太興年間の情勢
趙胤が史上に再登場、と言うより、年代記である帝紀(明帝紀)に初めて見えるのは、明帝(司馬紹)の太寧二年(324)七月である。
杜曾の征討から五年、從事中郎と為ったと推定される太興四年(321)からでも三年であるが、この数年は東晉にとっても、趙胤にとっても重要な年月であるので、府主である王導や、これまで触れてきた人物を中心に概観しておたい。
趙誘が戦死する以前の建興五年(317)三月、建康にて「晉王」を称した琅邪王睿は、建武と改元した同年十二月に愍帝が殺害された事を、翌建武二年(318)三月に知らされる。
これを受けて、百僚が「尊號」(皇帝号)を称える事を上表し、遂に晉王睿は太興と改元し、皇帝位に即く。形式上は「晉」(西晉)の繼承だが、事実上は新王朝、洛陽(西)に対する「東」の建康に拠った「東晉」の始祖であり、後に「元」と諡される東晉の元帝である。
琅邪王睿の安東司馬と為って以来、彼を輔佐してきた王導は琅邪王が晉王を称した時点で丞相軍諮祭酒であったが、その後、右將軍・揚州刺史・監江南諸軍事から驃騎將軍、更に散騎常侍・都督中外諸軍・領中書監・錄尚書事・假節を加えられている。
王敦が六州を統括している故を以て「中外都督」は固辞し、後に事に坐して節は除かれているが、大司馬・大將軍に次ぐ最高位の軍号である驃騎將軍に、政務に係わる中書・尚書を統括する中書監・錄尚書事であり、文武の要、それ等を総攬する立場にある。
外鎮に在る王敦の都督江揚荊湘交廣六州諸軍事を鑑みれば、当に「王と(司)馬、天下を共にす」とも言える。
元帝即位によって、王導は驃騎大將軍・開府儀同三司とされ、更にその傳(卷六十五)には「進位侍中・司空・假節・錄尚書、領中書監。」とある。これは元帝紀に太興四年(321)七月に「以驃騎將軍王導爲司空」とある。
しかし、王導傳では上記に続けて、太興二年(319)に当たる「會太山太守徐龕反」(元帝紀:四月「太山太守徐龕以郡叛」)や、同年と見られる「代賀循領太子太傅」(元帝紀:七月「太常賀循卒」)という記事が見え、二年以前に司空と為った事になる。
また、王導が徐龕討伐に薦めた羊鑒の傳(卷八十一)には「時徐龕反叛、司徒王導以鑒是龕州里冠族、必能制之、請遣北討。」と、王導が「司徒」であったとある。
司徒は司空の誤りかと思われるが、羊鑒が敗れた事で王導は自らの貶黜を請うており、王導傳には「詔不許」とあるものの、この時に司空を退き、四年に再度司空とされたのかもしれない。
さて、元帝は即位したものの、同年(太興元年)五月には并州から幽州に逃れていた劉琨が害され、北方の「遺晉」勢力は洛陽周辺の李矩等のみとなっている。七月には劉聰が死し、子の劉粲が繼ぐも、翌月には弑され、「漢」は内戦状態となるが、「晉」の軍事的劣勢は続いている。
十二月には「彭城內史周撫殺沛國內史周默以反。」、明けて二年(319)四月に「龍驤將軍陳川以浚儀叛、降于石勒。」・「太山太守徐龕以郡叛、自號兗州刺史、寇濟岱。」と叛乱が相次ぎ、五月に「平北將軍祖逖及石勒將石季龍戰于浚儀、王師敗績。」、十月に「平北將軍祖逖使督護陳超襲石勒將桃豹、超敗、沒於陣。」と豫州の祖逖も苦戦を強いられている。
同年の十一月には石勒が國號を「趙」として王位に即いており、前年の十月に皇帝位に即き、やはり國號を「趙」とした劉曜と並存し、「趙」二國と「晉」(東晉)に、益州の「成」を加えた四國時代となっている。
なお、史的には、先に帝位に即き、且つ、先に滅びる劉曜を「前趙」、石勒を「後趙」と云う。東晉としては「晉」復興のために打倒すべき勢力が分裂した事になるが、攻勢の機を迎えたとは言い難い。
翌三年(320)三月には厭次(樂陵國)の邵續、五月には秦州の晉王保がそれぞれ石勒・劉曜によって滅ぼされ、北方の「遺晉」勢力は更に弱体化している。
なお、この五月には懷帝の太子であった司馬詮(豫章王銓)が平陽で害され、文帝(司馬昭)・武帝(司馬炎)の系譜は完全に絶えている。元帝は哭する事三日であったが、司馬昭の系譜が絶えた事で、その弟の子孫である元帝の正統性は強化されたとも言える。
一方で、この辺りが転機となった様で、同年七月に祖逖が石勒の別軍を汴水に破り、「黃河以南盡爲晉土」した事で、東晉初の境域はほぼ定まる。
概ね揚州・江州・湘州・荊州・徐州・豫州であり、旧荊州西部の梁州や南方の廣州・交州にも勢威は及んでおり、祖逖の節度下にある司州(洛陽方面)や東方の青州なども東晉の勢力下にある。以降は泰山の徐龕が反復を繰り返すなどはあるが、暫しの安定を迎える事になる。
