クール系女子とお出かけしたら性癖が歪んじゃった話
「こんちは。あんたが”レイチュウ”? 私、”アイク”」
マッチングアプリで知り合った相手を待っていたら、無愛想な女の子が現れた。ミディアムショートの黒髪の先っぽだけを緑色に染めたおしゃれな子だ。最大の特徴は待ち合わせの目印にもなっているお人形が来ているような可愛い服だ。白とネイビーの二色で構成されたストライプの半袖シャツワンピース。胸元にはクロスタイがついている。ちょっと軍服みたいな感じが無愛想でクールな彼女によく似合っていた。
「ねえ、あんたが”レイチュウ”なの?違うなら違うって言ってほしいんだけど」
「あ、すみません…… はい、僕が”レイチュウ”です。えっと、本名は
「そ、私は
”アイク”さん、いや春日さんは自己紹介のあと、僕のことをジロジロと見つめた。頭の先から爪先までしっかり観察したあとで春日さんは少しだけ口角を上げた。
「うん、ちゃんと脱ぎやすい服装だね」
彼女の言う通り、今日の僕は白Tシャツに黒のパンツ、上には黒のGジャンを羽織っている。どれもすぐに脱げるようにちょっとだけ余裕がある服だ。
「はい、そういう約束だったので」
「いいね。そういう真面目なの。じゃ、早速行こっか」
春日さんはスタスタと歩き出す。あの早さなら多分、十分くらいで目的地に着くだろう。ということは、僕はあと十分で春日さんの思い通りにされてしまう。
ドキドキで足が止まりそうになる。正直言うと怖い。でも、これは自分で望んだことだ。
(頑張らなくちゃ…… そうしなきゃ、付き合ってくれた春日さんに申し訳ないもんね)
僕は勇気を持って春日さんについて行く。春日さんは僕がちゃんとついてきているのを確認して、また口角を上げた。
◆
「仁礼ー、準備できた? 」
春日さんがカーテンの向こうから僕に呼びかける。最初に会ったときよりちょっと弾んだ声だ。僕がここからでてくるのを楽しみにしているのだろう。
僕はちょっと裏返った声で「はい」と返事をする。心臓がバkバクうるさい。この古道で自分の体がバラバラになりそうだ。でも、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。眼の前のカーテンに手を掛け、フゥーと長めに息をはいてから、僕はカーテンをバッと開けた。
眩しすぎる光の向こうにはニヤけた顔の春日さんが立っていた。僕の姿を確認した瞬間に春日さんは叫んだ。
「きゃー! かわいいー! 仁礼、女の子の服、似合いすぎー! もち、私のセレクトもいいんだけど、仁礼マジでスタイルよすぎ! 手なっが! 足ほっそ! 童顔だから、フリフリもにーあーうー! あ〜、もう我慢できない。ヘッドドレスも着けてもらお。ちょっと待ってて! 店員さんにその服に合うヘッドドレスもらってくるから」
期間中のようにバーッと喋ったあとで、春日さんはダァーッどこかへ行ってしまった。僕は女性服専門店の試着室に一人で取り残された。周りの視線が少し気になったので、僕は試着室の中に避難し、カーテンを閉めた。
(はぁー、びっくりしたー…… 春日さんってあんなに喋るんだ。メッセージのときとは別人だな)
僕と春日さんは『性癖マッチングアプリ』というアプリで出会った。このアプリは性癖でマッチングを行うので、特殊な性癖でも気の合うパートナーが見つかりやすいと評判だ。前評判通り、相性ピッタリの相手には出会えたが、まさかあそこまで饒舌な人だとは……
「あれ? 仁礼ー! どこー! 仁礼ー! 」
試着室の外から春日さんの声がする。自分の名前が何度も呼ばれるとなんだか迷子になったみたいで恥ずかしい。僕は慌てて試着室のカーテンを開けた。
「はいはい、ここですよ。もう、そんなに何度も呼ばないでくださいよ」
「あ、まだそこにいたんだ。ゴメンゴメン。で、コレ! さっき店員さんからおすすめされたヘッドドレス! 絶対似合うから着けて着けて! 」
春日さんがフリルでふわふわした物体を僕に押し付けてきた。これはなんだ? ヘッドドレスというからには頭につけるのだろうが、着け方がわからない。僕は手の中のふわふわをしばし眺めた。
