復讐の終わり
沌陽に於ける戦いが行われた時期は不明であるが、元帝紀の記述から、建武元年(317)の十月以降、早ければ、同年末であっただろうか。周訪傳では「遂に漢沔を定」めたと、事態が終熄したかに記すが、杜曾等は武當に逃走したものの、なお健在である。
武當は襄陽から沔水(漢水)を遡った順陽郡の西部で、上流に向かえば、梁州の魏興郡、更に遡れば所謂「漢中」に至る。武當の下流で沔水に合流する丹水を遡れば藍田關を経て長安、雍州へと至る事もできる。
この頃、漢中は益州に拠る李氏の「成」、關中(雍州)は平陽に拠る匈奴劉氏の「漢」の制圧下に在り、武當は晉・漢・成三勢力の交に在るとも言える。
杜曾等が漢・成に降る可能性も無しとは言えず、南中郎將・督梁州諸軍・梁州刺史として襄陽に屯する周訪、延いては王敦、更には建康の晉王睿としても、放置する事は出来なかったであろう。
しかし、その征討は順調には進展せず、杜曾傳には「王敦遣周訪討之、屢戰不能克。」と、周訪が屡々撃退されたとある。これは杜曾が武當に拠ってからの事を云っていると思われる。
周訪は「潛遣人縁山開道」して、杜曾の不意を衝き、これを撃破する。これは武當南方の、上庸・新城方面から山岳を越えて奇襲したと見られる。杜曾は遁走するも、馬雋・蘇溫等が彼を執えて周訪に降っている。
馬雋・蘇溫は陶侃の故將で、嘗て王廙を拒んで杜曾に降った者達である。周訪傳には「訪部將蘇溫收曾詣軍」とあるが、「訪部將」ではなく、「曾部將」の誤りであろうか。或いは、先に周訪に降り、杜曾を追い詰めたとも考えられる。
なお、彼等と共に杜曾に降った筈の鄭攀については名が見えず、その末路は不明である。或いは、彼は「(朱)軌等」に降った時点で、既に脱落していたのかもしれない。
斯くして、周訪は杜曾を平定したが、これは太興二年(319)五月甲子(二十四日)の「梁州刺史周訪及杜曾戰于武當、斬之、禽第五猗。」に当る。趙誘等の敗北から一年半以上を要しており、「勇冠三軍」たる杜曾の驍勇が窺える。
さて、周訪は杜曾を生かした儘、武昌に送ろうとしたが、「朱軌息昌・趙誘息胤」、つまり、趙胤と朱軌の子である朱昌が「復冤」を請うた為に、遂にこれを斬っている。
周訪としては杜曾の武勇を惜しんだ、或いは、王敦に是非を委ねるつもりであったのかもしれない。しかし、趙胤・朱昌の報復の念が強く、斬らざるを得なかったのだろう。両者の念いが強固で、また、彼等がその要望を無視し得ない、相応の功績を挙げていた故とも考えられる。
杜曾傳には続けて、趙胤と朱昌が「臠其肉而噉之」、杜曾の肉を
「臠」は『漢書』王莽傳(卷九十九)に顏師古が『三輔舊事』を引いて「切千段也」とする様に、切り裂いた肉、延いては、肉を切り裂く事で、同傳では「軍人分裂莽身、支節肌骨臠分、爭相殺者數十人。」と、王莽の遺体が引き裂かれた事が記されている。『晉書』では、後に趙胤が係わる蘇峻が「投之以矛、墜馬、斬首臠割之、焚其骨、三軍皆稱萬歲。」という死を迎えた事が、その傳(卷百)に見える。
この二例では、その「臠」がどうなったのかは記されていないが、『宋書』二凶傳(卷九十九)に「張超之聞兵入、逆走至合殿故基、正於御床之所、爲亂兵所殺。割腸刳心、臠剖其肉、諸將生噉之、焚其頭骨。」と張超之が乱兵に殺され、その肉を剖かれて、「諸將」がそれを噉らったとある。『梁書』侯景傳(卷五十六)でも、「臠」とは無いが、侯景が「傳首西臺。曝屍於建康巿、百姓爭取屠膾噉食、焚骨揚灰」、「百姓」がその屍を取り噉らった事が記されている。
王莽は漢を滅ぼし、「新」の皇帝となるも、失政により諸反乱を招き、殺されており、蘇峻は後に見るが、明帝に反乱を起こし、「窮凶極暴、殘酷無道」とされ、百官の恨みを買っている。張超之は、父たる宋文帝(劉義隆)を殺して帝位に即いた太子劭(元凶)に仕え、元凶が討たれる際に殺されており、侯景は梁に反し、事実上、それを崩壊させている。
