1章 達成度考査 編 05

 ここはどこだろう。何かに包まれているようだ。柔らかい何か。

 ……次第に意識が鮮明となってきて、網膜に像も写り始めた。白い天井だ。頭の横で何かの機械がブーンと音を立てて稼働している。


 俺は、病院のベッドの上で目覚めた。

 部屋には誰もいないようだ。起き上がってみると、外は明るく、機器にデジタル表示された時計を見ると10時過ぎだった。急激に脳が働きはじめた。午前10時ということは……。

 とんでもない絶望感が俺を襲う。


 とりあえずナースコールを掛けると、すぐに看護師が飛んできた。身体の状態の説明を聞いたあと、一応、俺は看護師に質問した。午前10時という時点でこの質問にあまり意味はないのだが、聞かずにはいられなかった。


「今日は何月何日ですか?」


 看護師は5/31だと答えた。試験には完全に遅刻していた。

 遅れて参加する意味はない。終了だ。



 どうやら俺は交差点で自動車に轢かれ、救急車でこの総合病院まで搬送されたようだ。ほぼ半日、意識不明の状態にあったらしい。幸い、命に別状はなく、気を失っていたのも転倒による軽度の頭部打撲によるものだった。意識が回復した今は、簡単な検査を受けて異常がなければ今日中に退院できるとのことだった。

 北海道に住む俺の両親には昨日のうちに連絡がつき、12時過ぎにここに来るらしい。担当の若い医者が呼ばれ、簡易的な検査を行った。

 俺はもはや、試験のことに関しては意識的に考えないように努力していたが、炭酸水の泡のように、勝手に次から次へと試験のことが頭に浮かんできた。救済措置はない、という言葉が重く俺の背中にのしかかっていた。一応、事故の証明を提示することによって、抗議はできるかもしれないが、例外は無いという桑島の言葉はおそらく字義通りなのだろう。


 正午になり、両親と、何故か妹も病室を訪ねてきた。

 両親は俺を見るなりほっとした表情を浮かべた。妹は、安心したのかうざがっているのか、複雑な顔をしていたが、基本的には俺の無事を喜んでいるようだ。思春期特有の捻くれた感情表現だろう。1つしか学年は変わらないが。


「すまん、俺、退学になるかもしれない」


 俺は両親に事情を説明した。これは入学前にも話した内容であるため、承知はされているはずだが、自分が置かれている状況の整理のためにも再度説明した。

 父親は頬を掻きながら言った。


「啓介、命あっての物種だ。別にあの高校にこだわる必要はないぞ。大体、あの高校は退学になっても世間的に大したマイナスにはならないからな」


「そうよ。また新しくやり直せばいいのよ」


「……ありがとう。そう言ってもらえると助かる」


「まあ、念のため診断書持って、高校には退学取り消しの主張だけはしておけ。何がどうなるかは分からんぞ」


「ああ、分かった」


 おそらく無理だろうな、と半ば諦め気味に頷く。


「とりあえず、大事は無さそうだから、検査の結果が出て大丈夫そうなら母さんたちは帰るよ。彩音、お兄ちゃんに何か言うことはないの?」


「別に……死ななくてよかったね」


 コメントが無愛想の極みだ。


「ふん、素直じゃないな。啓介が事故に遭ったと聞いて一番おろおろしていたのは彩音だというのに。彩音のやつ、詳細な連絡があるまでずっと家の階段を登ったり降りたりしてたぞ」


「ちょっと!そんなこと言わないでよ!」


「ははは。もし退学になったら地元に帰ってこい。上京するのは大学からでも良いだろう。そのほうが母さんも彩音も寂しくないしな」


 彩音はむっとして父親を睨みつけていたが、否定の言葉はなかった。


「まあ、こっちにいたら金もかかるし、実際そうするしかないかもな」



 14時には検査の結果が出た。現状異常なしとのことだった。ただ、気分がとても悪いとか、激しい頭痛がするとか、そういった症状がもし現れたら、すぐに受診してほしいとのことだった。

 検査結果を聞いて、両親と妹は帰っていった。


「退院の手続きはこっちでやっておくからな」


 遠い北海道からせっかくこっちに来たのだから、少しくらい観光していけばいいのにと言ったが、重要な仕事を途中で放り出してきたらしく、早く帰らないといけないとのことだ。母親は洗い物の途中だったという。申し訳ないことをした。