「あり? もしかして着け方わかんない感じ? 」
「え、えぇ、こんなの見たことなくて…… 」
「そっかそっか。じゃあ着けたげるから、ちょっとかかんで」
春日さんは僕の手からヘッドドレスを取って、僕にかがむように指示する。僕は言われたとおりに膝に手をあてて少しだけかがんだ。春日さんは手にもっとヘッドドレスを僕の頭の上に置き、横から出た紐をくるくると結んで僕の顎下くらいに結び目を作った。最後にギュッと強く結び、ヘッドドレスの位置を固定して、春日さんは僕から離れた。着け終わったのだと思った僕はかがんでいた姿勢をもとに戻す。僕の背筋が伸び切る前に春日さんのマシンガントークが始まった。
「うわっ! ヤバッ! 可愛い! ヘッドドレス似合いすぎぃ! おっきいリボン可愛い〜! やっぱロリ服にはヘッドドレスだよね〜。赤白フリフリすっごく癒やされる〜。ホントすごっ、もう姫じゃん! 仁礼、お姫様じゃん! 」
「…… はぁ、どうも」
「その恥じらってる感じもいい〜!ね? そうですよね?! お姉さん!! 」
春日さんが近くにいたスタッフらしきお姉さんに話題を振る。お姉さんは柔らかな笑顔で「えぇ、とてもお似合いですよ」と言ってくれた。なんか…… 嬉しい。
「うん! それだけ似合ってるんだからもうその
春日さんは試着室のカーテンをシャーと勝手に閉める。今まで春日さんの勢いに流されてきた僕はここで初めて反論に出た。糧―んから顔だけを出して春日さんをキッと睨み、大声で僕は言った。
「ちょっと!勝手に買うって決めないでくださいよ! 僕のお金で買うんですから! 」
「? 何言ってるの?今日は私が全部払うけど…… 」
予想外の言葉に僕の反論は終わった。びっくりした僕はさぞ間抜けな顔をしていただろう。試着室の外の春日さんはフワッとした笑顔でこちらを見ている。まるで遊んでいる子どもを見守るお母さんみたいな笑顔だ。
「ね? 早く脱いでお会計しよ」
「でも…… えっ? ホントにいいんですか? 」
僕の問いかけに春日さんは不思議そうな顔をする。不思議なのは僕の方なんだけど……
「『いいんですか?』って…… 私が着てほしいんだから、私が買うのは当然じゃん。仁礼、もしかしてアホ? 」
「いや、僕がアホというより、春日さんが独特かと…… 」
「ふーん。ま、私はアンタみたいに可愛い男の子がロリ服着てくれてればいいのよ。お金なんてまた稼げばいいし」
「だから、早く早く」と春日さんは僕を試着室に押し込む。ここで押し問答していても何も解決しないと思い、僕は言われるがまま、服を脱ごうとした。
「あ! ちょっと待って! 」
試着室のカーテンが勢いよく開く。僕は思わず「ワワッ! 」と情けない悲鳴を上げた。
「なんですか、春日さん! 勝手に開けないでくださいよ! 」
「いや一旦、仁礼の可愛い姿を目に焼き付けようと思ってね。ちょっとなんか可愛いポーズとってよ」
「そんな無茶振り、対応できるわけないでしょ! もう出てってください! 」
春日さんを追い出し、僕は元の服に着替えた。試着室の外では春日さんが「今の必死な感じもなかなかいいわね」と呟いていた。
◆
春日さんのお金で服を購入したあと、僕らはショッピングモールのフードコートで昼食を食べていた。ちなみに買った服は店員さんが「このあともお買い物を続けられるなら、宅配しておきましょうか? 」と聞いてくれたのでその言葉に甘え、僕の家に送ってもらった。店員さんの親切のお陰で僕と春日さんは手ぶらでお昼にありつけた。
「はー、でもホント! さっきの仁礼可愛かったよね! あそこまで似合う人、なかなかいないわよ。仁礼は前世でかなり徳を積んだと見えるわ」
「そうですか…… 」
春日さんはときたま『前世』とか『徳』とか難しい言葉を使う。お金の話もそうだし、なんというか普通の人じゃない。まあ、『男の子に可愛い洋服を着せたい』なんて性癖の人、普通なわけないか。かくいう僕も『女の子の格好をしたい』ってアプリに登録したから、同じくらい普通ではないかもだけど……
