華軼征討
十年に亘り郷里に引き籠もっていた趙誘は、「左將軍王敦以爲參軍、加廣武將軍」と、左將軍王敦によって參軍とされ、廣武將軍を加えられる。王敦は從弟王導等と共に元帝(琅邪王睿)を翼戴し、俗に「王與馬、共天下。」とされる功績を挙げ、晉中興(東晉)に於いて最大の武功を挙げたとも言える人物である。趙誘は以後、基本的に王敦麾下の將として活動していく。
本傳に依れば、趙誘が參軍と為った時点で、王敦は左將軍であり、その時期について、王敦傳(卷九十八)には「其後徵拜尚書、不就。元帝召爲安東軍諮祭酒。會揚州刺史劉陶卒、帝復以敦爲揚州刺史、加廣武將軍。尋進左將軍・都督征討諸軍事・假節。」と、時期が明示されていない。
琅邪王睿が「安東」であったのは、永嘉元年(307)七月の「以平東將軍・琅邪王睿爲安東將軍・都督揚州江南諸軍事・假節、鎮建鄴。」から、同五年(311)五月の「安東將軍・琅邪王睿爲鎮東大將軍。」の間だが、王敦の軍諮祭酒、揚州刺史劉陶の死、そして、王敦が左將軍・都督征討諸軍事・假節に進められた時期、何れも不詳である。
但し、周玘傳(卷五十八周處傳附)に「初、吳興人錢璯……璯乃謀反。時王敦遷尚書、當應徵與璯倶西。璯陰欲殺敦、藉以舉事。敦聞之、奔告帝。」とあり、この錢璯の「反」は、永嘉四年(310)二月に「吳興人錢璯反、自稱平西將軍。」として見える。
從って、王敦が「尚書に徵拜」されたのは、それ以前であり、上記は永嘉四年二月以降、趙誘が左將軍參軍と為ったのも、当然、それ以降で、永康二年(301)からほぼ十年を経た時点となる。
王敦が趙誘を參軍とした理由も、これ以前に両者の接点を確認できず、不明である。ただ、王敦は永康二年に齊王冏等が反趙王倫に挙兵する中、叔父で兗州刺史の王彥に「起兵應諸王」、具体的には鄴の成都王穎に与力する事を勸め、戦後、「興義功臣」として開國公侯に封じられる功を挙げさせている。
王彥は当初、「懼倫兵強、不敢應命。」と、郗隆と同じく挙兵を躊躇っており、王敦の具体的な進言は不明だが、趙誘と同じような状況で、同様な進言を為している。両者の違いは、王敦と王彥とが近親なる故に、進言が受け容れられ易かった点にあるだろう。同種の進言を為したという事がどちらか、或いは相互の興味を引いたのかもしれない。
また、永嘉四年(310)十一月に「鎮東將軍周馥表迎大駕遷都壽陽、越使裴碩討馥、爲馥所敗、走保東城、請救于琅邪王睿。」と、都督揚州諸軍事として壽春(壽陽)に鎮していた周馥が壽春への遷都を建議し、それが当時の執政である東海王越の怒りを買い、討伐を受けている。
当初、その討伐に当たった裴碩が周馥に敗れ、琅邪王睿に救援を請うた事で、翌永嘉五年(311)正月に「安東將軍・琅邪王睿使將軍甘卓攻鎮東將軍周馥于壽春、馥眾潰。」と、周馥は壽春を逐われている。ここで琅邪王睿が周馥征討に乗り出したのは、東海王越との関係を重視した事もあるであろうが、「揚州江南」のみならず、揚州全円を掌握する意図があったと思われる。
それは兎も角、壽春は趙誘の郷里である淮南郡の治所であり、郷里に直接係わる事変が、「杜門不出」を止める切っ掛けだったのではないか。或いは、征討の中での趙誘の行動が、王敦の目に留まったとも考えられる。
以降、趙誘は參軍・廣武將軍として、都督征討諸軍事と為った王敦に随って、征討に從事する事になる。なお、廣武將軍は四品、「參軍」は晉官品に見えないが、魏官品では「諸軍諸大將軍正行參軍 諸持節督正行參軍 二品將軍正行參軍」が第七品、「四平四安長史司馬三品四品將軍正行參軍」が第八品である。宋官品でも「諸府參軍戎蠻府長史・司馬」が第七品であるので、晉でも同様と思われる。
