王敦の決起(第一次)

 建康の元帝と武昌の王敦との間に隙が広がる中で、年が明け、正月乙卯朔に改元されて永昌元年(322)となる。前年(『通鑑』十一月)に皇孫衍(後の成帝)が生まれた事を言祝いでのものだが、この年は「とこしえさかん」なるとは裏腹な年となる。


 正月戊辰(十四日)、大將軍王敦が武昌にて兵を挙げ、劉隗の誅殺を名目に、兵を建康に向ける。これには龍驤將軍沈充が衆を帥いて応じたとあり、彼が譙王承傳の如く、宣城內史であれば、建康が屬す丹楊の南隣、宣城郡が王敦に応じた事になり、故に、程無く王敦の軍は丹楊・宣城の界に在る蕪湖へと至る。

 元帝は戴淵・劉隗を召還すると共に、司空王導を前鋒大都督とし、太子右衛率周えんを沈充討伐に向かわせ、右將軍周札に石頭城を守らせている。石頭城は建康西の江水沿いに在り、建康防備の拠点の一つである。また、王敦の後背を衝かせるべく、廣州の平南將軍陶侃に江州を、梁州の安南將軍甘卓に荊州を領させている。

 劉隗・刁協は王導以下の王氏を誅す事を請うが、許されず、逆に王導が大都督とされている。なお、周莚・周札は同族であり、義興(吳興)陽羨の人、西晉惠帝朝に「齊萬年の乱」鎮圧に出征し、戦死した周處の子(周札)・孫(周莚)である。


 周處は御史中丞として「凡所糾劾、不避寵戚」と、劉隗に似た面を持つが、異なるのは、惠帝の信任が無かった事である。故に、朝臣がその強直を憎んで、「吳之名將子也、忠烈果毅」を理由に、反乱討伐に駆り出し、その中で周處は、故意に「後繼」(後続)を絶たれて戦死している。

 これは逆に言えば、状況の差異こそあれ、周處を罪とする口実が無かったという事であり、その点が劉隗とは異なる。ついでに言えば、周札の兄、周莚の叔父である周は、元帝の即位以前に同郡の錢璯の反を平定しており、義興郡は彼の功を顯彰すべく建てられた郡である。


 この周玘は初期の元帝(琅邪王睿)を支えた一人であるが、やがて、北来の人士(北士)が中心となる事に怨望を抱く様になる。刁協に軽んじられた事などもあり、「諸執政」を殺害して、己と戴淵等「諸南士」が元帝を奉ずるという陰謀を企むも、事が泄れ、罪とされなかったものの、憂憤の内に死去している。

 周玘は「殺我者諸傖子」という言葉を残しており、「傖」は吳人が「中州人」を指す語だと云う。つまり、自分は「中州人」に殺された、と云っているのであり、その怨嗟が知れる。そして、その怨嗟は周莚・周札にも多少なりとも影響を与えているだろう。

 そして、「四月」に周札が王敦に対して石頭城の門を開き、迎え入れた為に、帝城と指呼の間に王敦の軍が入る事になる。なお、この時、石頭城を攻めたのは周訪によって臨賀に逐われ、その後、廣州にて反を為すも、王敦に降って、その將となった杜弘である。彼のその後は不明だが、その起用は王敦の度量と言うべきかもしれない。


 戴淵・劉隗以下、王導・周顗・郭逸・虞潭等の諸軍が石頭城を攻撃するも敗績した事で、事態は決する。念の為に言い添えれば、ここに見える虞潭は趙誘と共に郗隆に策を献じた人物である。

 刁協は江乘に奔るも害され、劉隗は北走して、遂には石勒(後趙)に投じている。「辛未」に大赦があり、王敦は丞相・都督中外諸軍・錄尚書事と為り、「邑萬戶」を以て武昌郡公に封じられる。そして、五日後の「丙子」には戴淵・周顗が殺害され、後に魏乂が湘州を陥した事で、譙王承も殺されている。


 なお、この辛未・丙子は元帝紀の記述に從えば、四月という事になるが、同月には無く、前月(三月)の「甲午、封皇子昱爲琅邪王。」という記事も三月に甲午が無い事から、記事が一月ずれていると思われる。

 実際、『通鑑』は石頭をめぐる攻防を三月条に置いており、辛未・丙子はそれぞれ、三月の十八日・二十三日となる。ついでに言えば、同書では湘州(長沙)が陥落したのは四月癸巳(十一日)となっている。

