趙胤の復讎
杜曾は趙誘等を破った事で、「徑造沔口、大爲寇害、威震江沔。」となり、その討伐は王敦・王廙、延いては建康の晉王睿にとって喫緊の課題となったであろう。それに從事する形で趙胤は史上に登場するが、先ずは、彼自身について見ておきたい。
趙胤について、本傳は「龔弟胤、字伯舒。」とする。「龔弟」とあるので、趙胤は趙誘の次子という事になり、彼にとって、杜曾は父だけでなく、兄の仇でもある。ただ、字は伯舒であり、「伯」は『說文解字』で「長也」とする様に、兄弟・排行での長子に多い字である。次子である趙胤が付けるのはやや奇妙だが、趙龔が死して、実質的に長子(伯)となった時点で名乗った、又は改めた字なのだろう。
兄の死による例は未確認だが、三國吳の諸葛瑾の次子である諸葛喬は、本来の字は仲慎であったが、叔父諸葛亮の繼嗣となる際に伯松に易えている。從って、兄がいても「伯」を名乗る例はあると言え、趙胤が字を改めた可能性はある。
改めたのではなく、父兄の死を承けて、字を名乗ったという可能性もある。或いは、「伯」は「霸」に通じるので、「武」を以て身を立てんとした意気の表れであったかもしれない。
先に推定した通り、趙誘は永康二年(301)からの十年弱の間に二十代から三十代であり、趙胤がこの間に生まれたとすれば、建武元年(317)の時点で趙胤は最大でも十七であり、いま少し年少であれば、まだ字を名乗っていなかったかもしれない。ただ、以下に述べる様に、趙胤は同年中に征旅に從っているので、最低でも十代であろう。
但し、趙誘の生年を想定の中でも早めの泰始年間、或いは、趙胤が趙誘にとって早生、二十前後で生まれたとすれば、趙胤の生年は元康年間(291~299)、その前半という可能性もある。その場合、建武元年(317)には既に二十代半ばに達していたとも考えられる。以降は、基本的に前者の想定に從いつつ、後者の可能性も考慮していきたい。
なお、伯舒という字そのものについて言えば、「胤」は「子孫相承續也。(『說文解字』)」・「繼也。(『爾雅』)」であり、「舒」は「伸也。(『說文解字』)」「一曰舒緩也。(同)」・「緩也。(『爾雅』)」であり、字義の連関がやや判り難い。受け繼いだもの(胤)を緩やかにのぶる、という事であろうか。
ついでながら、兄の趙龔について言えば、彼は父の征旅に從っており、趙胤の兄なのだから、当然、年長である。新昌太守を贈られている以上、一定の年齢、弱冠(二十)程度には達していると思われる。趙胤が二十代半ばならば、三十前後となる。ただ、この場合、趙龔の死去当時の官が見えない事が疑問である。尤も、本傳の記述は簡素であり、省略されているだけとも言える。
『晉書』中で太守を追贈されているのは、趙龔以外では羅憲・陶馥・陶輿・郭璞・俞縱・鄧遐・虞悝・虞望・沈勁の九名であり、何れも一定の官、少なくとも七品以上に登っている。また、羅憲と鄧遐以外は戦死、或いは、それに類する死を迎えている。
從って、趙龔も最低でも七品程度の官にあったと思われるが、確認できない。ただ、彼は第三品に相当する縣侯(平阿縣侯)の子、おそらくは嫡子であるから、それ故の追贈であったのかもしれない。
また、何ゆえ新昌(交州)であったのかは、趙誘の秦州同様、不明である。但し、他の例を見ても、羅憲が「領武陵太守」で武陵太守を贈られている以外は、関連は不明である。
さて、趙胤は父・兄の復讎の為に從軍を望み、本傳には「王敦使周訪擊杜曾、胤請從行。」とある。これは建武元年(317)九月条の「梁州刺史周訪討杜曾、大破之。」に当たるが、趙誘等が戦死したのが九月戊寅で末日であるから、十月以降である。
元帝紀の次の記事は十月丁未の「琅邪王裒薨」で、これも二十九日であるから、一応、この一か月間に更なる征討が開始された事になる。因みに、琅邪王裒は晉王睿の次子で、晉王太子となった司馬紹、後の明帝の母弟である。