僕がぼんやりそんな事を考えている間も春日さんのマシンガントークは止まらない。今はロリータ服の違いについての講義が始まったところだ。春日さんはフードコートのウォーターサーバーをフル活用して喉を潤しつつ、もう三十分ほど話し続けている。
「それでね! 一般に言われているゴスロリの中には普通のロリータ服が混じっているの! 仁礼は色白だから正統派のゴスが…… 」
それまでずーっと続いていた春日さんの話が中途半端なところでピタッと止まった。最初は僕の願いが通じたのかと思ったがどうやら違うらしい。春日さんはなぜか少し血の気の引いた表情してその場で固まっていた。
「春日さん? どうしました? 」
「ん、なんでもない…… 」
なんでもないと本人は言うが、春日さんの動きは明らかに不自然だ。さっきまでテーブルの上に置かれていた両手は今は膝の上辺りに置かれ、体を右に左にとメトロノームのように揺らしている。さっきまでずっと開いていた口もキュッときつく結ばれている。春日さんに何かトラブルがあったことは、誰の目から見ても明らかだった。
「春日さん、あの、大丈夫…… 」
「大丈夫だよ。ちょっと話しすぎちゃったね。今日はもう帰ろっか」
春日さんはゆらゆらとおぼつかない足取りで席を立つ。立ち上がったあとも体がくの字に曲がって、まっすぐ立てていない。もしかしたら春日さんには持病とかがあって、その発作が急に来てしまったのだろうか。そうだったら大変だ。僕は勢いよく席を立ち、春日さんに駆け寄り、肩に手を掛けた。
「ちょ…… 仁礼、何を」
「春日さん、体調が悪いならはっきり言ってください! 僕、これでも応急処置はできますし、病状によってはすぐに救急車を呼ぶので! 」
「は? 何言って…… 」
「無理しないでください! 初めて会うから気負っているのかもしれませんが、持病があるならはっきり…… 」
「いや違うから!! 」
春日さんの大声でフードコートの近くにいた数人がこちらを向く。僕と春日さんはなんだか恥ずかしくなって、互いに下を向いた。みんなの注意が僕たちからそれた頃、春日さんが口をボソッと言った。
「…… トイレ行きたいの」
「はい? 」
予想外の回答を受け、思わず聞き返してしまう。春日さんは頬をほんのり赤くしながらさっきのセリフを繰り返した。
「だから、トイレ行きたいの。多分、水、飲みすぎたから。あと、話すのに夢中で気づかなかったけど、けっこう限界近い、かも…… 」
今まで普通でないと思っていた春日さんが急に身近に感じられた。そっか、普通と違うところがいっぱいあっても、春日さんも女の子。初めてあった男性の前でトイレというのが恥ずかしいんだ。僕は春日さんを必要以上にはずかしめないよう、慎重に言葉を選んだ。
「そうですか…… じゃあ、トイレに行きましょうか。ちょうど僕も行きたかったですし」
「…… うん」
僕は春日さんとショッピングモールの公衆トイレに向かう。春日さんは本当に限界が近いらしく、歩幅が狭くなっていた。僕は春日さんとの距離ができる度に立ち止まり、春日さんが追いつくのを待った。歩いて待つのを何度か繰り返して、僕と春日さんはトイレにたどり着いた。のだが……
「うわっ、けっこう並んでますね」
僕の目の前にはトイレから伸びる長い行列があった。女子トイレに行列ができているのは何度か見たことがあるが、今日は男子トイレにも行列ができている。
「とりあえず、並びましょうか」
「うん、じゃ、あとでね」
春日さんはそう言ってフラフラと行列の最後尾に並んだ。行列に並んだ途端、春日さんはタンタンとおしゃれなブーツで床を叩き出した。多分、今までは歩くことで紛れていた尿意が、立ち止まったことではっきりとしたのだろう。足踏みははっきりした尿意を紛らわすための行動なのだと僕は思った。
少しの間、足踏みをする春日さんを見ていると、僕の視線をキャッチした春日さんにキッと睨まれたので、僕は慌てて男子トイレの列に並んだ。
男子トイレの列は女子トイレのものよりもスイスイ進み、僕はあっという間にトイレの入口が見える位置まで来ていた。その間、女子トイレの列は全く進んでいなかった。女子トイレは男子トイレに比べて回転率が悪いと聞いたことはあったが、まさかここまで差がつくとは思っていなかった。
