「八王の乱」に於ける趙誘
趙誘が州主簿として、史乗に見えるのは、所謂「八王の乱」の最中、王の争覇という意味で、その本格的な始まりの年とも言える、惠帝の永康二年(301)の事である。
この年の正月、宗室(惠帝從祖)の趙王倫が惠帝を退位させ、自ら帝位に即く。「趙王倫篡位」とされる事件であるが、これに対して、同年三月、平東將軍齊王冏(惠帝從弟)が兵を挙げ、州郡に檄を飛ばして反趙王の起兵を求め、征北大將軍成都王穎を始め、冀州刺史李毅・兗州刺史王彥等が呼応している。
趙誘が主簿たる揚州にも齊王冏の檄は届いたが、刺史郗隆はその対応に苦慮している。と言うのも、彼自身の意思はともあれ、その「諸子姪」が洛陽に在り、挙兵すれば、その身に害が及ぶ可能性がある。為に郗隆は「坐して成敗を觀」る、中立を望むが、檄に応じなければ、齊王冏等から敵と見做される可能性もある。
ところで、郗隆は高平金鄉の人で、「兄子」たる郗鑒傳(卷六十七)に附傳が有るが、そこでは、その郗鑒が「趙王掾」であったと云う。当に趙王倫の身近に
ただ、郗鑒は「知倫有不臣之跡、稱疾去職。」とあり、趙王倫が帝位に登った後も、「鑒閉門自守、不染逆節。」と距離を置いている。とは言え、郗鑒が洛陽に在ったのは間違いなく、郗隆が親族に対して、殊更薄情でない限り、無視はできないであろう。なお、この郗鑒についても、おいおい述べる事になる。
対応を決しかねた郗隆は群吏に諮り、その中で趙誘は「趙王篡逆、海內所病。今義兵飆起、其敗必矣。今爲明使君計、莫若自將精兵、徑赴許昌、上策也。不然、且可留後、遣猛將將兵會盟、亦中策也。若遣小軍隨形助勝、下策耳」と説いている。
郗隆自ら精兵を率いて許昌に赴くのが上策、「猛將」を派遣して齊王冏等の軍に参陣させるのが中策、「小軍」を派遣して形だけ随うのが下策である。齊王冏の檄に応じる事を前提としているが、その上で、積極的であるべきとしている。
なお、この進言は郗隆傳では「當今上計、明使君自將精兵徑赴齊王。中計、明使君可留督攝、速遣猛將率精兵疾赴。下計、示遣兵將助、而稱背倫」とされており、それを説いた者として、趙誘と共に「前秀才虞潭」の名が挙げられている。
この虞潭は會稽餘姚の人で吳に仕えた虞翻の孫である。會稽虞氏は會稽の大族であり、『世說新語』(賞譽第八)には「會稽孔沈・魏顗・虞球・虞存・謝奉、並是四族之俊、于時之桀。」、會稽の「四族」とされている。
虞潭は卷七十六に傳が有り、そこでは「州辟從事・主簿、舉秀才。」とある。從事を経ているので、先には挙げなかったが、趙誘と同様に主簿に辟されている。後に東晉に仕え、衛將軍まで至っており、間接的ながら、趙胤にも係わってくる事になる。
さて、趙誘等の進言に対して、郗隆は「我受二帝恩、無所偏助、正欲保州而已」と、「偏助」する事無く「州を保」つ、つまり、中立を選び、事態を観望せんとしている。趙誘や治中留寶・主簿張褒等は「若無所助、變難將生、州亦不可保也」と、「變」事が起こる事を危惧するが、受け入れられていない。
郗隆傳では「我俱受二帝恩、無所偏助、惟欲守州而已」とほぼ同様の言葉が見えるが、それに先立って、彼が別駕顧彥に諮り、「趙誘下計、乃上策也」と、「下計」、つまり「示遣兵將助、而稱背倫(遣小軍隨形助勝)」を採るべきを勸められている。そして、西曹留承に改めてその方針を問われ、応えたのが、上記の言である。
対して、留承は「天下者、世祖皇帝之天下也。太上承代已積十年、今上取四海不平、齊王應天順時、成敗之事可見。使君若顧二帝、自可不行、宜急下檄文、速遣精兵猛將。若其疑惑、此州豈可得保也」と、趙誘で言えば中策(中計)を採るよう勸めるが、郗隆はそれも容れず、檄を停める事六日に及ぶ。
因みに、趙誘と同じく、齊王冏への同心を勸めた治中留寶・西曹留承は、或いは、同族で、吳の末期に「名將」とされた留平やその父留贊の一族とも思われる。留贊は會稽長山の人、「黄巾の乱」以来、戦陣に身を置き、子で留平の兄である留略共々、壽春方面で魏と戦っている。
その家系が如何なるものであったかは不明だが、趙誘と同様、「世將を以て顯」れたと言える。或いは、趙誘の父祖は戦陣で留氏と見えているかもしれない。
留寶・留承が會稽留氏であれば、同郡虞氏の虞潭、そして、吳の丞相顧雍の孫で、吳の「三俊」・「江南望士」とされる顧榮の一族である顧彥(吳郡吳人)など、郗隆の周囲、揚州の府には旧吳の人士が多かったと思われる。
或いは、主簿の張褒も顧氏と共に吳郡の四姓とされる張氏であるかもしれない。これ等の人物は顧彥を除き、反趙王に起つべきとの立場であり、当時の揚州における人心の歸趨が窺われる。