ところで、この征討について、「梁州刺史周訪討杜曾」とあり、以下の如く、周訪傳に詳しいが、周訪は杜弢の征討が終了、正確にはその將杜弘が臨賀に逃亡した段階で、龍驤將軍・豫章太守と為り、征討都督を加えられている。
しかし、引用部にある様に、周訪が梁州刺史と為るのは杜曾の征討後である。またしてもと言うべきか、周訪の官に齟齬がある。
「曾等走固武當」とあり、杜曾の平定自体は更にその後であるので、最終的には南中郎將・梁州刺史である周訪が平定しているので上記のような記述になったのかもしれない。
但し、先に触れた様に、王廙傳には「廙督諸軍討曾、又爲曾所敗。敦命湘州刺史甘卓・豫章太守周廣等助廙擊曾、曾眾潰、廙得到州。」と「豫章太守周廣」が見える。周廣が豫章太守であり、周訪とは別に甘卓・周廣も参加していたのか、「湘州刺史甘卓・豫章太守周訪」が誤って、「梁州刺史周訪」となったとも考えられる。
元帝命訪擊之。訪有眾八千、進至沌陽。……使將軍李恒督左甄、許朝督右甄、訪自領中軍、高張旗幟。曾果畏訪、先攻左右甄。曾勇冠三軍、訪甚惡之、自於陣後射雉以安眾心。令其眾曰:「一甄敗、鳴三鼓。兩甄敗、鳴六鼓。」趙胤領其父餘兵屬左甄、力戰、敗而復合。胤馳馬告訪、訪怒、叱令更進。胤號哭還戰、自旦至申、兩甄皆敗。訪聞鼓音、選精銳八百人、自行酒飲之、敕不得妄動、聞鼓音乃進。賊未至三十步、訪親鳴鼓、將士皆騰躍奔赴、曾遂大潰、殺千餘人。訪夜追之、諸將請待明日、訪曰:「曾驍勇能戰、向之敗也、彼勞我逸、是以克之。宜及其衰乘之、可滅。」鼓行而進、遂定漢沔。曾等走固武當。訪以功遷南中郎將・督梁州諸軍・梁州刺史、屯襄陽。(周訪傳)
話を戻せば、引用の如く、周訪は沌陽に進軍し、李恒を左翼、許朝を右翼として、自らは中軍を率いるも、杜曾の猛攻の中、「陣後に於ひて射雉」している。「射雉」は字義通りなら「雉を射る」で、田猟の一種だが、「眾心を安んず」とあるから余裕を示したという事であろうか。
趙胤は父の餘兵を率いて左翼(左甄)、つまり、李恒の下に屬しており、この記述だけを見れば、官に就いている気配は無く、未だ弱年に過ぎないとも思われる。但し、これも省略されているだけ、また、下位の將領であれば、殊更に記されていないだけとも言える。
趙胤はその左翼に於いて力戦するも敗れ、後退して周訪に報告するが、その叱声を浴びて、「號哭」して戦場に戻っている。そして、「旦自り申に至る」、つまり朝から夕刻に至るまで戦うが、又も敗れている。
両翼の敗れた事を聞いた周訪は悠然と、精鋭八百を率いて疲弊した杜曾を撃ち、千余人を殺して、壊走させる。そして、夜を徹して追撃し、「遂に漢沔を定」めたと云う。
「號哭」して戦闘に戻るという点に幼さを感じないでもないが、大の大人であっても泣きたくなる程の過酷な戦場であったとも考えられ、「勇 三軍に冠」絶すとされる杜曾の猛攻がそれ程、凄まじかったとも言える。
また、周訪の叱声が余程の苛烈さ、或いは、端的に「死ね」と云われたが如きものであったとも思われる。或いは、趙胤の復讐への情念が、感情を過敏に、激越させたとも考えられる。
本傳には簡略に「訪憚曾之強、欲先以胤餌曾、使其眾疲而後擊之。胤多梟首級。」としているが、ここでは周訪がより積極的に趙胤等を「餌」としようとしたと記されている。
ともあれ、趙胤は単独ではなかろうが、終日奮戦し、杜曾の猛攻を耐え忍び、戦線の崩壊を防いでいる。そして、おそらくは追撃戦も含めて、多くの首級を挙げ、衆に認められる功績を挙げたと見られる。
本傳はこの後、「王導引爲從事中郎。」と、王導の從事中郎に任じられたとするが、杜曾は襄陽西北の武當(順陽郡)に逃走しており、趙胤の復讎はまだ終わっておらず、周訪傳の記述も続く。
趙胤が從事中郎と為ったのが何時かは後に見るとして、なお暫し杜曾征討を追っていきたい。
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