東晉前夜

 趙誘の死について見る前に、当時の晉の状況、特に建康の琅邪王睿について概観しておきたい。


 先ず、琅邪王睿自身であるが、彼は晉室の始祖である司馬懿の曾孫であるが、魏の禪りを享けた司馬炎(武帝)や、その父である司馬昭の子孫ではない。司馬昭の異母弟琅邪王伷の孫であり、母は夏侯氏である。

 因みに、彼の外祖父は魏の帝室にも近しい夏侯淵の孫である夏侯莊であり、祖母(琅邪王伷妃)は魏末に反司馬氏の兵を挙げた諸葛誕の女である。

 晉の第二代、惠帝の從祖弟であり、系譜上はやや遠い皇族だが、「八王の乱」の中で司馬昭の系統は、惠帝とその弟である吳王晏・豫章王熾(懷帝)、そして、秦王鄴・襄陽王範などの幾人かの嗣王を除けば死亡しており、存命の王の中では比較的近親とも言える。


 琅邪王睿は「八王の乱」の末期に、「八王」の一、東海王越の下で平東將軍・監徐州諸軍事となり、惠帝死(懷帝即位)後の永嘉元年(307)七月に安東將軍・都督揚州江南諸軍事・假節として建鄴に鎮している。同五年(311)五月には鎮東大將軍と為り、これまで見てきた様に、揚州・江州・湘州を平定し、概ね江水以南(江南)を掌握している。

 この間、永嘉五年(311)六月には洛陽が陥落し、懷帝は匈奴「漢」の都平陽に拉致され、翌々年のその死を受けて秦王鄴(愍帝)が長安に即位している。この前後にも多くの宗室諸王が殺害されており、長安の愍帝にとって、琅邪王睿は系譜上最も近しい王の一人となっている。

 彼に匹敵するのは同じく惠帝・懷帝の從祖弟である汝南王祐(汝南王亮孫)と、その叔父である西陽王羕程度で、他は皆、司馬懿諸弟の子孫である。その一人、司馬懿四弟司馬馗の曾孫で、東海王越を伯父とする南陽王保が長安の西、秦州に拠って、愍帝を支えている。

 故にと言うべきか、建興元年(313)五月には南陽王保の大司馬・右丞相・大都督陝西諸軍事に対して、侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事とされ、「陝東」を統括する権限を与えられている。

 「陝東」は弘農郡の陝縣一帯以東を意味し、愍帝の拠る雍州とその西の秦州・涼州などを除いた晉の全土と言ってもよいが、江北、殊に淮水以北の諸州は「漢」の石勒の寇掠下で、并州北部の劉琨など群小の「遺晉」の諸將が在るのみである。実質的に琅邪王睿の権限が及ぶのは、上記の江南のみである。

 湘州・江州南方の廣州・交州は永嘉元年前後の刺史王毅(廣州)・吾彥(交州)の死以降、不安定であるが一応は琅邪王睿(建康)の節度下にあり、故に陶侃が廣州刺史とされている。一方で、湘州・江州の北、江北の荊州は第五猗を擁した杜曾の下に在り、琅邪王の節度に服していない。


 なお、『通鑑』は第五猗・杜曾に関する記事を、荀崧を宛に囲んだことも含めて、建興三年(315)条、湘州平定後に置いている。これは周訪傳に杜弢平定後に続けて、「時梁州刺史張光卒、愍帝以侍中第五猗爲征南大將軍、監荊・梁・益・寧四州、出自武關。賊率杜曾・摯瞻・胡混等並迎猗、奉之、聚兵數萬、破陶侃於石城、攻平南將軍荀崧於宛、不克、引兵向江陵。」としている事に由ると思われる。

 建興三年としても大きな矛盾は生じないが、「破陶侃於石城」とある様に、第五猗の迎立後に陶侃は石城に敗れており、それは建興元(313)年十月の筈である。これが建興三年であるとすると、愍帝紀の記述が誤っているのか、陶侃は二度、石城に敗れた事になる。『通鑑』では元年十月条に石城に関する記述を欠き、王貢・杜曾に敗れた沌陽の敗北に当たる記事とし、石城での敗北は三年条に置いている。