 15時過ぎに瀬川がやってきた。浮かない顔、というより気まずさと解放感が入り混じった表情だ。


「おう、瀬川」


「おう、ひとまず、生きてて良かったな」


「まあな。お前、今日の試験はどうだったんだ?その話をしに来たんだろ。その顔だと大丈夫だったのか?」


「俺は……まあ突破したと思うよ。お前が来てなくてびびったけどな。結果は今日の20時に出るんだ。で、これを伝えるよう言われて来たんだが……」


「俺は未受験だから退学決定か……」


 言われる前に先に言いたかった。瀬川はその先を言わずにこくんと頷いた。やはりそうか。


 父親の言う通り、特殊な学校の事情から、退学になっても世間的にそこまでビハインドにはならない。普通の高校を退学になるのとは訳が違う。

 ただ、あの学校を卒業できれば、少なくとも人生において食うに困ることはないはずだった。

 社会において輝かしい業績を残している人の遍歴を見ると、この高校を卒業していることが多い。それだけあの無茶な教育システムの精度は高いということだ。

 俺はそのシステムから脱落した。まんまと滑落した。


「運も実力のうちさ。一応、事故に遭ったことを理由に復学を主張してみようと思っていたが、瀬川がそれを伝えにわざわざここに来たことを考えると、覆すのは難しそうだな。例外はないということか」


 俺は自分に言い聞かせるように、言いくるめるように言った。


「例外を作ったら今後の対応が難しくなりそうだから、厳しいだろうな。今までの対応への不満も噴出するだろうし」


「そういえば、倉本はどうだったんだ?」


「試験後、すぐに帰っちまったから、よく分からないな。いつの間にかいなかったぜ。あんまり喋りたくなかったのかもな」


「そうか……」



 瀬川は退学手続きに必要な書類を置いて帰って行った。

 俺と瀬川はもう会うことはないだろう。少なくとも高校生の間は。大学生になって再会する可能性はあるが、瀬川が無事卒業出来ていれば、たとえ同じ大学であっても住む世界は全く異なる。

 それが私立幕張学園高校を卒業したという意味だ。


 16時になって、俺は荷物をまとめて退院し、タクシーでアパートに帰宅した。

 まだ正式に退学手続きは行なっていないものの、突然肩書きを剥奪された状況に馴染むことが出来ず、落ち着いて座っていることが出来なかった。すぐにでも家の引き払いの計画を立てたり、引越しの見積もりを取ったりしなければならないが、そんなやる気は到底起こらない。

 俺は何も持たず、鍵もかけずにふらふらと家を出た。


 あのとき、最後の最後で倉本の誘いに乗らなければ、倉本が俺の忘れ物に気づかなければ、シャーペンなどというどうでも良いものを捨て置いておけば、予定通り早めに帰っておけば、こんなことにはならなかった。

 こう考えると全てが調和して、俺をあの事故に誘導しているような気さえしてくる。終了時刻を遅らせたり、あの横断歩道を渡るタイミングで電話を掛けてきたのは、俺を陥れるための倉本の陰謀ではないのか?いや、仮にそんな大それたことが可能だったとしても、彼女にそれをするメリットは全くない……。

 せめて合格人数が決まっているとか、そういう試験だったならば、俺ももっと用心していたのに……。やり場のないもどかしさと虚しさが、次から次へと湧いてくる。



 とりとめのないことを考えながら歩き続けていると、見知らぬどこかの広い公園にたどり着いた。

 気づいていなかったが、あたりはすっかり暗くなっており、公園の時計を見ると20時過ぎを指している。

 俺は木のベンチに腰掛け、肺の底から溜息を吐いた。そして息を止めて、初夏の生温い気温や、風の音や虫の鳴き声に神経を集中させた。自然現象の流れに身を任せることは、自己の意識を薄めることに繋がり、現実から目を背けることができる。このまま空気に溶けていき、風となって霧散することができればどれだけ楽だろうか。

 しばらく深呼吸を繰り返していると、ようやく頭が再起動し始めた。


 確かに絶望感のある状況だが、これで俺の人生が完全に閉ざされたわけではない。当たり前のことだ。

 幕張学園高校は高校浪人生を受け入れていないため、再受験はかなわない。社会の最上層への最も開かれたアクセス方法は失われたかもしれないが、きっと、幕張学園高校を経ずとも最上層へ繋がる抜け穴はあるはずだ。それがどんなに小さく、針の穴ほどの抜け穴であったとしても、俺は貪欲にそれを追求し、返り咲いてみせる。そう決意した。

 俺はまだ死んではいない。



 時刻は20:25。ここがどこだか分からないが、とりあえず携帯のマップアプリで位置を確かめよう。そして、帰宅してこれからの人生計画を立て直そう。親とも相談しなければならない。まずは編入先の高校の検討からだ。

 そう考え、ベンチから立ち上がったそのときだった。

 強い立ちくらみに襲われた。何だ??

 視界の周縁部から黒いモヤが広がり、公園の景色をかき消していく。やはり事故で頭を打った後遺症があったか?医者も、絶対に大丈夫とは言わなかった。それに、どういうわけか同時に強い眠気も襲ってきている。どうしても抗うことができない。

 頭部の損傷の影響は、時間が経ってから突然現れることがあると聞いたことがある。またしても運悪く、それに当たってしまったのか……。


 黒いモヤは視野の中心に向かって侵食し、もう明るい部分は豆粒ほどの大きさしかない。

 このまま名も知らぬ公園に倒れ伏して死ぬのだろうか?俺の人生は、一体何だったのだろうか……。



すべて真っ黒になった。

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