「杜弢の乱」
江州にて華軼を平定した趙誘等は、更に西、湘州へと向かっている。湘州は永嘉元年(307)に荊州の長沙・衡陽・湘東・零陵・邵陵・桂陽と廣州の始安・始興・臨賀の九郡を以て置かれた州である。荊州の東南部と、それに接する廣州の北部で、江州のほぼ真西に当る。
湘州では永嘉五年(311)正月に「湘州流人
なお、杜弢の傳は叛逆傳とも言うべき卷百に有るが、蜀郡成都の人で、当初、益州の乱を避けて荊州に避難し、南平太守應詹に禮遇されて、長沙郡南部の醴陵令と為っている。この当時、杜弢と同じ様に益州(蜀)から難を避け、荊州一帯に居住したものは多く、「巴蜀流人汝班・蹇碩等數萬家」が荊・湘州にある。
彼等と在地の旧民との間には軋轢が生じており、「蜀賊李驤」が縣令を殺して樂鄉(南平郡北部)に屯聚した際に、杜弢は應詹と共にこれを撃っている。その後、「蜀人杜疇・蹇撫等」が湘州で騒擾を起こし、汝班と「不協」であったという參軍馮素が刺史荀眺(苟眺)に「流人皆欲反」として、悉く殺すよう仕向けた為に、遂に汝班等が反すに至ったと云う。そして、衆に推された杜弢が主となり「梁益二州牧・平難將軍・湘州刺史」と称したと、懷帝紀とは事の順序が逆になっている。
但し、杜弢傳では荀眺を逐い、廣州刺史郭訥や荊州刺史王澄が派遣した討伐軍を撃破した杜弢は一時、征南將軍・都督荊湘交廣寧益諸軍事の山簡に降り、廣漢太守(益州)に任じられている。その後、州人が推して領州事とした安成太守郭察(郭訥弟)を敗死させ、零陵・武昌などに侵攻し、長沙太守崔敷・宜都太守杜鑒・邵陵太守鄭融等を害したとある。
從って、事態がやや錯綜しているが、「湘州流人杜弢據長沙反」及び「益州流人汝班・梁州流人蹇撫作亂于湘州」が正月で、「南破零・桂諸郡、東掠武昌(杜弢傳:「南破零陵、東侵武昌」)」は五月(以降)なのだろう。山簡に一時降ったのはこの間となる。
何れにせよ、益・梁州(蜀)からの流人と在地勢力の争いに、刺史以下の苛政が騒動を助長させた構図で、杜弢等が避難した蜀の乱も同様の構図を持っている。類似の構図は各地に見られ、「八王の乱」から「永嘉の乱」に掛けての、西晉崩壊過程での一つの典型とも言える。
趙誘等はこの事態を受けて、征討に向かっている。本傳には「又擊杜弢於西湘」とあり、「西湘」(湘州西部)に於いてとあるが、「西して湘(州)に於いて杜弢を擊」つの方が事態に即しているかに思われる。或いは、「西」の「湘」州と言った語感であろうか。
なお、王敦・甘卓・周訪の傳にも周訪傳の「復命訪與諸軍共征杜弢」の如く「征杜弢(討弢)」の事は見えるが、内容からして、これは後の第二次征討とでも呼ぶべき時点でのものである。
また、杜弢傳でも「元帝命征南將軍王敦・荊州刺史陶侃等討之」とあるが、これも王敦はこの時点では左將軍、陶侃も武昌太守であり、後のものが混同されている。特に、王敦が征南(大)將軍となるのは、「建武初」で、「滅弢」後である。王敦傳に任命記事が欠けている可能性もあるが、誤謬が甚だしい。因みに、この時点での荊州刺史は、杜弢傳に見える様に王澄であり、王敦の族弟に当たる。
