1章 達成度考査 編 08

 直前の銀髪ピアス女子効果で、俺はすべての試験を落ち着いて解き終えることができた。

 内容は基礎問題がほとんどだったが、問題数はどの教科も多かった。この点は過去問と傾向は同じだった。思考力よりも基礎の運用能力を測る試験と言える。入学直後に実施される試験としては、適切と言えるだろう。


 ホームルーム終了後、倉本は泣きそうな顔をして、誰にも声をかけることなく教室を飛び出していった。

 他にも暗い顔をして意気消沈したまま教室を出るやつが何人かいた。俺の肌勘では、半分強くらいが突破確実、倉本ひかりを含め、1/5がグレーで合否ライン上というところだろうか。


 例の銀髪ピアス女子がすたすたと黒板の前を横切っていこうとした。その瞬間、彼女のカバンについていた水色のペンギンのようなマスコットキャラクターの人形がぽとりと床に落ちた。


「おい、落ちたぞ」


 俺は人形を拾って差し出そうとした。すると、人形の両足の裏に薄い文字で、あさか ゆいの、と書いてあるのが目に入った。小さい頃から持っている人形なのか。


「ありがとう」


「あさかっていうのか。朝の霞みか?」


「そう」


 銀髪ピアス女子こと朝霞ゆいのは、無愛想にそう答えるとそのまま去っていこうとした。

 俺はそのとき、自分でもよく理由は分からないが、反射的に朝霞の制服の腕を掴んでいた。空調のせいか、4月の気温にしては、かなり冷たいように感じる。朝霞は振り向きジト目でこちらを見たが、驚いている様子はなかった。

 つくづく肝が据わっているように思う。


 何か言わなければならないと思い、頭を働かせた。


「ゆいのってどんな字なんだ?」


朝霞は、黒板に「結衣乃」と書いた。


「そうか、よろしく」


 朝霞結衣乃は俺の挨拶を意に介さず、そのまま踵を返して歩き去った。

 俺は自分でも、自らの今の行動に合理的な理由をつけることが出来なかった。試験後ハイだろうか。

 しかし、何となく、本当に何となくだが、これから彼女に関わる機会が多くなるのではないかということを直観した。

 それがどのような形なのかは分からないけれども。



 帰り道は行きほど用心して歩くことはなかった。

 もちろん、事故に遭うことは避けるべきことだし、事故は命の保証をしないのだから、理屈としては帰り道も行きと同様の注意をして然るべきだが、とりあえず俺は紆余曲折あった試験という重荷をおろすことが出来たので安堵していた。

 心が一挙に鎖から解き放たれたような感じだ。


 こうやって弛緩した心持ちで周りを見ると、世界はシステムに満ちており、互いに連関しながら上手く駆動していることに感動する。

 引越しの荷下ろしをしているトラック、コンビニの前に溜まって談笑する中学生、すれ違う疲れた顔をしたサラリーマンやOL、これらは皆、俺とは関係のないところで別個のシステムを構成し、くるくると回っている。そして、必要なタイミングで干渉しあう。

 実家ではちょうど夕飯の準備をしている頃だろう。中学生3年生となった妹は、今このときも塾のテストの結果に一喜一憂しているかもしれない。

 それでいい。俺だけが世界から特別視されて、独立した不条理な世界に押し込まれなければならない理由なんて何もない。俺はそんな偏りのない世界においてのしあがり、より上層のシステムの一部を構成したいだけだ。より優秀な歯車になりたいだけだ。



 俺は自宅の近くのスーパーに寄ってから帰宅した。

 食材を自分の目で見て選んで購入するのは久しぶりだった。結果発表の20時までまだ2時間ほどあるので、手の込んだ料理を作って時間を潰そうと考えている。何品か作るのもいいだろう。余ったら冷凍しておけばいい。

 俺は肉じゃがと親子丼と豚肉の生姜焼きを一気に作ることにした。これで主要な3種の肉を網羅的に摂取できる。

 勉強以外の行為に集中するのは、非常に新鮮味があった。脳の使っていなかった部分に血流が流れ込み活性化するようなじんわりとした感触がある。

 様々な料理のにおいも、嗅覚から俺の脳をくすぐる。自分が上手く脳を使うことのできている、心地よい瞬間だった。良質な負荷トルクの下、俺はくるくるひらひらと作業に没頭する。


 食事は予定以上に豪華に出来たため、何なら誰かを呼びたいくらいだったが、あいにく今俺は倉本も瀬川も連絡先を知らない。今日食べる分だけ取り、残りは冷蔵庫と冷凍庫に入れておいた。

 19:30なのでそろそろ結果発表だ。少しそわそわしてくる。今頃あいつらもPCの前で結果発表を待ち侘びていることだろう。


 食事を終え、俺は結果発表後にすぐに熱い湯に入浴出来るように、風呂にお湯を溜め始めた。

 合格発表をネット経由で見るのは、何度経験しても落ち着かない。マウスをクリックすれば表示されるだけなのだが、その行為一つに大きな断絶がある気がする。静かな部屋の中、PCの画面にだけ空間の歪みが生じているような感覚がするのだ。