顧彥のみ対応が異なるのは、族兄弟で洛陽に在る顧榮や、兄弟である顧謙・顧祕、顧謙の妻の弟である陸機・陸雲兄弟の動向が関係しているとも思われる。特に、陸機は趙王への「九錫文及禪詔」が彼の手になるとされ、趙王倫に近しい立場にある。
ともあれ、この揚州人士の間では反趙王が主流であり、その流れに抗した郗隆への不満は募り、趙誘等が危惧した変事によって彼の命は奪われる事になる。
当時、揚州の治所である建業の西、石頭城に鎮していた寧遠將軍・領東海都尉の王邃の下に赴かんとする將士が甚だ多く、これを郗隆が禁じた為、遂に憤激した將士は郗隆父子を攻め殺し、顧彥も害されている。
この後、趙誘は「還家、杜門不出。」とある。家に還り、門を閉ざして外出せず、一種の蟄居である。齊王冏等の反趙王の起兵は成功しており、趙誘の識見は確かであったと言える。彼と共に積極的に齊王に参じるべきを説いた虞潭は大司馬となった齊王冏の祭酒と為り、沶鄉令・醴陵令に転じている。
從って、本来であれば、趙誘も同様に任用されてもおかしくはなく、彼が逼塞する理由はない。郗隆を匡し、救い得なかった事を悔いたという事であろうか。他に原因、例えば、両親の死が続いたなどの可能性もあるが、不明である。
ともあれ、ここで一度、趙誘の官歴は途絶える事になる。そして、「門を杜じて出でず」は十年の長きに亘り、彼の名が再び見えるのは、所謂「永嘉の乱」の最中となる。
この間、洛陽を中心とした「八王の乱」、益州の李特、荊州の張昌などの乱によって、晉の統治は崩壊しつつある。張昌の別帥石冰による侵攻や、それを平定した陳敏の反など、揚州も動乱の中に在るが、趙誘が関与した形跡は無い。恰も、「八王の乱」に係わる事を拒絶したかにも見えるが、その理由は不明である。
ところで、永康二年(301)に州主簿であった趙誘は最低でも弱冠(二十)であったと思われ、太康三年(282)以前、実際はいま少し年長で、同元年(280)の「平吳」以前の生まれであろう。
一方、「家世有部曲」とされる張光は「以牙門將伐吳有功」と、咸寧六年(太康元年)の「伐吳」に從軍しているが、趙誘にはそれが無い。つまり、当時は從軍に相応な年齢ではなく、十代以下、泰始年間(265~274)以降の生まれと思われる。從って、永康二年(301)に、趙誘は二十代から三十代半ばと推定される。
張光は後に見るが、卷末の論贊で趙誘と併記されており、同種の功績を挙げたと言える。彼は『華陽國志』に依れば建興元年(313)に卒し、「時年五十五」と云うので、魏の甘露四年(259)生まれ、太康元年には二十二であり、從軍可能な年齢である。それより年少であれば、上記の推定と矛盾しない。
また、張光は太康元年当時、牙門將、第五品である。そして、「伐吳」の功により、江夏西部都尉、北地都尉と転じており、「州郡國都尉」も第五品である。六品或いは七品の趙誘より、やや格上に見えるが、張光が軍功を以てしている事を鑑みれば、二十代で七品は兎も角、六品は相応と言えるのではないか。なお、張光は元康六年(296)まで北地都尉の地位にあり、同年には三十八である。
また、趙誘と共に郗隆に策を献じ、州主簿から秀才に挙げられていた虞潭はその傳に「咸康中、進衛將軍。……以母憂去職。服闋、以侍中・衛將軍徵。既至、更拜右光祿大夫・開府儀同三司、給親兵三百人、侍中如故。年七十九、卒於位。」とある。
彼の生存が確認できるのは、武悼楊皇后傳に見える「至成帝咸康七年、下詔使內外詳議。衛將軍虞潭議曰……」という記事で、翌咸康八年(342)八月には「以江州刺史王允之爲衛將軍。」(同年十月卒)、翌々年建元元年(343)十月には「褚裒爲衛將軍・領中書令。」とある。
從って、「以侍中・衛將軍徵」時である可能性もあるが、「母憂去職」が咸康七年(341)或いは八年であり、虞潭が卒したのはそれ以降と推定される。であれば、その生年は魏の咸熙元年(264)以降となる。経歴から見て、虞潭は趙誘と同年輩或いは年長と推定され、これも、上記と矛盾しない。
以上の推定が正しければ、趙誘は壮年の十年間を出仕せずに過ごした事になる。一方で、この年齢は子を生すには相応の年齢と言え、趙胤及びその兄である趙龔はこの間、早くとも永康二年から然程遡らない時期に生まれた可能性が高い。これは以降の趙胤の経歴を見ていく際に関連してくる。
なお、趙誘は建武元年(317)に戦死するので、享年は太康元年(280)生まれとして三十八、泰始元年(265)生まれとして五十三であり、概ね四十代前後となる。現役の將であり、天壽でない事を考えれば妥当と思われる。
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