ふと、女子トイレの方を見ると、何やら張り紙がしてあるのに気付いた。そこには「故障のため、個室減少中」とワープロの無機質な文字が並んでいた。文字の下には五つ並んだ個室のうち、三つにバツ印が描かれた図があった。この図の通りなら、この女子トイレは普段五つある個室のうち、二つしか使えないということだ。個室が五つの時点で、普通より少ない気がするのだが、それが故障で三つも使えないとなると、この列の進みの遅さも頷ける。
実際、女子トイレの列に並んでいた人の中には張り紙を見て、列を離脱する人もいた。この列に並び続けるよりも別のトイレを目指したほうが早く用を足せるという考えなのだろう。
(うーん、春日さんにこのことを伝えたほうがいいかな? 春日さん、限界っぽかったし…… )
しばし悩んで僕は男子トイレの列から離れて、春日さんのいるであろう女子トイレの最後尾付近へと向かった。僕の予想通り、春日さんは列の後ろの方で、モジモジと体をくねらせていた。
「春日さん」
「ハァ、ハァ…… あれ、仁礼? もう済んだの? やっぱ男の人ってトイレ早いね」
「いや、ちょっと伝えたいことがあって…… 」
「何? 」
春日さんは息を荒げながらこちらを見ている。喋り方がぶっきらぼうなのは、多分クセとかではなく余裕がないのだろう。数秒のタイムラグすら致命傷になりかねない春日さんのために、僕はなるべく要点だけを選んで現状を伝えた。
「えっと、このトイレ個室が二つしか使えないみたいなので、他のトイレに行ったほうが、その、早く済ませられるかと…… 」
春日さんは下を向いて黙ってしまった。どうしよう、うまく伝えられなかったのかな……
「うん、仁礼の言う通り、別のトイレ行ったほうがいいかもね」
しばらくして春日さんがポツリと言った。そして、ゆっくりと列から離れた。春日さんが抜けたところにはすぐに後ろの人が詰めてきた。もう、春日さんがこの列に戻ることはできない。
春日さんは前かがみの体勢のままゆっくりと別のトイレに向けて歩き出した。このショッピングモールは三箇所にトイレがある。今、僕たちがいるトイレから一番近いのは建物の中央付近、イベントスペースの近くにあるトイレだ。春日さんの体もそちらを向いている。今のペースで進めば五分もせずに、またトイレにたどり着けるだろう。そこからまた列に並んで、個室が空くのを待って…… 正味、十分程度我慢すれば、春日さんは間に合うはずだ。僕は今の計算結果を苦しそうな表情の春日さんに伝えた。
「春日さん、頑張ってください。多分、あと十分も我慢すればトイレに入れますから」
「うん…… ありがとう」
それきり春日さんは黙ってしまった。僕がどれだけ話しかけても返ってくるのは、はぁはぁという苦しそうな吐息だけ。もう受け答えをする余裕もないほど、春日さんは追い詰められているようだ。僕は一秒でも早く春日さんが苦しみから開放されるよう、天に祈った。しかし、教の神様はどうやら機嫌が悪いらしい。
「…… ウソ」
久しぶりに聞いた春日さんの声は、とてもか細く、絶望に染まっていた。
僕と春日さんの前には先ほどとは比べ物にならないくらい長く伸びた列があった。数十人という人がズラッと並んで、トイレまで延々と続いている。
「えっ…… なんで、こんな…… 」
思ったことを口にしてしまう。そもそも最初のトイレがあんなに混んでいたのもおかしいのだ。もしかしたら今日は何かイベントがあるのかもしれない。そう思い、イベントスペースを見る。そこにはテレビで聞いたことのあるアイドルグループの名前が掲げてあり、今はステージの片付けを行っているようだった。
おそらく、ついさっきまではアイドルによるイベントが行われており、イベント終了と同時に自由になった観客が一気に近くのトイレに押し寄せたのだろう。そして、あぶれた人が最初のトイレに集まり、列をなしていたというわけだ。こうなるともう、この建物に空いているトイレなどないのかもしれない。
「はは…… 今から私、あれに並ぶの? 」
春日さんから乾いた笑いが聞こえた。彼女の目からは完全に光が消えている。きっと彼女には、あの列に並び順番が回ってくるまで耐えきる余力がないのだろう。だからといって、ここで我慢を解けば、今並んでいる数十人におもらしを見られてしまう。
