1章 達成度考査 編 13

 まさか、思わぬところで予想外の情報を得るとは。


 母親へ電話を掛けたのは、明確に分岐点になっている。

 1度目も2度目も、この情報は完全に見逃されていた。通り魔と聞いた時には気分が暗くなったが、そういう意味では僥倖と言えるだろう。

 聞き間違いでなければ、倉本の父親が勤める会社が明星バイオ製薬だったはずだ。これは1度目の点検会において、倉本ひかり自身がそう言っていた。それと今ちょうど起こっている通り魔事件の被害者が明星バイオ製薬の社員であることは、単なる偶然とは思えなかった。

 そういえば2度目の時、試験当日に倉本がいやに不安そうな顔つきをしていたことを思い出した。何度か勉強会をやっていて分かったのだが、倉本の実力は相当なもので、正直なところ、今から何もしなくても達成度考査は受かるレベルだ。

 あれは試験の出来を案じていたのではなく、父親の身に何か起こっていたのではないだろうか?そしてさらに決定的な出来事が起こる瞬間が、試験日の20:25なのではないだろうか。


 ようやく点と点が繋がって線になってきたような感覚を受ける。トリガーが「俺の手の届く範囲にある」という、藁にもすがりつくような無根拠で心許ない仮説が、幸運にも裏付けられつつある。

 次に考えなければならないこととしては、試験当日の20:25に倉本の父親に降り掛かる「何か」をどうにかして阻止することだろう。逆に言うと、試験日までは特に何もすることがないということだ。

 しかし、本当にそうか?

 この考えは発想がかなり飛躍している。特に、試験当日の倉本の不安顔の原因を、父親の災難だと決めつけるのは尚早かもしれない。ストーリーとしては何となく成立するが、それはあくまでストーリーである。事実とは関係がない可能性も十分にある。



 俺はインスタントコーヒーの粉をコップにどっさり(大さじ3杯程度)入れて、沸かしたての湯を少量入れた。

 一般的に毒々しいという表現は、異様な紫色であったり、蛍光的な黄緑色に対して用いられるが、色合いこそ異なるものの、湯の量に対して適正量を大幅に超えるコーヒー粉を入れたインスタントコーヒーも、十分毒々しいという表現に値する。

 毒々しいというより、毒々だ。

 口に含んだ瞬間は酸っぱく、コーヒーが酸性の飲料であることを否応なく実感させられる。だがそれがまた至高なのだ。酸味と苦味が喉を刺激し、そのまま強制的に脳を覚醒させる。このまずさが癖になる。

 もしかしたら自傷行為の一種なのかもしれないが、俺の脳をアイドリング状態で且つ落ち着かせるには最も効果的なのだ。


 俺はふーっと深い息を吐いた。


 とりあえずは、油断せずに静観しようと思うが、ここまで来たからには、倉本の不安発生の件の一点張りで今回は手打ちにして、その原因を見極めたい。

 最悪の場合、甘んじてもう一度戻されよう。ちゃんと戻されるかどうかの保証はないが。



 GW明けから、俺は勉強会以外の日は倉本の一挙手一投足の観察を行なった。もちろん、じろじろ見ると何か言われそうなので、ふとしたタイミングで気づかれないよう顔色を伺ったりする。

 倉本は試験に向けて気持ちを高めて来ているようで、真剣さを増してきているが、特に際立って動揺している様子はない。

 勉強会の日は、多少なりとも会話ができるので、より彩度のある情報を得ることができる。

 しかし、なかなか倉本ひかりの様子に変化は訪れなかった。


 5/24、試験前最後の金曜日が訪れた。例によって、俺たちは倉本家に集まっていた。


「この勉強会もさ、今日で終わりだね〜。我ながらよく続いたと思うよ」


「そうだな。途中神楽と倉本が怪しい冷戦みたいな雰囲気で面白かったのに、最後の方は普通だったよな」


 瀬川、気づいていたのかよ。気づいて素知らぬ顔をしていたのなら良い性格してやがる。


「だから言っただろう、何もないって。俺は結構気分屋なんだよ」


「わたしとしてはちょっとばかり期待してたんだけどなあ〜。残念」


「期待って、お前神楽と付き合いたいとか、そういうつもりだったのか?」


 直球ど真ん中だ。実に清々しい。


「や、付き合うとか付き合わないとか、そのあたりわたしまだよく分かんないんだけど、何だろうな……言葉にしづらいけど、神楽くんが何か面白い物語を提示してくれそうに感じたんだよね〜。突拍子もないけど、ギリギリ信じても良いようなさ」


 その推測は図らずも当たっている。


「もしかしてこのふわっとした期待感が恋ってやつなのかな??」


 またしてもノーモーションの踏み込みだ。

 倉本は俺をぐいっと覗き込んだ。髪の毛からほんわりとしたいい匂いがする。どれくらいの加速度で上半身を止めたら、このいい匂いが俺に効率的に降り掛かるかまで感覚的に計算してそうだ。こいつの言っていることはどこまでが本当、本気なのか判断しかねる。恋愛が分からないと嘯いているわりには、ムーブがあざと過ぎる。

