杜弢征討(第二次)

 陶侃は建興二年(314)三月に「杜弢別帥王真襲荊州刺史陶侃於林鄣、侃奔灄中。」とある様に、「杜弢別帥」である王真の襲撃を「林鄣」に受け、「灄中」に奔っている。


 「林鄣」・「灄中」共に地理志に見えない地名だが、「林鄣」は『水經注』(卷二十八沔水中)に「沔水又東逕沌水口、水南通沌陽縣之太白湖、湖水東南通江、又謂之沌口。沔水又東逕沌陽縣北、處沌水之陽也。沔水又東逕林鄣故城北、晉建興二年太尉陶侃爲荊州、鎮此也。」とあり、沔水(漢水)が「沌陽縣之太白湖」を通じて江水に通じる辺りの地だと云う。江夏郡の東南部、江水を挟んで武昌郡に接する一帯で、吳の要地であった夏口の対岸に当たる。

 「灄中」は同じく『水經注』(卷三十一溳水)に「溳水又南、分爲二水、東通灄水、西入于沔、謂之溳口也。」とある江夏郡の北、蔡陽縣(義陽郡)から南流してきた溳水が分流した東の流れを「灄水」と云うので、その一帯を言うのだろう。

 また、同じく『水經注』(卷三十五江水三)には「江水左得湖口、水通大湖、又東合灄口、水上承溳水于安陸縣而東逕灄陽縣北、東流注于江。」とあるので、灄水は「灄口」で江水と合流し、灄水と別れた溳水は沔水に入ると云うのだから、やはり、沔水と江水が合流する夏口周辺である。

 從って、陶侃は当時、江州の武昌対岸で、湘州の長沙にも程近い位置にいた事になる。だが、この位置は『水經注』に「沌陽」が見える様に、嘗て王貢・杜曾に陶侃の督護鄭攀が破られた地である。

 陶侃傳ではその後に「又敗朱伺於沔口。侃欲退入溳中」とある様に、陶侃は「溳中」に入ろうとしている。この「溳中」は当然ながら、溳水の一帯で、「灄中」と同じような位置であるだろう。


 以上からすると、この二年三月の記事は前年八月の記事と同一の事を言っている様にも見える。陶侃傳にこれに対応する記事が見受けられないのも、それを証しているかと思われる。杜曾との関連からすれば、二年三月が誤りで、元年八月に入るべきという事になる。

 但し、この記事以外、建興二年中に荊州関連の記述は無く、陶侃等の活動が不明になってしまう。從って、この記事を誤りとして削除するのは適当ではないが、その場合、陶侃は同じ相手に、同じ場所で二度敗れた事になる。削除するならば、征討が全く停滞していたという事であり、しないならば、林鄣を逐われた事で、停滞以上に後退したという事になる。

 当然ながら、この間の趙誘の動向についても不明である。引き続き陶侃の節度下に在ったと思われるが、その直下にあり、杜曾・王真との戦闘に参加していたのか、或いは、別に転戦していたのかを知る事はできない。


 明くる建興三年(315)二月に「荊州刺史陶侃破王真於巴陵。」という記事がある。久々の捷報と言うべきだが、陶侃傳では以下の如く、撃退であって、攻勢ではない。


 精卒三千、出武陵江、誘五谿夷、以舟師斷官運、。侃使鄭攀及伏波將軍陶延夜趣巴陵、潛師掩其不備、、斬千餘級、降萬餘口。。(陶侃傳)


 この「王貢」は王真の誤りだが、彼は陶侃を林鄣から逐った後、何故か「武陵江」に転進している。「武陵江」は『水經注』(卷三十八湘水)に「湘水左則澧水注之、世謂之武陵江。」と見える「澧水」の別称である。

 「澧水」は同じく『水經注』(三十七澧水)に「澧水出武陵充縣西歷山……澧水又東逕澧陽縣南、南臨澧水、晉太康四年立、天門郡治也。」とある様に、荊州西部の天門郡を東西に貫流して、長沙郡・南郡界で湘水に合流する。

 林鄣やその対岸と言える武昌とは、南郡(江陵)を挟んで正反対と言える位置にある。陶侃を逐ったにしては不可解な行動だが、追撃、或いは江夏一帯を確保する余力は無かったという事であろうか。二年三月の記事が誤りで、周訪等に撃破されていたならば、武陵方面に逃走し、再起した事になる。


 「五谿夷」は『後漢書』・『三國志』などでは「五谿蠻夷(五谿・五谿蠻)」とされ、天門郡を含む武陵郡一帯に居住する「蠻」族で、屡ば討伐を受けている。彼等を誘った王真は、おそらく澧水沿いに武昌に向かい、その途上、澧水と湘水が合流する付近の巴陵(長沙郡)で陶侃の派遣した「鄭攀及伏波將軍陶延」に撃破されている。

 杜弢傳では王真を撃破したのは「伏波將軍鄭攀」となっており、「陶延」が脱落しているのか、鄭攀の官に誤りがあるのかのどちらかと思われる。なお、陶延はその姓からすれば、陶侃の近親かとも思われるが、他に見えず不明である。ただ、趙誘と同卷に立傳されている丹楊秣陵の陶璜など他にも陶氏は存在する。


