に遷った後任として、同じく從弟であり、王廙の弟でもある王彬を前將軍・江州刺史としている。

 ここでも「親戚を寵樹」するという点は貫かれており、王導に対する待遇と言い、王敦の一族に対する心情が窺える。但し、王敦の親近感は祖父王覽の子孫までである様で、王覽の兄・王祥の子孫などには及んでいない。更に遠縁の王澄は、その不遜な態度もあるが、王敦によって殺されている。

 また、王敦及びその謀主となった沈充・錢鳳、爪牙となった諸葛瑤・鄧嶽・周撫・李恒・謝雍等の「凶險驕恣」を諌めた從弟の豫章太守王棱も王敦の命で密かに殺されている。


 こうした、一部の例外はあるが、言わば「身内」への甘い対応が、「凶頑剛暴」とされる兄王含、更には屬將達の放恣に繋がっているのだろう。逆に、そうした面が彼等をして王敦の為に奔走させる理由となっているとも思われ、一種の人望と言えなくもない。

 杜弘の任用などを見ると、王敦には有用と見れば、降者を容れる度量があり、どこか、彼が好んで詠った「老驥伏櫪、志在千里。烈士暮年、壯心不已。」の作者、「唯才是擧」と標榜した曹操に通じるものがある。

 一方で、王導や、王敦と錢鳳の密謀を聞いてしまい、それを父王舒へ告げた王允之、更にそれを王導・明帝へ告げた王舒など、琅邪王氏の一族が、王敦へ向ける感情には、王敦のそれと乖離がある。

 彼等にとって、王敦は既に頼るべき柱石ではなくなっていたという事なのであろう。


 ともあれ、物理的、精神的に王敦の圧迫が強まり、北方からも後趙(石勒)が南下しつつある中、太寧元年(323)は暮れ、翌二年を迎える。先に述べた通り、この年が趙胤が帝紀に見える最初の年となる。

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