 翌五月乙亥(二十三日)には梁州でも甘卓が襄陽太守周慮に害されている。甘卓は当初、王敦の挙兵を黙認するも、その後、意を変えて譙王承・陶侃等と結び、王敦不在の武昌を衝こうとする。しかし、そこで逡巡する内に事が決し、周顗・戴淵の死を聞いて軍をかえしている。そして、王敦の意を受けた周慮に襲殺される事となる。


 戴淵・劉隗のみならず、譙王承・甘卓と四囲の障害を排除した王敦は武昌に還り、建康には太保から太宰となった西陽王羕、尚書令を加えられた司空王導等が残留する。王導は王敦を討つべく前鋒大都督に任じられているが、翌年まで揚州も領したままで、王敦のこの從弟に対する感情は然程変化が無かったようである。

 西陽王羕は元帝の祖父琅邪王伷の母兄で、所謂「八王」の一人である汝南王亮の子であるから、元帝にとって、宗室が減少する中、最も身近な親族である。なお、記録上では司馬懿の子孫は元帝自身を除けば、西陽王羕とその弟である南頓王宗、西陽王等の兄子である汝南王祐の家系しか残っていない。

 元帝の從弟で梁王を繼いだ司馬禧の子、梁王翹もこの時点では存命だが、後に子無くして死去し、元帝の孫(武陵王晞の子)が繼いでいる。南頓王宗には後に趙胤が係わる事になる。


 「志」を遂げた王敦は「多害忠良、寵樹親戚」となり、十月に都督荊梁二州諸軍事・平南將軍・荊州刺史に復していた王廙が卒すると、兄である王含を衛將軍・都督沔南軍事・領南蠻校尉・荊州刺史、義陽太守任愔を督河北諸軍事・南中郎將とし、自らは寧・益二州を督している。

 なお、「敦以其兄含爲衛將軍、自領寧・益二州都督。」は八月条にあるが、荊州刺史を考えれば、十月の王廙死後の筈である。或いは、衛將軍のみ八月で、荊州に関する部分が十月以降であるかもしれない。更に、任愔の「督河北諸軍事」は王含の「都督沔南軍事」からすれば、「督沔北」の誤りと思われる。

 但し、周訪の子周撫も、その傳(周訪傳附)に甘卓の死後、督沔北諸軍事・南中郎將として沔中に鎮したとあるので、何らかの誤り、或いは時期的な前後があるのかもしれない。任愔は張光傳に「後義陽太守任愔爲梁州」とあるので「梁州」となっているのは確実である。任愔の後任が、周撫であろうか。

 周撫は諸葛瑤・鄧嶽・李恒・謝雍と共に王敦の「爪牙」とされているが、この李恒は杜曾征討に際して、趙胤が屬した將であり、鄧嶽はこの時点では鄧岳という名で、後に趙胤の僚將となる。

 なお、湘州の後任は不明だが、三年後の太寧三年(325)に劉顗が湘州刺史から廣州刺史と為っているので、この時、就任しているかもしれない。劉顗はその後、廣州刺史として卒している以外は不明である。


 こうして王敦が自己の勢威を確立していく一方で、北方の情勢は悪化し、七月に太山(泰山)にて降背を繰り返していた徐龕が石勒の將石虎にとらわれ、その南、魯郡の鄒山に拠っていた郗鑒は、南下して合肥に入っている。なお、郗鑒は王敦によって安北將軍・兗州刺史とされている。

 翌八月には琅邪太守孫默が叛して、石勒に降り、更に十月、石勒が譙を囲み、祖約の別軍を破った為、祖約も壽春に退いている。石勒載記には「勒征虜石他敗王師于酇西、執將軍衛榮而歸。」とあり、この執われたという「衛榮」は、嘗て祖逖の下で石勒の別軍を汴水に破った「衛策」であるかもしれない。そうであれば、祖約は兄以来の宿將を失った事になる。

 ともあれ、郗鑒・祖約が南に退き、徐龕の太山、孫默の琅邪が失陥した事で、これ以前に辛うじて東晉の統制下にあった豫州・兗州・青州は失われ、後趙の勢力が南下する事になる。

 東晉の版図は大きく後退し、僅か数年で祖逖が成し遂げた「黃河以南盡く晉土と爲す」という功績は無に歸している。全てが王敦の挙兵に原因があるとは言えないが、代償は大きかったと言うべきだろう。


 自らの「中興」の成果が瓦解していく中、閏十一月己丑(十日)、元帝が崩御する。「時年四十七」と云うので、老衰には早く、王敦の挙兵が心労となったのは間違いないだろう。

 翌日、太子紹が即位し、これが後に「明」と諡される明帝であるが、時に二十四という弱年であるので、王導が遺詔を受け、輔政を行う事となる。

 そして、この明帝の下で、趙胤は史上に再登場する事になる。

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