 分からなくても出来てしまう、これがいわゆる天才なのだろうか。


「はいそこまで!俺を除け者にすんなよな?」


 瀬川が割って入る。


「瀬川くんてさあ、実は神楽くんのこと大好きだよね〜」


「は?馬鹿なこと言うな。第一、俺と神楽はまだ公式な友達ですらないんだ」


「そうだった、そうだった」


公式な友達って何だよ。



 そろそろ勉強会はお開きになろうとしている。ついに倉本が不安定になる要因を掴むことはできなかった。これに関しては、まだ倉本に変化が訪れていないのだから、どうしようもない。

 しかし、この場で俺がアレンジすべきものがもう一つある。試験当日夜の倉本父の挙動の把握だ。

 試験当日の20:25に倉本父に災難が降りかかるという線はまだ有力なままだ。この件について、倉本に何かしらの取っ掛かりを作っておく必要がある。また変に怪しまれるかもしれないが、こればかりは仕方がない。

 俺が口を開こうとしたそのとき、


「ねえ、もし良かったらさ、試験前日にもうー度集まって最後の点検会をやらない?」


 倉本はおずおずと俺と瀬川を見る。許可を求めるような目つきだ。


 これは予想外の展開だった。

 試験前日において勉強会を実施すると、1度目のように不慮の事故に巻き込まれる危険性は否めない。時間をずらせば回避可能なのかもしれないが、これは「死に戻り」では無さそうなのだから、万が一再度事故に遭って、今度こそ打ちどころが悪く死んでしまったら、どうなってしまうのかは分からない。そんなリスクは冒すべきでない。

 悪いが理由をつけて拒否させてもらおう。


「いや、倉本その日は……」


 そう言いかけてぴたりとフリーズした。これ以上言ってはだめだ。

 このタイミングでこの提案、まさか、まさかそういうことなのか……。


 倉本ひかりが試験当日に不安がっている原因について、思考が不足している点があることに気づいた。

 俺は薄い線を必死に手繰り寄せて、その原因が父親に関する「何か」だと仮定しているが、今までその内容についてばかり考えてきていた。しかし実は重要なのは、内容ではなく、いつ不安が発生したかだ。

 2度目の試験当日において、倉本の不安そうな顔を見た時、咄嗟に俺はその原因を試験に帰着させた。母親から通り魔の情報を得た今、俺はその原因を倉本父に帰着させている。そうなると話はまったく変わってくる。

 1度目のとき、勉強会を終えて別れる時には、倉本ひかりに全く不安な素振りはなかった。そのあと、俺がシャーペンを忘れたという連絡があったときにも、声色に違いはなかった。俺は1度目の試験を受けていないので、当日朝の様子は分からないが、ここで重要なのは、倉本ひかり自身の状況が基本的にループ間で不変であることだ。これは非常に強い要請だ。これを考慮すると、2度目においても、倉本は試験前日の夜20時においてまだ普通の状態だったと推測できる。にもかかわらず、その翌朝、倉本は1科目めの数学の試験問題を配る際、すでに不安そうな顔つきだった。

 これらを併せて考えると、試験前日の20時から、翌日の朝までのごく短い時間に「何か」が発生し、倉本の不安を呼び起こしたことになる。

 そして、その短い時間に発生した特異な事象を俺は知っている。


事故だ。


 俺の中で、立ち込めていた暗雲の正体を掴んだ気がした。

 全て憶測に過ぎないにせよ、まるで数学の難問において問題作成者の意図に乗り、長い計算を経て答えらしい解を導き出したような感覚に打たれた。

 検証の価値は十分すぎるほどにある。

 また、それと同時に、俺は倉本ひかりの行動に対して畏怖に似た念を抱いてしまった。当然だが、倉本ひかりは俺を取り巻くこのような不条理を知る由もない。俺との会話の波長が少しずれる、ごく普通の金持ちのお嬢様だ。しかし、彼女は1度目のループから既に、試験前日ピンポイントの時間に勉強会を催すという、神の一手のような提案を俺に示していた。このまま進むと生じるかもしれない彼女の最悪な結末と、俺の袋小路を予期しているかのように、彼女も俺も、どちらも救うことができる策を打っていたのだ。

 1度目のとき、俺はみすみすそれを活かすことが出来なかった。

 2度目のとき俺は引きこもり、策を打てる状況すら、彼女に与えなかった。

 3度目の今回、彼女は健気にも再び、俺に正しい結末を選択するチャンスを与えてくれている。

 今度こそ、俺は彼女から垂らされた蜘蛛の糸を、しっかりと掴んで登り切らなければならない。


そう決意した。



「やっぱり、前日は嫌かな?そうだよね……」


「いや、やろう。全力を尽くして乗り切ろう。それで俺たち全員で次のステージに進もう」


「何だ?断りかけたかと思ったのに、突然前向きだな。俺が言うのもアレだが、神楽ってよく分からないキャラだよな。いいぜ。最初に言っただろう、俺はとことんやると」


「やったあ!わたし、何となーくなんだけど、やった方がいい気がしてたんだよね。多分、最初に神楽くんが勉強会の提案してくれてなくても、前日の点検会だけはやりたいって言ったと思う〜」


 この発言を聞いて確信した。やはり倉本ひかりは正真正銘の本物だ。

 それは勉強が出来るとか、論理的思考力があるとか、そういった人の手によって磨くことの出来る表面上の能力ではなく、連続的な思考では知り得ない、理解し得ないものにアクセスする能力があるという点で天才だ。

 人はそれを神性と言うのかもしれない。

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