オシッコしたい。けど、オシッコできない。正反対の欲求の間で彼女はどうすることもできず、立ち尽くしていた。僕はそんな彼女をなんとか救おうと必死に知恵を絞る。最初のトイレは個室が少なく回転率が悪い。今いるトイレは人が多く、列に並んでも春日さんは途中で力尽きてしまう。
(だったら…… これしかない! )
そうなると残る選択肢は一つ。最後のトイレ、ここから歩いて五分ほど離れたトイレに行くしかない。
「春日さん、ここは人がすごいので奥のトイレに行きましょう。そこなら個室数も多いし、ここよりは空いているはずです」
「でも…… また歩くの? 」
春日さんは今にも泣き出しそうな顔で聞いてきた。たしかに、最後のトイレに行くにはまた歩く必要がある。しかし、この列を見る限りあと五分並んだところでトイレにはたどり着けない。もしかしたら十分、十五分と延々並ばなくてはいけないかもしれな。それに比べたら、五分歩いて空いているトイレを目指すほうが僕にはマシに思えた。
「ここに並ぶよりはトイレに行ける可能性が上がります。大丈夫、あと五、六分の我慢です。春日さんなら我慢できますよ」
僕は意味など考えずとにかく春日さんを鼓舞した。ここで心が折れたらマズイと思ったからだ。僕の気持ちが通じたのか、春日さんの目には光が戻った。それ初めて会ったときの光に比べたら随分弱いが、それでもさっきまでより幾分マシだと思えた。
「わかった…… 仁礼がそう言うなら、私、頑張る」
「はい! 頑張ってください! 」
大きな声で春日さんを応援する。春日さんからは「ちょ…… びっくりするから大きい声やめて…… 」と言われてしまったが、気持ちが抑えられなかったのだ。
僕と春日さんは再びトイレに向かって歩き出す。今まで以上にゆっくりと時間をかけ、春日さんからオシッコが漏れ出さないように最新の注意をはらい、トイレまでの道を進む。ときおり、春日さんは「待って待って…… 」と言って立ち止まった。立ち止まり、フーッフーッと息を吐く春日さんは、失礼だがとても妖艶だった。
小休止を挟みながら、僕たちはなんとかトイレにたどり着いた。ここのトイレも今まで同様に列があった。が、他の二つのトイレに比べて列は短めだ。僕は春日さんを列の最後尾に並ばせてから、女子トイレの入口を確認した。最初のトイレのように個室減少の張り紙はなく、全ての個室が使用可能であることがわかった。戻って、そのことを春日さんに伝える。
「ここは全部の個室が使えるみたいです。あともう少しの辛抱ですよ」
春日さんは無言でコクリと頷く。彼女の目は列に並び始めたときからずっと地面に向けられている。口をキュッと結んで、足を閉じ、お尻をフリフリ振っている。これで「漏れちゃう! 」なんて叫び始めたら、まさに小さな子のオシッコ我慢なのだが、元々興味のないことに関しては無口な春日さんは吐息を漏らすだけで、言葉は漏らさなかった。僕は隣で何ができるわけでなく、ただ春日さんを見つめることしかできなかった。
「あっ…… 」
春日さんの口から言葉が漏れた。それと同時に春日さんは体をそらして天を仰いだ。何が起きたのか僕には全くわからなかった。
「あの…… どうしました? 春日さん? 」
返事はない。春日さんの目はここではないどこか、遥か遠くを見つめている。
「へ、へへへっ」
春日さんは上を向いたまま笑った。アテもなくブラブラしていた両手はだらりと力なく垂れ下がり、肩はプルプルと震えている。
「仁礼」
先程まで天井に向いていた春日さんの顔が急にこちらを向いた。その表情にさっきまでの苦しさや絶望はまるでなかった。まだ、トイレには行けていないはずなのになぜそんな表情ができるのか、やっぱり僕にはわからなかった。しばらく春日さんと見つめ合っていると、春日さんの表情が今度は笑顔に変わった。それはまるで太陽みたいな笑顔だった。弾けるような笑顔とはこういう事を言うのだろうとそのときは思った。春日さんの口がゆっくりと動く。
「ゴメンね」
春日さんは笑顔のままそう言った。次の瞬間、あたりに水音が響き渡った。
