「湘州平」後
杜弢の最期こそ不分明だが、建興三年(315)八月を以て湘州は平定され、建康の琅邪王睿は江州に次いで、湘州も確保した事になり、当然ながら、その論功が行われている。
杜弢征討に係わった人物(一部推定)への賞賜を確認すれば、以下の如くとなる。
謝鯤(三十五):左將軍王敦引爲長史、以討杜弢功封咸亭侯。
周訪(五十六):王敦表爲豫章太守。加征討都督、賜爵尋陽縣侯。
應詹(四十二):元帝假詹建武將軍、王敦又上詹監巴東五郡軍事、賜爵潁陽鄉侯。
甘卓:尋遷湘州刺史、將軍如故。復進爵于湖侯。
卞敦:尋而王如・杜曾繼爲亂、(山)簡乃使敦監沔北七郡軍事・振威將軍・領江夏相、戍夏口。敦攻討沔中皆平。既而杜弢寇湘中、加敦征討大都督。伐弢有功、賜爵安陵亭侯。鎮東大將軍王敦請爲軍司。
虞潭(五十三未満):卓上潭領長沙太守、固辭不就。王敦版潭爲湘東太守、復以疾辭。弢平後、元帝召補丞相軍諮祭酒、轉琅邪國中尉。
朱伺(六十前後):又以平蜀賊襲高之功、加伺廣威將軍、領竟陵内史。
趙誘についても、杜弢征討への詳細な関与は不明だが、本傳には「攻弢、滅之。累功賜爵平阿縣侯、代陶侃爲武昌太守。」とあり、功績を挙げて、賞賜に与っている事が知れる。
平阿は淮南郡の縣で、その北部だが、甘卓が于湖侯(丹楊郡)、周訪が尋陽縣侯(尋陽郡)と出身の郡・縣に封じられている事からすれば、趙誘も同様、つまり、平阿縣が趙誘の郷里であったのかもしれない。
なお、應詹は潁陽鄉侯とされているが、彼は汝南南頓の人であり、南頓縣は潁水の南であるが、治下の鄉に潁水の北(陽)に在るものがあれば、そこが「潁陽鄉」であったかもしれない。
趙誘は陶侃が荊州刺史に進んだ時点で、彼に代わって武昌太守と為ったとも考えられるが、陶侃は乱中には林鄣など武昌周辺に在り、「領西陽・江夏・武昌」と武昌太守を帯領している。從って、趙誘が武昌太守とされたのは、本傳の記述通り、杜弢平定後であっただろう。これ以前であったとしても、その実が伴ったのはやはり、平定後と思われる。
ところで、陶侃が荊州刺史と為った建興元年(313)には、趙誘と同卷に立傳されている張光が死去している。その傳に依れば、この時、彼は材官將軍・梁州刺史であり、「州刺史領兵者」は四品、材官將軍は五品である。
廣武將軍(四品)・武昌太守(五品)である趙誘と同等、刺史という点ではやや格上と見做される。建興三年(315)に趙誘は四十代と推定され、五十五で卒した張光よりやや格下というのは相応である。
なお、張光は元康六年(296)に「氐羌反叛」(齊萬年の乱)によって太守張損が戦死すると、郡縣吏士を率いて「馬蘭山北」を戍り、救援を受けるまで百餘日に亘って守り抜く。その功によって新平太守を「擢授」されているが、当時三十八である。これは「擢」とある様に、やや早い昇任である。
その後、紆余はあるが、永興二年(305)十二月の「陳敏作亂」によって、「順陽太守、加陵江將軍」(共に五品)と為っている。永興二年の時点で、四十七であり、ほぼ同等の地位に就いた趙誘が四十代というのは、妥当であろう。
「伐弢有功」とある卞敦は、これまで触れてこなかったが、江夏相として荊州の騒乱を鎮定し、杜弢征討にも加わり、その功で安陵亭侯を賜っているが、その具体は不明である。武昌の隣郡江夏の相で、王敦の軍司と為っている事からすれば、趙誘との接点があった可能性もある。なお、「加敦征討大都督」とあるが、この「敦」は王敦であろう。
同じく、「以討杜弢功」とある謝鯤は王敦の長史という以外、具体が知れず、趙誘・趙胤との係わりもない。
朱伺については「平蜀賊襲高之功」となっているが、杜弢征討の初期以来、陶侃の督護として、以降の「建興中」にも征伐に加わっているので挙げておく。
判明するそれぞれの年齢も付記しておいたが、これからも趙誘が四十代という推定が大きくは外れていない事が窺える。ただ、その後半かとは思われる。
この他、当然ながら、征討の都督(「元帥」)である王敦も賞賜されており、「進鎮東大將軍・開府儀同三司、加都督江揚荊湘交廣六州諸軍事・江州刺史、封漢安侯。」とされ、「自選置、兼統州郡」、統轄する「州郡」(刺史・太守)を自ら選ぶ事を認められている。
これによって、影響を被ったのが、最大の功労者と言ってもよい陶侃である。陶侃は本来であれば、使持節・寧遠將軍・南蠻校尉・荊州刺史から、更なる官爵を授けられて然るべきである。
しかし、陶侃は廣州刺史・平越中郎將とされており、荊州と廣州の重要性を鑑みれば、明らかに降格である。陶侃傳には「左轉」、王廙傳には「左遷」とある。
この人事の理由は王敦の「深忌侃功」であると云う。なお、『通鑑』には「王敦嬖人吳興錢鳳、疾陶侃之功、屢毀之。」とあり、錢鳳の讒言が原因とするが、少なくとも『晉書』中にその根拠は見出せない。
王敦傳では、後に彼の罪として、「誣罔忠良」が挙げられているが、そこで名が挙がっているのは、周嵩・周札・周莚のみで陶侃は見えない。ただ、この三者は王敦によって害されているので、生存している陶侃の名は挙がっていないとも考えられる。
そもそも、陶侃が荊州刺史と為ったのは、飽く迄も、戦時故の権宜の措置であり、戦乱が終熄した事で、彼は用済みとまでは言わないまでも、その地位に相応しくない者として逐われる事になったとも言える。
ともあれ、湘州平定の功労者である筈の陶侃は廣州へ遷され、後任として王廙が寧遠將軍・荊州刺史に任じられる。王廙は琅邪臨沂の人で、その傳(卷七十六)には「丞相導從弟」とあるが、当然、王導の從兄である王敦の從弟でもある。
更に彼は「元帝姨弟」ともあり、彼の母と元帝の母夏侯太妃(夏侯光姫)が姉妹である。因みに「書聖」ともされる王羲之の叔父でもある。
彼は惠帝末に「豫迎大駕」の功により武陵縣侯に封じられていたが、「守廬江・鄱陽二郡」として「豫討周馥・杜弢」した事で、上には挙げていないが、「以功累增封邑」されている。
そして、冠軍將軍・領丞相軍諮祭酒から、王敦によって荊州刺史に迎えられている。なお、この時、王敦は五十、陶侃は五十七、王廙は四十である。琅邪王氏の二人と、「寒宦」とされた陶侃の昇任の速度の違いが窺える。
この王廙の荊州刺史就任が、結果的に趙誘の死の原因となる。
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