元帝周辺の対王敦策
王敦、延いては琅邪王氏との対立を惹起したのは、窮極的には元帝自身であるが、その意を受け、策を講じていたのはその「心膂」となった劉隗・刁協である。この両者の傳は卷六十九に戴淵・周顗と共に有る。
劉隗は彭城人、刁協は渤海饒安の人で、彭城がやや南だが、共に琅邪王氏と同じく北来の人士である。彭城郡には劉氏が多く、彭城劉氏は縣ではなく里で記され、劉隗の場合、彼の伯父劉訥の孫である劉劭が、『世說新語』(言語第二)に引く『文章志』に「彭城叢亭人」とある様に叢亭里の人である。
彭城劉氏は同郡呂縣の劉氏も含め、東晉末から南北朝に掛けて、主として南朝に多くの人士を出している。東晉に代わった「宋」の太祖劉裕も彭城縣綏輿里の人で、広い意味では劉隗の同族の裔である。なお、劉訥の子孫は北朝(魏)に仕えているが、刁協の子孫も晉宋革命の際に北へ亡命し、後に魏に仕えている。
劉隗は冠軍將軍・彭城內史から「避亂渡江」して、元帝の從事中郎を経て、丞相司直と為っている。刁協も「永嘉初、爲河南尹、未拜」から、やはり「避難渡江」して、元帝の鎮東軍諮祭酒・長史を経て、丞相左長史と為っている。
劉隗が從事中郎と為った時期が不明だが、続く官が丞相司直であるから、琅邪王睿が丞相と為る建興元年(313)五月以前である。刁協も「永嘉初」とあるが、鎮東軍諮祭酒であるから、元帝が鎮東大將軍と為る永嘉五年(311)五月以降である。
從って、両者共に、王導の如く、永嘉初から琅邪王睿に從っていたのではなく、永嘉五年(311)の洛陽陥落前後に南渡したと思われる。琅邪王の屬僚としては後来であり、初期の労苦を共にしていないが、逆にそれ故に、元帝の帝権の確立に熱心であったのだろう。
また、劉隗は「少有文翰」・「雅習文史」、刁協も「少好經籍、博聞強記」とされ、文人であり、武人としての王敦の功績に対して、理解が薄かったと推測される。
刁協の為人は「剛悍、與物多忤、每崇上抑下。」と強直であり、「使酒放肆、侵毀公卿、見者莫不側目。」と、酒の所為もあるが、公卿をも憚らぬ様がある。この為人は劉隗にも通じ、丞相司直・御史中丞として「刑憲」を主った彼は「彈奏不畏強禦」であったと云う。
彼が弾劾した人物の官・姓名を挙げれば、護軍將軍戴若思、世子文學王籍之、東閤祭酒顏含、廬江太守梁龕、丞相長史周顗(等三十餘人)、丞相行參軍宋挺、奮武將軍・太山太守阮抗、南中郎將王含などである。
これ等は丞相司直時代であるが、御史中丞としては、周顗が弟周嵩の門生が起こした事件に坐して、吏部尚書を免じられている。この中で、王含は王敦の兄であり、「以族強顯貴、驕傲自恣」であったとは言え、王敦等琅邪王氏との確執を深める一因となる。
劉隗は「善求人主意、帝深器遇之。」、刁協は「然悉力盡心、志在匡救、帝甚信任之。」であったので、元帝の即位後、劉隗は御史中丞から侍中を兼ね、丹楊尹に転じ、刁協は尚書左僕射から尚書令に遷っている。
こうした劉隗・刁協が「排抑豪強」、特に王敦を制する為に、元帝に勸めたのが「出腹心以鎮方隅」、信頼し得る腹心を各地の鎮撫に出すという方策で、先の譙王承の湘州刺史就任もその一環である。
そして、太興四年(321)七月に至り、尚書戴淵を征西將軍・都督司兗豫并冀雍六州諸〔軍〕事・司州刺史(・假節)として合肥に、丹楊尹たる劉隗自らが鎮北將軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史(・假節)として淮陰に鎮する事となる。
戴淵の司・兗・豫・并・冀・雍、そして劉隗の青・徐・幽・平はその殆どが遥任と言うべきで、実質は揚州北部と豫州、つまり江北の西部に戴淵、その東部、江水の最下流域の徐州を劉隗が鎮撫する体制である。江水中流域の江州・荊州を押える王敦を、西南の湘州(譙王承)と東北の豫州(戴淵)で扼すというのが主眼であっただろう。
なお、唐代に編纂された現行『晉書』は高祖李淵の名を避けている為、戴淵は字の若思で記され、劉隗に弾劾された「護軍將軍戴若思」、その人である。但し、その傳には「中興建、爲中護軍、轉護軍將軍・尚書僕射、皆辭不拜。」と護軍將軍には任じられるも、就任していない事になっている。