ただ、杜弢傳でこれに続いて「前後數十戰、弢將士多物故、於是請降。帝不許。」とあるのは、この時点であり、應詹傳に「會蜀賊杜疇作亂、來攻詹郡、力戰摧之。尋與陶侃破杜弢於長沙、賊中金寶溢目、詹一無所取、唯收圖書、莫不歎之。」と、應詹が金目のものに目もくれず、図書のみを回収したと見えるのも、この時の事であろう。降伏を申し入れるも拒絶された杜弢であったが、結局、應詹の救解もあり、許されて、「宣詔書大赦、凡諸反逆一皆除之」とされ、巴東監軍が加えられている。
杜弢の降を容れるに当って、挙げられている「詔書大赦」は、永嘉六年(312)九月の長安での司馬鄴(愍帝)の立太子、或いは、懷帝死去に伴う、翌年四月の即位によるものと思われる。なお、愍帝即位に伴い、琅邪王睿は「侍中・左丞相・大都督陝東諸軍事」とされ、愍帝の諱を避けて、建業(建鄴)は建康と改名されている。
杜弢の降が容れられた事で、杜弢の征討は一時中断することになり、便宜上、これ以前を第一次征討、これ以降を第二次征討としておく。
この第一次征討には永嘉末に南康太守となっていた虞潭も從事している。彼は元々「尋被元帝檄、使討江州刺史華軼。潭至廬陵、會軼已平、而湘川賊杜弢猶盛。」と華軼の征討に向かっていたが、到着する前に華軼が平定されている。廬陵に至った虞潭は華軼に代わったであろう江州刺史衛展によって安成太守を領せしめられ、当時、宜陽(安成郡北部)で杜弢に逼られていた甘卓を救援している。
南康郡は江州の南西端で、廬陵郡から分立された南半に当たる。廬陵郡の西が安成郡であり、その西は長沙郡など湘州となる。安成から長沙に入ったところが、杜弢が令であった醴陵である。
衛展は先にも江州刺史であり、華軼の下で「不為軼所禮、心常怏怏」であったので、豫章太守周廣と共に内応して、華軼を襲い、安成に逃れた彼を捕えている。その功により、刺史に返り咲いたのであろう。
この後、虞潭は甘卓から長沙太守、王敦から湘東太守と、共に安成郡の隣郡の太守に任じられるが、辞している。「弢平後」に琅邪王睿の丞相軍諮祭酒として召されているが、これはこの後の第二次征討の後であろう。
杜弢の征討を便宜上、第一次・第二次としたが、実際は一連のものであり、杜弢傳には「弢受命後、諸將殉功者攻擊之不已、弢不勝憤怒、遂殺運而使其將王真領精卒三千爲奇兵、出江南、向武陵、斷官軍運路。」と、諸將の攻撃已まざるに憤った杜弢が再起した事が記されている。これは、建興元年(313)八月の「杜弢寇武昌、焚燒城邑。弢別將王真襲沌陽、荊州刺史周顗奔于建康。」に当たると思われる。
この「攻擊」が元帝や王敦の意を受けたものなのか、「諸將」の恣意によるものなのか、判断し難い。ただ、そこに汝班等が反すに至った理由の如く、「官」による横暴を見るのは不当ではないだろう。
王敦傳に「蜀賊杜弢作亂、荊州刺史周顗退走、敦遣武昌太守陶侃・豫章太守周訪等討弢、而敦進住豫章、爲諸軍繼援。」、周訪傳にも「復命訪與諸軍共征杜弢。」とあり、趙誘も「太興初、復與卓攻弢。」と「建興」を「太興」に誤っているが、この第二次征討に從軍している事が見える。
ここに「豫章太守周訪」とあるが、周訪傳では彼が豫章太守となるのは杜弢以下、荊州・湘州の騒乱が一段落した後であり、この時点では尋陽太守である。
一方、甘卓傳に「其後討周馥、征杜弢、屢經苦戰、多所擒獲。以前後功、進爵南鄉侯、拜豫章太守。」とあり、この「征杜弢」は中断前の第一次征討で、甘卓はその功により豫章太守とされたと見られる。
本傳に「與(甘)卓」とある様に、甘卓が征討に從事しているのは間違いないので、「豫章太守」と「周訪」の間には、「甘卓・尋陽太守」が脱落していると思われる。