 20時の5分前となった。

 俺は、高校の在校者専用ページにアクセスした。お知らせの欄に試験結果のPDFファイルがアップロードされるはずだが、当然まだ掲載されていない。

 ページは全学年共通のものと、学年別に管理されているものがあるのだが、一年生のページはコンテンツが何もない。入学おめでとうの文字も無い。真っ新だ。まだ学校生活は始まっていないのだということを知らしめるかのような仕様だ。

 結果が掲載されるまで、しばらくPCの前でスタンバイする。意識的に頭を空にし、何も考えないようにする。

 残り30秒を切ったあたりで、繰り返し更新ボタンを押す作業に入った。初めは何の変化もなかったが、20時を過ぎた頃に、お知らせの欄に「新一年生達成度考査結果(全クラス)」のページが現れた。

 俺は間髪入れずにクリックしたが、この瞬間に同じことをやっているやつが120人くらいいるため、アクセス集中により何度か弾かれた。頭の片隅で、クラス別に掲載すれば良いのにと思ったが、今はそんなことは関係ない。

 6回目のアクセス試行でようやくPDFファイルを開くことが出来た。


 白いバックグラウンドに、クラスごとの合格者の名前一覧が掲載されている。

 1-Aのリストのトップに、まず自動的に朝霞結衣乃という文字が目に入った。彼女は絶対に受かるやつ特有のオーラを出していたから、当然だろう。逆に名前がなかったら拍子抜けするところだった。

 俺は自分の名前を探す……。目線を下に動かして、ア行が終わりカ行に入る。

 か、か、海瀬亨、神楽啓介。あった。

 合格していた……。


俺は心底ほっとし、足の力が抜けてしばらくしゃがみ込んだ。


 このページのこの一行に辿り着くまで、長い旅路だった。途中不可解な事象にも巻き込まれたが、もうそれは良い。結果オーライだ。


 意外にも、リストの俺の下にある名前は、倉本ひかりだった。

 あれだけ取り乱していたにもかかわらず、きっちり合格してくるところがある意味憎らしい。切り替えが上手いのか、精神状態が悪くても合格できるほどの実力なのか。しかしその場合、試験に対してそこまで取り乱す必要がないようにも思う。

 サ行を見ると、瀬川も無事合格していた。これで明日からも、俺の席の近くは元のメンツのままということだ。

 クラスメートの名前と顔が一致していない(そもそも顔をまともに見ていないやつもいる)ため、名前を書かれても誰が落ちて誰が合格したのか分からないが、全体の人数を数えると27人だったため、3人落ちている計算になる。

 こうやって少しずつ削ぎ落とされていった結果、最終的な人数が10人になってしまった学年があると思うと末恐ろしい。



 俺は静かに喜びを噛み締めながら、いそいそと服を脱ぎ、熱々の風呂の湯に飛び込んだ。

 湯気で風呂場全体が白く塗り潰されている。一寸先は白の状態だ。今日はもう、熱い風呂で疲れを癒し、早めに寝てしまおう。そして明日から心機一転し、仕切り直しだ。

 部活動については、結局何部にするかはまだ決めていないが、気になっているオーケストラも含めてゆっくり検討して決めればいいだろう。俺のような初心者を引っ掛けられている点で、入学式の荘厳な演奏は良い宣伝になっているなと感じる。


 肩まで湯に浸かり、俺は目を閉じた。入学してからこれまでのことを順に想起した。

 1度目は友人こそ出来たが、不慮の事故に遭い、受験の機会をそもそも喪失した。そして不可解にも入学式当日に戻された。実際、この謎が解ける日はくるのだろうか……。

 2度目は完全にクラスメートとの関わりを断ち切り、代わりに合格をもぎとった。

 2ヶ月間で固まったクラス内のグループもあるようだったが、俺と同じようにあまり来なかったやつもいるはずだ。今後はそういうやつらと絡んで、切磋琢磨すれば良い。

 この学校は容赦なく人が減っていくシステムなので、最初に作るグループは絶対のものではない。節目節目ごとにメンバーの欠如という外乱が加えられるからだ。もちろん、その程度は学年全体の出来不出来によって決まる。

 俺の代は最終的に何人残るだろうか。少なくとも朝霞は難なく卒業しそうだ。俺も何とかして残留グループに食らいついてやる。



 何分浸かっているだろうか?さすがに身体が熱い。湯が身体中にまとわりついてくるようだ。

 それに、やたらと眠い気がする。

 このまま湯の中で寝てしまうと、それこそ溺れてしまうことになりかねない。俺は睡魔に抗い、目を開けて立ちあがろうとした。


 その瞬間、あまりに驚愕して心臓が縮んだ。

 またしても、視界の周縁部が真っ黒くなっていることに気づいたからだ。

 これは公園のときに経験したあれだ……。そんな馬鹿な……。どういうことか理解が追いつかない。


 狼狽える俺を嘲笑うかのように、黒い部分は着実に広がっていき、眠気は益々増していく。止まる気配はない。

 俺はやっとのことで浴槽から這い出したが、足の筋肉が機能せず、床に倒れ伏した。

 やっとここまで来たのに……。このままハッピーエンドを希求するはずだったのに……。またなのか?それとも、今度こそ本当に死ぬのか?しかし、今回は死に至るような理由は見当たらない……。


 急速に狭くなっていく視界の中央に、風呂の操作パネルの時刻表示が見えた。20:25だった。



すべて真っ黒になった。

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