そして、左將軍は第三品であるので、左將軍參軍は八品となるが、王敦は假節だが都督であるので、「諸持節督正行參軍」で七品かもしれない。
州主簿として、六品又は七品であったと思われる趙誘が七品或いは八品の參軍と為るのは妥当であろうが、四品の廣武將軍はやや高いかに思われる。直前には王敦が揚州刺史にして、廣武將軍を加えられており、それと同格の軍号というのはやや疑問が残る。後のものが竄入しているのかもしれない。
さて、趙誘が從事した征討は先ず、「與甘卓・周訪共討華軼、破之。」とある。この征討は王敦傳にも「尋與甘卓等討江州刺史華軼、斬之。」とあり、江州に於けるものである。
この時、討たれた華軼は振威將軍・江州刺史として、琅邪王睿が拠る揚州(建業)の上流に当る江州を治め、「在州甚有威惠、州之豪士接以友道、得江表之歡心、流亡之士赴之如歸。」であったが、琅邪王の節度を受けることを拒んだ為に、討たれる事になる。
華軼が琅邪王睿の節度を頑なに拒んだ理由は明らかでないが、琅邪王の教命を承けるよう勸める「郡縣」の諌めに対し、「吾欲見詔書耳」と、詔に由らない故としている。
原理に拘り、応変の才を欠いたのか、琅邪王睿に何らかの不信があったのか、不明である。琅邪王が華軼を討ったのは、上流であり、要衝の荊州とを結ぶ位置に在る江州の統制を重んじた故であろう。
なお、江州は元康元年(291)に揚州の豫章・鄱陽・廬陵・臨川・南康・建安・晉安、荊州の武昌・桂陽・安成の十郡を以て置かれた州である。概ね揚州の西南部、荊州の東部に当り、江水の南であるが、永興元年(304)に江北の廬江郡尋陽及び対岸の武昌郡柴桑を以て尋陽郡とし、江州に屬せしめているので、一部だが江北も含んでおり、その地点(湓口)では江水の往来を扼す事が出来る。
華軼征討の時期について、元帝紀や華軼傳からは不詳だが、華軼傳に「洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝爲盟主。」とあり、これは永嘉五年(311)六月の「劉曜・王彌入京師。」及び同月の「荀藩移檄州鎮、以琅邪王爲盟主。」の事であるから、同月以降である。『資治通鑑』(以下『通鑑』)では同月条に置くが、情報の伝達などを考えれば、実際はいま少し後、同年末頃と思われる。
趙誘と共に華軼征討に從事したのは元帥たる王敦以外に甘卓・周訪とあり、華軼傳には「遣左將軍王敦都督甘卓・周訪・宋典・趙誘等討之。」とある。この中で、宋典は嘗て琅邪王睿の「從者」であり、琅邪王が鄴から領國へ逃げ戻ろうとした際に、機転によって關を通過するのを得さしめた事、先述した錢璯の反乱に都尉として從軍した事以外の事績は不明である。甘卓・周訪については、それぞれ、卷七十、卷五十八に傳がある。
甘卓は吳將甘寧の曾孫で、本来は巴郡臨江の人であるが、その傳には「丹楊人」とある。甘寧の子孫として、丹楊郡(建業周辺)に居住していたのだろう。「八王の乱」の中、東海王越の參軍から、離狐令に補任されるが、「天下大亂」を見て「東歸」している。
その後、一時的に揚州に乱を為した陳敏に協力するが、後に周玘・顧榮等と共にこれを討っている。そして、琅邪王睿の下で、前鋒都督・揚威將軍・歷陽內史と為り、壽春の周馥を討ち、引き続き華軼の討伐に起用されている。