ビタタタタタタタタタタタタタタ
春日さんから一筋の水流が出て、ショッピングモールの床を叩いた。春日さんの後ろに並んでいた人が「キャ! 」という悲鳴を上げて後ずさりする。その悲鳴を合図に、列に並んでいた他の人も、お店で買い物をしていた人も、みんながみんな、春日さんの方を見た。春日さんはどうすることもできずその視線を受けながら無言で立ち尽くしていた。僕を含めたその場の誰もが、春日さんの失敗を黙って目に焼き付けることしかできなかった。
ビタタタタタタ……
水が床を叩く音が消え、春日さんの放水が終わったことを告げる。春日さんは恥ずかしい水たまりの真ん中で力なく立っていた。肩幅に開いた足の間からはピチョンピチョンと水滴がたれ、水たまりの面積を広げていた。
(春日さん…… )
僕はどうしていいかわからなかった。ただ、春日さんをこのままにしておけないと思った。だから、僕はオシッコの水たまりに踏み入り、春日さんの手を取った。
「仁礼? 」
手を握ったまましばし春日さんと見つめ合う。春日さんの目は少し潤んでいた。ますますここに春日さんをおいておけない。僕は握った手に力を込めて力いっぱい引っ張った。
「こっちへ! 」
言うが早いか僕は春日さんを連れて走り出した。目指すのはショッピングモールの出口だ。お店の人には申し訳ないが、あの状態ではもう逃げるしか思いつかなかった。春日さんは僕に力なく引きずられていた。春日さんが歩いたあとには、道標のようにポツポツと水滴がたれていた。
◆
春日さんと二人でめちゃくちゃに走って、僕たちは人気のなさそうな所まで来ていた。近くの山の上には僕の通う大学が見えた。適当に走ったつもりだが、家の近くまで来てしまったらしい。
「あの…… 春日さん、大丈夫ですか? 」
春日さんはショッピングモールからここまで一言も喋っていない。ただただ物悲しそうな目で足元の地面を見つめている。
「えっと、その、今日はもうこの辺で。あの、よければ送っていきますけど、春日さん一人で…… 」
「ウッ…… ウウッ」
「? 春日さん? 」
春日さんから何やらうめき声が聞こえる。僕が顔を覗き込むとそのうめき声は更に大きくなり……
「ウェェェェン! 」
ついに泣き声にまで発展した。
「ちょ…… 春日さん?! 」
春日さんは僕の視線など気にせずにワンワン泣いた。先程までのクールさはどこへやら。顔をクシャクシャに歪み、目からは大粒の涙がさっきのオシッコの滝のごとくコンコンと流れ出していた。
「ウワァー! 私、我慢できなくって…… 全部、お外で出しちゃって…… ゴメンね、仁礼くん…… 迷惑かけて、ゴメンねぇ!! 」
突然の「仁礼くん」呼びにちょっとドキッとした。春日さんは会った当初からいい意味で女の子らしくなくてかっこよかった。可愛い服装ももしかしたら女の子らしくない中身を少しでも可愛らしく飾るために着ているのかと思っていた。でも今目の前でワンワン泣いている春日さんは可愛い可愛い女の子だ。おもらししちゃって子どもみたいに泣く春日さんに僕はなんだか感じちゃいけないイケナイ感情を感じていた。
「そ、そうですね…… じゃあ、とりあえず一緒に帰りましょう。 家の場所教えてくれますか? 」
「ウゥ…… あっちぃ…… 」
ヒッググズッと泣きじゃくる春日さんの案内で彼女の家を目指す。なんだか迷子を案内しているみたいだ。視界の端に移る春日さんに僕はドキドキしっぱなしだった。
思い返せば今日僕はいろんな経験をした。女の子の服を着て、初めて会った人のおもらしを見て、おもらししちゃって泣いている女の子にドキドキして…… どれもこれも初めての経験。そして全部が全部。とても心地よかった。また女の子の服を着たい。またおもらししちゃってる女の子が見たい。また泣いている春日さんの顔を見たい。
僕の胸の中には許されざる感情が次々に湧き出してきた。その春日さんを家に送り届けてからもしばらく続いた。
僕はもう普通の男の子には戻れないのかもしれない。
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