張超之こそ、從屬的立場にあるが、その主たる元凶を含めれば、皆「反」によって人々の怨嗟の的となっていた人物である。上記の傳は何れも各「書」に於いて、列傳としては最後に置かれ、言わば叛臣傳となっている。
杜曾も蘇峻と同傳に立傳され、同様とも言えるが、彼の場合、その「反」は荊州に於いてでしかない。また、「曾求南郡太守劉務女不得、盡滅其家。」といった行為も見られるが、基本的にその怨みは趙胤・朱昌の個人的なものであり、両者の憎悪の激しさが窺える。
斯くして、趙胤は凄絶ではあるが、その復讎を遂げている。その行為の苛烈さを厭うた者もいたであろうが、基本的には孝子として、その復仇は讃えられ、以降の彼の官途に影響を与えたと思われる。また、その激越さは、一面では、これと定めた事に一途である為人であるとも言える。
なお、朱昌については、以後の記録があれば、趙胤との比較などで興味深いが、父同様、この件での記述しかなく、以後の消息は不明である。
杜曾と共に第五猗・胡混・摯瞻等も禽われ、王敦の下に送られる。周訪傳には、周訪が第五猗等は杜曾に逼られていただけであるから、殺すべきでないとしていたが、王敦はこれに從わず、彼等を斬っている。王敦としては、不穏の種を僅かなりとも残すつもりは無かったのであろう。
翌六月丙子(七日)の「加周訪安南將軍」(周訪傳:「進位安南將軍・持節、都督・刺史如故」)を以て、荊州(・梁州)の平定が成っている。
本傳に依れば、趙胤はこの後、「王導引爲從事中郎」と、王導の從事中郎と為っている。
(公府)從事中郎は長史・司馬と共に第六品であり、『晉書』職官志(以下、職官志)には「諸公及開府位從公加兵者」の屬官として「從事中郎二人、秩比千石」、同じく「諸公及開府位從公爲持節都督」に長史・司馬に続いて從事中郎が見える。長史・司馬は屬僚の文・武の首座であり、從事中郎はそれに次ぐ。
王導は建武以降、驃騎將軍、或いは司空であり、太興以降は開府でもある。司空は「公」で、驃騎將軍も「驃騎・車騎・衛將軍……開府者皆爲位從公」であるから、「諸公及開府位從公加兵者」に相当する。從って、太興元年以降のどの時点でも、王導は趙胤を從事中郎とする事ができる。
但し、本来であれば、父を亡くした趙胤はその喪に服すべきである。父の喪は「三年」であるが、実質は二十五月で、趙誘が戦死した建武元年(317)九月からであれば、太興二年(319)十月までとなるが、同年五月までの期間、趙胤は対杜曾戦に從事していた筈である。
復仇の為であるから、実質、喪に服していたとも言えるが、五月以降に改めて服喪に入ったとすれば、太興四年(321)六月までがその期間となる。これは後述する様に、丁度、王導が司空となる直前であるが、遅くともこの頃までには王導の府で從事中郎と為ったのであろう。
趙胤が服喪を厳格に行っていたかは不明だが、彼を登用する側としては、当然、それを遵守したものとして扱ったと思われる。
また、王導が趙胤を從事中郎とした理由も不明だが、父の仇を討った孝子としての評価があったであろうか。或いは、從兄である王敦を介して、彼を知った故とも考えられる。
これ以降の趙胤の消息は暫し途絶える。但し、本傳は「南頓王宗反」という咸和元年(326)八月に当たる記述まで飛ぶが、それ以前から趙胤の活動は確認できる。
趙胤は推定が正しければ、太興四年(321)時点でも弱冠(二十)前後、いま少し年長としても、官が六品の從事中郎に過ぎないので、特筆される事がなければ記録は残らないであろう。
ただ、通常であれば、傳には当人の官歴が記されるものだが、趙胤の場合は簡略に過ぎると言える。
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