 だが、建興三年の時点で陶侃は、廣州刺史への遷任の中途にある筈である。『通鑑』は第五猗関連の後に錢鳳の「疾陶侃之功」を置くが、この順序であると、杜曾に敗れたにも拘らず、その件ではなく、杜弢平定の功を妬まれて、廣州刺史へ「左遷」された事になる。不合理とまでは言えないが、やや奇妙な認識である。


 また、第五猗が派遣されたのは、梁州刺史張光の卒が原因とされているが、これは『華陽國志』大同志によれば、建興元年九月である。第五猗の派遣が三年であると、事態を察知するのが遅れたとしても、やや遅く、やはり、陶侃が杜曾を攻めた元年十月前後には、第五猗は荊州に入っていると見るべきである。

 周訪傳の記述は、「…引兵向江陵。」までが「時」の内容であり、以下の「王敦以從弟廙爲荊州刺史」の前提を示しているのであろう。或いは、第五猗の荊州入りは三年だったとしても、それ以外の杜曾の活動は元年であったと思われる。


 ところで、梁州刺史張光の死によって、荊州刺史第五猗が派遣されるというのはやや奇妙である。これは晉初に於いては荊州に屬していた新城・魏興・上庸の三郡が惠帝治下で梁州に移され、張光が主としてこの地域に拠っていたからである。上記三郡は荊州の西北で、雍州に接し、長安からも比較的近い。

 また、建興元年は前年、或いは同年に朝廷から正式に任じられていた荊州刺史王澄(王澄傳:「惠帝末、(王)衍白越以澄爲荊州刺史・持節・都督、領南蠻校尉」)が杜弢等の反により、琅邪王睿(王敦)の下に出奔しており、長安の愍帝等としては荊州刺史も不在となったと認識している筈である。

 故に、この機会に第五猗を以て、周訪傳に「監荊・梁・益・寧四州」とある様に荊州・梁州、そして、李氏(李雄)の下にある益州・寧州をも統轄させようとしたと思われる。この四州は長安に拠る愍帝にとっては、南屏とも言うべき位置であり、その掌握が必要とされたのだろう。琅邪王睿にとっての江州・湘州と同様である。


 琅邪王睿は湘州の平定に先立って、建興三年(315)二月に丞相・大都督・督中外諸軍事に進められているが、長安(雍州)の愍帝、秦州の相國南陽王保、開封(司州・豫州)の太尉荀組、并州の司空劉琨などは、「漢」の攻勢の前に退潮傾向にある。そして、翌四年十一月には遂に長安も陥落し、愍帝は懷帝と同じく平陽に連れ去られる。

 この事態を受けて、更に翌年の三月に、琅邪王睿は「晉王」を称し、承制改元して、建武元年(317)としている。王であるが、「晉」を受け繼ぐという意思の表れだろう。

 「建武」は東漢光武帝の元号だが、光武帝劉秀は宗室(景帝七世孫)から「漢」を再興した人物であり、その故事が意識されていると思われる。なお、南陽王保も同じく「晉王」を称している。

 これに伴って、西陽王羕が太保に、王敦が征南大將軍、次いで大將軍に任じられている。王敦の大將軍については、元帝紀は「即王位」時、つまり、建武元年三月に置くが、王敦傳には「建武初、又遷征南大將軍、開府如故。中興建、拜侍中・大將軍・江州牧。」とあり、大將軍は琅邪王睿が皇帝位に即いた後の、太興元年(318)四月「加大將軍王敦江州牧」時かと思われる。


 ともあれ、六月には司空劉琨以下が琅邪王睿を帝位に勸進し、彼が晉中興の主と為る事が望まれている。その衆望に応える為にも、琅邪王は晉土の奪還、掌握を果たさねばならない。そして、その対象の第一が江北の荊州であり、王敦、そして、刺史と為った王廙がその任に当たる事となる。

 なお、荊州と並び奪還すべき対象である揚州北方の豫州には、徐州刺史として京口に居た祖逖が奮威將軍・豫州刺史に任じられ、向かう事になる。祖逖は渡江に際して、「祖逖不能清中原而復濟者、有如大江」と壯烈な辞を残し、後にそれを果たす事になる。

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