1章 達成度考査 編 06

「神楽くーん!」


 聞き覚えのあるアルト声の女子に呼ばれて、遠くに行っていた意識が引き戻された。倉本?

 もしや、倒れている俺を発見して駆け付けてくれたのか。

 視界が突然回復した。くらくらする。

 しかしそこは夜の公園ではなく、見覚えのある学校の廊下だった。


「神楽くーん!」


 もう一度倉本に呼ばれたので声のほうを振り返った。よほど奇妙な顔をしていたのだろう、倉本はぎょっとした表情を浮かべた。


「ど、どうしたの?突然青ざめてるけど……」


「お、おう。大丈夫だ」


「そう?ならいいけど。頑張って同じ部活入ろうね!」


 これは見覚えのある場面だ。

 夢か?夢なのだとしたら、こんなデジャブのような残酷な夢は早く覚めてほしい。悪趣味だぞ。

 さっきまで夜の公園にいたはずが、目が見えるようになると突然、退学するはずの学校にいること、見覚えのある場面で倉本が聞き覚えのあるセリフを発していること、これらに対する合理的な説明は、俺の常識では夢以外に見当がつかない。

 非常に馬鹿らしいが、こんな夢は不愉快なので、古典的な方法でとっとと強制的に起床させることとしよう。

 俺は自分の頬を掴んで力いっぱい引っ張った。これ以上の力で引っ張ると、どこかしらから出血するくらいの力で引っ張った。鋭い痛みが顔面を貫く。が、状況に特に変わりはない。そのままだ。

 そして、自傷してみて分かったが、夢にしてはリアルすぎる。痛覚の精度が高すぎる気がする。夢の中では痛いことをしても、実際はそんなに痛くはない、というのが俺の経験則だ。


 俺は教室の中に戻った。

 戸惑っている。訳がわからず脳が細動を起こして機能不全になっている。とにかく更なる刺激が必要だ。


「おい倉本。俺を思いっきり引っ叩いてくれ」


「へ?な、なに?」


「いいから。何なら、俺のことをこれからお前に乱暴しようとしている悪漢だと思ってくれて良い」


「??わかった!試験に向けて気合いを入れてほしいってことだね」


「ああそうだ」


 瀬川は怪訝そうな顔でこっちを見ている。


「じゃあ遠慮なくいくよ……」


 ほとんどノーモーションで左頬に痛烈なビンタが飛んできた。めちゃくちゃ痛い。

 俺は勢いあまって黒板に叩きつけられ、俺の視界はまた真っ暗になっていった。

 やはり夢だったか……。こんな場面の夢を見るなんて未練がましいな……。再び目を開けたら、公園のベンチが見えるはずだ。

 それか、あの世の風景かもしれない。


「神楽くーん!!」


 目を開けると、ベンチではなく教卓の足が見えた。俺はよろよろと立ち上がった。


「ごめんね!ほんとうに暴漢だと思いこんじゃったから!ちょっとだけ気絶してたかな……?ごめんよ〜」


 倉本は手を合わせて謝っている。


「脳震盪だな。今のは」


 瀬川が冷静にコメントした。

 

 クラス中がこちらに注目していたが、俺と倉本が喧嘩をしていたわけではないことが分かると、またそれぞれ帰宅準備や会話の続きに戻っていった。

 今の倉本の一撃で、これが夢であるという仮説はさらに弱くなった。もちろん、異常に覚めにくい夢という可能性は排除できないが、もはやそれよりも確かめたいことがあった。


 俺は瀬川を見て縋るように言った。


「ところで瀬川、今日は何日か分かったりしないか?」


「は?お前、今のビンタで記憶飛んじまったのかよ。今日は4/9だ。入学式の日だろうが」



 仮にこれが夢でないとするならば、非常に不可解の一言に尽きる。この現象に対して、誰からも何の説明もない。

 携帯を確認しても、クラスの日付を確認しても今日は4/9であって、それ以前でもそれ以降でもない。

 あと考えられる可能性としてはドッキリだ。俺はむしろドッキリであってほしいと願ったが、俺1人のためにネットニュースの日付を変えるなんて現実的ではない。というか、絶対に無理だ。

 だとしたら、合理的な説明はまったくつかないが、今日は4/9だと思うほかないだろう。


 俺は経験したことのないような巨大な恐怖感に襲われた。

 この世界の今日の日付は、確かに4/9のようだが、当然今までの人生でこんなことは起こったことがない。つまり、これは俺が知っている世界でないということだ。

 そんな物理法則を根底から易々と無視してくる世界の挙動は、どれだけ信頼を寄せて良いのだろうか?

 例えば、一歩先には教室の床があるが、それこそ夢のように、踏み出した瞬間に無くなるなんてことはないのか?今、俺の身体は形を保っているようだが、突然の予期せぬ力によって、四方八方に引き裂かれる可能性もあるんじゃないか?

 何せ起こり得ないことが起こったのだ。それはすなわち、今後何が起きてもおかしくはないということだ。矛盾の上には何でも積み上げることが許される。

 下手に夢より感覚の解像度が高い分、1秒1秒過ぎていくことそれ自体が拷問じみている。


 俺は鉛のような足を恐る恐る動かしながら、やっとのことで家に辿り着いた。

 しかし、すでに自宅ですら安心できるスペースではない。真の意味で、この世の全てが、俺の敵に回っているようなものだ。

 俺は布団をかぶってぶるぶる震えた。公園では、空気に溶けてしまいたいと思っていたが、いざ本当に自分が突然霧散してもおかしくない状況に置かれると、圧倒的に恐怖心が勝る。とにかく怖い。



 短時間のうちに、あまりにも状況が変化したため、心身ともに非常に疲弊している。

 布団に潜っていると耐え難い睡魔が襲ってきた。また例のやつだろうか。もはやどうでもいい。だが寝るのも怖い。無事に起きられるのだろうか?とはいえ、寝ている間に消え去ってしまえるなら、それが一番恐ろしくない方法かもしれない。

 俺はもう、この世界には嫌気が差した。今は寝て楽になってしまいたい……。


 俺の頭の中では思考がぐちゃぐちゃになり、停止した。俺は深い眠りへと誘われていった。

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