歷陽郡は永興元年(304)に淮南郡の南部、建業の対岸に当たる烏江・歷陽の二縣を以て置かれた郡である。揚威將軍は晉官品に見えないが、類似の「建威・振威・奮威・廣威・建武・振武・揚武・廣武」將軍が四品であるから同様であろう。
そして、「郡國太守・相・內史」は五品であり、趙誘より明らかに格上の人物である。彼も東晉初の有力な將領として、後に王敦に対抗し得る人物と目されるが、趙誘・趙胤との係わりはやや薄い。
周訪は本来は汝南安城の人で、同族には吳平定後に都督揚州諸軍事・安東將軍と為った周浚や、その子で東晉初に盛名を得た周顗、年頭に甘卓等に討たれた鎮東將軍周馥などがいる。ただ、彼の家系は漢末に江南に遷り、父祖は吳に仕えている。吳平定後は、廬江の尋陽に住まい、「周窮振乏、家無餘財」であり、華譚傳(卷五十二)では「寒族」とされている。
廬江郡は淮南の南、尋陽はその南西端で、西に旧荊州の武昌、南に江水を渡れば、豫章・鄱陽郡という土地である。本来は揚州と荊州の接点に当たるが、上で述べた通り、永興元年に尋陽郡として江州に屬している。
周訪は、やはり吳平定後に、対岸の鄱陽から尋陽に移り住んだ陶侃と親交を結び、互いの子女(周訪女・陶侃子瞻)を娶わせている。孝廉に挙げられるも官に就かずにいたが、鎮東將軍琅邪王睿の參軍事、次いで揚烈將軍として、兵一千二百を領して、故郷の尋陽鄂陵に屯している。鄂陵の位置について若干疑問があるが、言わば江州への最前線に駐屯していた周訪が華軼征討に起用されたのは当然と言えるだろう。
揚烈將軍も晉官品に見えないが、刺史に加えられている例があるので、揚威將軍などと同じく四品であろう。參軍(事)としても、鎮東將軍參軍であるから第七品であり、こちらも趙誘より格上と見られる。
年齢的にも、若干の問題はあるが、その傳に太興三年(320)に「時年六十一」で卒したとあるので、吳の永安三年(260)生まれで、この年には五十二と、趙誘より年長と見られる。
周訪と陶侃は、殊に周訪がこの後、趙誘・趙胤と係わる事が多く、折々に触れる事になる。
以上の様に、王敦は当然として、甘卓・周訪共に趙誘より格上の將であり、華軼傳の記述順からすれば、宋典も同様と思われ、趙誘は征討軍の末將であったのだろう。
華軼征討の詳細については華軼傳・周訪傳に詳しいが、基本的に主力となったのは周訪であり、王敦は統轄したのみで、その麾下である趙誘に活躍の機会は無かったと思われる。
軼遣別駕陳雄屯彭澤以距敦、自爲舟軍以爲外援。武昌太守馮逸次于湓口、訪擊逸、破之。前江州刺史衛展不爲軼所禮、心常怏怏。至是、與豫章太守周廣爲內應、潛軍襲軼、軼眾潰、奔于安城、追斬之、及其五子、傳首建鄴。(華軼傳)
所統厲武將軍丁乾與軼所統武昌太守馮逸交通、訪收斬之。逸來攻訪、訪率眾擊破之。逸遁保柴桑、訪乘勝進討。軼遣其黨王約・傅札等萬餘人助逸、大戰於湓口、約等又敗。訪與甘卓等會於彭澤、與軼水軍將朱矩等戰、又敗之。軼將周廣燒城以應訪、軼眾潰、訪執軼、斬之、遂平江州。(周訪傳)
戦後、周訪は「振武將軍・尋陽太守、加鼓吹・曲蓋」とされているが、王敦・甘卓への賞賜は見えない。華軼方の武昌太守馮逸・「水軍將朱矩等」を破ったのも、華軼を執らえたのも周訪であり、王敦は都督するのみ、甘卓は彭澤で會しただけであるので、周訪の勲功とされたのだろう。当然ながら、趙誘への賞賜も見られない。
そして、周訪も含めて、諸軍は更なる征討へと向かう事になる。
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