その領域の一つ荊州(梁州)の平定に寄与した太興二年五月の周訪の捷報は、当時は未だ頽勢の中に在っただけに、数少ない吉報として言祝がれたであろう。そして、それに從事した趙胤等も称賛されたと思われる。そうした文脈の中に、趙胤の從事中郎がある。
ところが、対外的な安定は平穏の礎になるかに見えて、却って内部対立の萌芽となる事も多く、この場合もその例に洩れず、王敦・王導等琅邪王氏と元帝周辺の間に隙が生じている。
これには荊州を平定させ、江水の上流に拠って、東晉最大の軍事的実力者となった王敦の「既素有重名、又立大功於江左、專任閫外、手控強兵、群從貴顯、威權莫貳、遂欲專制朝廷、有問鼎之心。」という驕慢も一因となっている。
だが、根本的には外鎮に在る王敦と、朝廷の王導を筆頭に「王と馬、天下を共にす」と云われる程の実力を備えた琅邪王氏と、皇帝としての專権を確立したい元帝、及びその側近の確執が理由と言える。
この王氏、主に王敦と朝廷との対立が顕在化する以前、太興三年(320)の九月には梁州刺史周訪が卒している。時に年六十一と云うので、魏の景元元年(260)生まれである。彼には征西將軍が贈られ、壯と諡され、その本郡に碑が立てられている。
なお、周訪の死は八月辛未条にあるが、八月には辛未は無く、辛未ならば九月二十九日である。
周訪傳に依れば、周訪が杜曾を平定する以前、王敦は「擒曾、當相論爲荊州刺史」と周訪を荊州刺史に任ずる事を約していたと云う。しかし、王敦はその言を履行せず、荊州に入った王廙も、陶侃の將佐等を殺戮し、荊州の衆望を失う。
更に王廙が輔國將軍・加散騎常侍として召還されると、王敦が自ら荊州を領した為、周訪は大いに怒り、異志を抱く事になる。ただ、それを露わにはせず、襄陽に於いて「務農訓卒、勤于採納、守宰有缺輒補」に努めたので、王敦もその強を憚り、彼との対立を避けている。
周訪については、「威風既著、遠近悅服、智勇過人、爲中興名將。」でありながら、「性謙虚、未嘗論功伐。」という人柄が知られている。また、「練兵簡卒、欲宣力中原。」、中原奪還の為に司州(洛陽)方面の李矩・郭默と相結び、「平河洛之志」が有ったと云う。
つまり、実力・人望を兼ね備え、中原の回復を目指すという点で、豫州の祖逖と並び称されるべき人物である。また、祖逖傳には「王敦久懷逆亂、畏逖不敢發。」とあり、周訪についても「敦雖懷逆謀、故終訪之世未敢爲非。」とある様に、王敦への抑止となっていた事も共通する。
從って、太興三年の時点までは、梁州の周訪と豫州の祖逖が、北の両「趙」及び、潜在的に建康と対立する荊州の王敦への牽制となり、同年前後の安定を支えていたと言える。そして、この年の周訪の死は、その一方が欠けた事を意味する。
ただ、周訪の後任には湘州刺史甘卓が安南將軍・梁州刺史として入り、「外柔內剛、爲政簡惠、善於綏撫、估稅悉除、市無二價。州境所有魚池、先恒責稅、卓不收其利、皆給貧民、西土稱爲惠政。」という治政を為しており、梁州の北屏としての役割は維持されている。
周訪の死による余波として、湘州刺史甘卓の後任をめぐって、元帝と王敦の間に不一致があり、両者に対立の萌芽が見える。
王敦は自らの從事中郎陳頒の就任、自らの影響力の布置を望むが、元帝は宗室の譙王承(氶)を監湘州諸軍事・南中郎將・湘州刺史に任じ、送り込んでいる。
これは梁州と共に、江州・荊州に拠る王敦の後背、且つ上流に当たる湘州に、系譜上は司馬懿の弟である司馬進の孫と遠いが、心情的には近しい「叔父」である譙王を配し、牽制させるのが目的である。
なお、嘗て王敦には、陶侃を廣州刺史に左遷する際に、吏將に留任を望まれる陶侃を招き寄せて殺そうとの意思もあったと云う。この時、王敦に「周訪與侃親姻、如左右手、安有斷人左手而右手不應者乎」と、周訪と陶侃の関係を述べて思い止まらせたのが、諮議參軍梅陶、及び長史であった陳頒だと云う。
この二つの逸話からすると、陳頒は王敦から一定の信任を得ていた人物と見られるが、他に見えず詳細は不明である。
但し、譙王承傳(卷三十七)には「會敦表以宣城內史沈充爲湘州」とあり、王敦が「湘州(刺史)」に望んだのは、宣城內史沈充となっている。どちらかが誤りであるのか、王敦が二度に亘って、上表したのかは不明である。
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