先にも触れたが、同月には「驃騎將軍王導」が司空と為っている。「疏間王氏(王敦傳)」・「導漸見疏遠(王導傳)」の中での就任であり、やや奇妙な印象を受ける。或いは、これは王導が驃騎將軍として、名目的であれ有している軍権を奪う為の措置であろうか。
戴淵は廣陵の人で、祖父は吳の左將軍であったと云うので、所謂「南人」、旧吳の人士である。「有風儀、性閑爽、少好遊俠、不拘操行。」とされ、時期が不明だが、東海王越の軍諮祭酒から振威將軍(四品)・豫章太守(五品)となり、「義軍」を率いて「賊」を討って功があり、秣陵侯に封じられている。
この「賊」は年代を考えると、太安年間(302~304)に荊州から揚州にかけて叛した張昌と、その別帥石冰の事と思われる。その後、治書侍御史(六品)・驃騎司馬(六品)を経て、散騎侍郎(五品)から、元帝の鎮東右司馬(六品)と為り、事前に平定されたものの、前將軍(三品)を加えられて杜弢の征討にも参加している。元帝が晉王となると尚書(三品)に任じられている。その経歴からすると文武を兼ね備え、その故か「重望」があったとされている。
こうした戴淵について見ると、彼の起用は王敦への牽制としては最適な一手であったかにも見える。しかし、この措置が、おそらくは劉隗等が想定していなかった事態を生む事になる。
戴淵が征西將軍・都督司兗豫并冀雍六州諸軍事・司州刺史と為る事は、鎮西將軍・豫州刺史である祖逖がその節度下に入るという事でもある。祖逖は戴淵を「雖有才望、無弘致遠識。」と見做しており、その彼が己が苦労して奪還した河南に悠然と乗り込んで来る事に不満を覚える。
しかも、その理由は中原回復の為、外患に備えるのではなく、「內難」乃ち王敦を制する為である。これは彼が望む、河南だけではない「晉土」全域の回復を不可能にする事態である。
怏怏とした祖逖は遂に病を発し、九月に卒してしまう。「時年五十六」と云うので、弱年とは言えないが、心労がその余命を縮めたとも言える。なお、祖逖は泰始二年(266)生まれとなるので、やや年上であるかもしれないが、泰始年間の生まれと推定される趙誘とは同年輩である。
祖逖は周訪亡き後、王敦が唯一畏れていた人物であるから、その死によって、王敦は軍事的に何をも憚る必要が無くなった事になる。祖逖の後任には、その弟である祖約が平西將軍・豫州刺史と為っているが、戴淵共々、王敦を掣肘し得る存在とは成り得なかったのだろう。
なお、祖逖の死は元帝紀に「九月壬寅」とあるが、九月には壬寅が無く、祖約が平西將軍・豫州刺史に任じられたのは、「冬十月壬午」とあるが、こちらも、十月に壬午は無い。或いは、壬寅・壬午が入れ替わっているのかもしれない。九月壬午ならば二十六日、十月壬寅ならば十七日である。
劉隗等は祖逖の憤懣を理解しなかったのだろうが、彼の死は想定外であったと思われる。だが、彼等がそれを苦慮すべき事態と捉えたかは不明である。或いは、戴淵の節度が容易になると考えた可能性も無くはない。
なお、祖約も嘗て、劉隗に弾劾された事がある。してみると、劉隗は彼自身の意向であったかは兎も角、自らが弾劾した戴淵・祖約を豫州に配した事になる。
これは彼自身の私心の無さ、更には同種のものを戴淵・祖約にも求めていた事を示しているとも言える。或いは、元帝が祖約に罪を加える事を許さなかった様に、彼等への信任が絶大であり、その点は覆し難かった故であるかもしれない。
また、祖約に関してはその異母兄祖納が「約內懷陵上之心、抑而使之可也。今顯侍左右、假其權勢、將爲亂階矣」と、任ずるべきでない事を言上しているが、納れられていない。
この言は祖納と祖逖・祖約が異母で不仲であり、その寵貴を妬んでのもの、とされたが、後にその正しさは証明され、趙胤もその一件に関与する事になる。
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