 陶侃は王真を撃退するも、同月には「杜弢別將杜弘・張彥與臨川內史謝摛戰于海昏、摛敗績、死之。」とあり、杜弢の猖獗は治まっていない。ここで「杜弢別將」とされている杜弘は王敦傳では「杜弢將」、王機傳(卷百)には「杜弢餘黨」とあるが、同姓である以外の詳細は不明である。

 杜弘・張彥と謝摛が戦った海昏は、江州の豫章郡東北で、臨川郡は豫章の南である。豫章郡は湘州の長沙郡や安成郡と接しており、侵攻はそちらから行われている。

 周訪傳には「而賊從青草湖密抄官軍、又遣其將張彥陷豫章、焚燒城邑。」とあり、「青草湖」は『水經注』(三十八湘水)に「湘水自汨羅口、西北逕磊石山西、而北對青草湖、亦或謂之爲青草山也。」とあり、「汨羅」は屈原の故事で有名だが、湘水はこの後、「又北至巴丘山入于江。山在湘水右岸。山有巴陵故城、本吳之巴丘邸閣城也。」とある様に、巴陵の上流である。

 從って、杜弘等は巴陵での戦いの前後に「官軍」の目を抜けて、豫章に侵攻したのだろう。なお、周訪傳はこの前に「弢作桔槔打官軍船艦、訪作長岐棖以距之、桔槔不得爲害。」という、先に触れた「桔槔」が係わる戦いを置いている。

 或いは、この戦いは、巴陵に於けるものであったかもしれない。すると、巴陵の戦いには周訪・趙誘・陶輿も加わっていた可能性がある。少なくとも、周訪は事後に関わっており、同年三月に「豫章內史周訪擊杜弘、走之、斬張彥於陳。」とある。


 その経緯は以下の如く周訪傳に詳しいが、杜弘と張彥の侵攻は別々(前後)であり、周訪が「豫章內史(豫章太守)」と為るのは、戦勝後である。

 これに先立ち、衛展と共に華軼から内応した人物に「豫章內史周廣」がおり、王廙傳にこの後、湘州刺史と為った甘卓と共に杜曾を討つ「豫章太守周廣」がいる。この両者は同一人であるか、後者が周訪の誤りと思われる。

 或いは、この時点までの豫章太守は周廣であり、戦後に周訪に代わった事で混同されたのかもしれない。なお、臨賀に逃走した杜弘は廣州で再び反した後、陶侃に降るが、更に後、王敦の將として登場する事になる。


 而賊從青草湖密抄官軍、又、焚燒城邑。王敦時鎮湓口、遣督護繆蕤・李恒受訪節度、共擊彥。蕤於豫章石頭、與彥交戰、彥軍退走、訪率帳下將李午等追彥、破之、。……賊謂官軍益至、未曉而退。……、而。時湓口騷動、訪步上柴桑、偷渡、。賊退保廬陵、訪追擊敗之、賊嬰城自守。尋而軍糧爲賊所掠、退住巴丘。糧廩既至、復圍弘於廬陵。……弘入南康、太守將率兵逆擊、又破之、奔于臨賀。帝又。加征討都督、賜爵尋陽縣侯。(周訪傳)


 ともあれ、巴陵に続くこの勝利が転機となり、永嘉五年(311)正月以来三年余に亘る「杜弢の乱」は終熄に向かう。建興三年(315)八月に「荊州刺史陶侃攻杜弢、弢敗走、道死、湘州平。」とあり、半年程で杜弢は平定されている。

 杜弢の最期については、杜弢傳に「於是侃等諸軍齊進、真遂降侃、眾黨散潰。弢乃逃遁、不知所在。」、陶侃傳にも以下の如くあるのみで、詳細は不明である。


 賊中離阻、杜弢遂疑張奕而殺之、眾情益懼、降者滋多。王貢復挑戰、侃遙謂之曰:「杜弢爲益州吏、盜用庫錢、父死不奔喪。卿本佳人、何爲隨之也?天下寧有白頭賊乎!」貢初橫腳馬上、侃言訖、貢斂容下腳、辭色甚順。侃知其可動、復令諭之、截髮爲信、貢遂來降。而。進克長沙、。(陶侃傳)


 なお、捕えられたという「其將」高寶は後に「陶侃將」(參軍)として見え、梁堪も太興二年(319)正月に「崇陽陵毀、帝素服哭三日。使・守太常馬龜等修復山陵。」とある「冠軍將軍梁堪」と同一人である可能性がある。

 但し、崇陽陵は司馬昭(文帝)の陵墓であるので、これは安定梁氏など北方(關中)の人物とも思われ、別人であるかもしれない。

 いま一人の毛寶は卷八十一に傳がある「滎陽陽武人」毛寶と同一人と思われ、監揚州之江西諸軍事・豫州刺史まで至っている。ある意味では当に「」るという成果だったと言える。

 ついでに言えば、周訪・趙誘と共に戦った陶輿は杜弢との戦いの中で、「被重創、卒。」とあり、これまでに戦死している。

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