この前後の経緯について、下記の如く陶侃傳に詳しいが、再起した杜弢により、新たに荊州刺史と為った周顗が豫章の王敦の許へ逃亡し、その後、琅邪王睿に召されて建康へと向かっている。なお、「(杜)弢別將王真」と「(陶侃)參軍王貢」が見え、字形が似ており、陶侃傳は後文で王真を王貢と誤っているが、別人である。
時周顗爲荊州刺史、先鎮潯水城、賊掠其良口。侃使部將朱伺救之、賊退保泠口。……賊果增兵來攻、侃使朱伺等逆擊、大破之、獲其輜重、殺傷甚眾。遣參軍王貢告捷于王敦、敦曰:「若無陶侯、便失荊州矣。伯仁方入境、便爲賊所破、不知那得刺史。」貢對曰:「鄙州方有事難、非陶龍驤莫可。」敦然之、即表拜侃爲使持節・寧遠將軍・南蠻校尉・荊州刺史、領西陽・江夏・武昌、鎮于沌口、又移入沔江。遣朱伺等討江夏賊、殺之。賊王沖自稱荊州刺史、據江陵。王貢還、至竟陵、矯侃命、以杜曾爲前鋒大督護、進軍斬沖、悉降其眾。侃召曾不到、貢又恐矯命獲罪、遂與曾舉兵反、擊侃督護鄭攀於沌陽、破之、又敗朱伺於沔口。侃欲退入溳中、部將張奕將貳於侃、詭說曰:「賊至而動、眾必不可。」侃惑之而不進。無何、賊至、果爲所敗。賊鉤侃所乘艦、侃窘急、走入小船。朱伺力戰、僅而獲免。張奕竟奔于賊。侃坐免官。王敦表以侃白衣領職。(陶侃傳)
ともあれ、逃亡した周顗に代わって、陶侃が荊州刺史と為り、沌陽での敗北後も「白衣領職」であるが、引き続き彼が事態に対処している。
なお、この時点と思われるが、王敦は「侃爲弢將杜曾所敗、敦以處分失所」を以て、自ら廣武將軍に貶降されるべきを請うが、琅邪王睿によって慰留されている。仮にここで王敦が廣武將軍と為った場合、趙誘の「加廣武將軍」がどうなるのか不明である。やはり、これ以前の時点での「加廣武將軍」には疑問があるとすべきだろう。
また、陶侃傳では引用部分に先立って、「帝使侃擊杜弢、令振威將軍周訪・廣武將軍趙誘受侃節度。侃令二將爲前鋒、兄子輿爲左甄、擊賊、破之。」と、振威將軍(周訪傳:振武將軍)周訪と廣武將軍趙誘が陶侃の節度下に入っている。
これは第一次征討時の筈だが、当時、龍驤將軍・武昌太守でしかない陶侃の節度下に周訪・趙誘が入るよりも、陶侃が使持節・寧遠將軍・南蠻校尉・荊州刺史と為った第二次征討時の方が相応しい。
更に言えば、名が見える陶侃の「兄子輿」(陶輿)はその傳(陶侃傳附)に「賊以桔橰打沒官軍船艦、軍中失色。輿率輕舸出其上流以擊之、所向輒克。」という逸話が見え、それは周訪傳の「弢作桔槔打官軍船艦、訪作長岐棖以距之、桔槔不得爲害。」と同一時の逸話と思われる。
これは建興三年(315)三月の「豫章內史周訪擊杜弘、走之、斬張彥於陳。」に当たる記事の前段として見え、第二次征討時と見るべきである。
『藝文類聚』(第七十一舟車部)・『太平御覧』(七百七十舟部三)に見える何法盛『晉中興書』には「建興九年冬、左將軍王敦、遣振威將軍周訪・廣武將軍趙誘、受陶侃節度、征蜀賊杜弢。大戰、蜀賊以桔槔打沒侃二十餘艘、人皆投水。」とある。
建興は五年までしかないので、この「九年」は「元年」の誤りと考えられ、建興元年(313)冬であれば、やはり、周訪・趙誘が陶侃の節度下に入ったのは、第二次征討中となる。
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