1章 達成度考査 編 04

 適当な間食を調達し、倉本の家の前に着くと、ちょうど反対方向からトレーニングウェア姿の瀬川が走ってくるところだった。


「お前、汗びっしょりじゃないか。女子の家だぞ?」


「これが俺の本来の在り方なんだから仕方ないだろ。もちろん汗はシートで拭くさ」


「着替えくらい持ってこいよな……。たぶんめちゃ引かれると思うぞ。それにしても結構でかい家だな。金持ちのにおいがする。門がでかいせいで中の様子が分からん」


「そうだな。地主とかなのかもな。まあどうでも良いことだが」


 瀬川は呼吸を整えながら淡々とクールダウンを行なっている。奴の呼吸が落ち着いてきたころにインターホンを押した。今どき珍しいカメラ無しのタイプだ。


「どちら様でしょうか?」


 想定したより硬く作られた倉本本人の声が聞こえてきた。


「神楽と瀬川です」


「は〜い。扉開けて入ってくれる?」


 ウィーンと、出入り口用の扉の電子ロックが解除される音がした。門扉から少し歩いたところに玄関ドアがあり、俺たちが前に着いた頃合いにガチャリと開いた。私服姿の倉本ひかりがひょこっと姿を見せた。格好は第一印象に違わず、清楚系の水色柄入りワンピース。


「お疲れ〜って、瀬川くん本当に走ってきたの??超ウケる。家どこなの?」


「都内だよ。江戸川区だ。ここまで走って1時間半ちょっとだな。割とまっすぐ一本道だったから楽だったぜ」


「ひええ無茶するねえ。事故に遭ったら元も子もないのに〜」


「これくらいやらないと発散できないだろ」


 瀬川は瀬川でそれなりにストレスを感じているのかもしれなかった。それはそうだろう。俺たちは勉強が同世代と比較して出来るだけの高校生なのだ。まだ経験した修羅場の数も知れている。俺も含めて、マインドコントロールが完璧な高一はいない。出来るのは乱さないように調整することだけだ。

 ふと銀髪ピアスの女子が頭に浮かんだ。あいつは……どうなのだろうか。


「じゃあ入って!」


 玄関に入ると、まず黄土色の大きな壺に目を奪われた。直方体形状の窪みに静置されているが、なぜかその窪みの側面には、その面から壺を見たときの絵が飾られていて、鏡のような効果になっていた。天井には壺の口が描かれている。金持ちの趣味は分からない。


「スリッパ履いて、2階にあがってね〜」


 倉本ひかりの部屋は、内装だけ見ると典型的な女子部屋という感じだった。うさぎのぬいぐるみ、薄いピンクが基調の家具、ふわふわしたカーペット。壁にはバイオリンを持って笑っている写真が飾ってある。

 ただし、俺には少し違和感があった。どこを見ても、倉本ひかりとはこれだ!と主張しているようで、その主張の先にあるものが見えてこない。


「ん?どうかしたの?神楽くん」


「いや、別に」


「そ。今ママに飲み物持ってきてもらうね。2人とも紅茶で良い?」

 俺も瀬川も同意した。

 

「結構大きい家だけど、親はなんの仕事してるんだ?」


「えーっとね、明星バイオ製薬っていう製薬会社があるんだけど、そこの役員なんだ、パパ。いっつも帰ってくるの遅いんだよお」


 倉本はさらっと言ったが、明星バイオ製薬というとかなりの大企業だ。花粉症の薬でお世話になっている人は多いだろう。親が平均的なサラリーマンの俺からすると、羨ましい限りだ。きっと幼少期から、育ってきた環境は違っていることだろう。

 つまり倉本は立派なお嬢様ということだ。


「明星バイオか、そんな大企業の役員だったら都内の一等地に住んでそうなものだけどな」


 瀬川が突っ込みを入れた。


「まあね〜。でもこの土地は父方が代々受け継いできた土地だから、おいそれと手放せないんだって。わたしにはよく分かんない話だけどさっ」


 そのとき、ドアのノック音が聞こえ、見るからに一級品のティーセットをお盆に乗せた倉本の母親が部屋に入ってきた。

 倉本母は、俺と瀬川をちらっと見て、頑張りなさいね、とだけ告げて、すぐに部屋を退出した。俺たちにどういう感想を抱いたのかは分からなかった。


「そいじゃあ、始めようか!どの教科からやるかな?」


「まあ順当に数学からでいいんじゃないか?」


 俺たちは数学の過去問やら問題集をバッグから出し、最後の詰めに取り掛かった。



 4時間後、俺たちはすべての科目の点検作業を終えた。本当ならもう30分ほど早く終わる予定だったのだが、提案者である倉本が粘ったため、20時を少し過ぎてしまった。


「ふぃー、やっぱりやって良かったなあ。わたしの抜けてるとこちょこちょこあったからさっ」


「そうか?お前ほぼ完璧だったろ。まあ俺は、付け焼き刃で帰り道走りながら復習しておくよ」


「瀬川、お前帰りも走るのか?帰ったら22時前だろう」


「俺はいつも0時きっかりに寝るからな。22時だったらまだ2時間もあるから余裕だぜ。じゃあ、俺ウォーミングアップするから先に外、出とくよ」


瀬川は荷物をまとめて立ち上がった。


「明日は頑張ろうね〜!いやー、蹴落とす試験じゃなくてほーんと良かったな」


 俺たちは、倉本家の門扉の前でそれぞれ別れを告げた。瀬川は都内方面ということで俺とは逆方向であり、夜の闇に颯爽と消えていった。


 俺は最寄り駅まで徒歩で向かう。

 明日は退学か残留か、俺の未来を左右する相当大きなものが掛かってる試験だが、入学する前から準備はしっかりしていたし、入学後もベストに近い形でスケジュールを遂行できたので、それなりに自信はあった。まったく不安がないかと言えば嘘になるが、過去問の難易度からしても、普段どおりの実力を出せれば8割は堅かった。


 そう、試験を受けて普段どおりの実力を出せれば。


 駅前の交差点で信号待ちをしているとき、携帯が振動した。見ると倉本ひかりからの着信であった。何だろうか?

 駅からはバラバラと人が吐き出されている様子が見える。

 通話ボタンを押しながら、歩行者用信号が青になったので渡り始めた。


「もしもし、ねえ神楽くん、忘れ物してるよ!」


「えっ、何だ?」


「シャーペン忘れてるよ〜。これいつも使ってるやつでしょ?マークシート簡単に塗れるやつだよね?」


 それはまずい。シャーペンは使い慣れたやつが良いに決まっている……。


 踵を返し、元来た道を引き返そうとした。

 すると、突然近くで耳をつんざくような金切り声の悲鳴が上がった。声の方向に顔を向けた。

 信号無視をした自動車が横断歩道に突っ込んでくるところがコマ送りのように見えた。俺の前にいる人を轢きながら迫ってくる、迫ってくる!迫って…


ドガッッッッッッ


 自動車が衝突しても、不思議と痛みは感じなかった。倒れる瞬間もコマ送りのようだった。

 自分の姿勢が離散化されているような感覚になる。地面に倒れこむ瞬間、頭の中では倉本が瀬川に言った言葉が何度も、何度も繰り返し再生されていた……。


「事故に遭ったら元も子もないのに」

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