自己肯定感低めの女子が約束を守りきれずおもらしする話

「う…… ううっ」


 あまりの苦しさでベッドの上でうめき声を上げる。ケガをしているわけではない。病気というわけでもない。ただ、お腹におしっこがたまっていて苦しかった。


 手をやればお腹が固くなっているのがわかる。どれくらいのオシッコがたまっているのだろう? もしかしたら一リットル以上たまっているかもしれない。ちょっとでも油断すると漏れ出しそう。それくらい状況は切迫していた。


 「だったらトイレに行けば?」と普通の人は思うだろう。でも、私はトイレに行けない。


 トイレが遠くにあるわけではない。多分、歩いて三分もかからずにトイレにたどり着けるだろう。体の自由を奪われているわけではない。手も足も自由に動く。部屋に閉じ込められているわけでもない。この家の扉は全部開いていて外にだって行ける。


 私を縛っているのは心理的なもの。この家の主がアプリのメッセージ機能でかけた言葉の呪いだ。


『部屋から出ないって約束してくれると嬉しいな。みーちゃんなら約束してくれるよね?』


 彼はメッセージで『十八時半ごろ帰る』と言っていた。今は十八時二十五分。後五分我慢すればトイレに行ける。だが、そこまで我慢できるか、わからない。


「ダメ…… おもらししちゃダメ」


 私は虚空に向かって呟く。おもらしは絶対にダメなのだ。彼の家を汚してしまったら、きっと怒って捨てられてしまう。そうなったら生きていけない。だから私は命をかけて我慢する。彼を怒らせないように、捨てられないように。



『うん、じゃあ明日の十九時、直接会おうね』


「はい、そうしてもらえると嬉しいです…… でも、会ったら、私に失望しちゃうかも」


『大丈夫だよ。みーちゃんがどんな子でも俺は気にしないから。じゃ、後で待ち合わせ場所の住所送るね』


「はい、お願いします。じゃあ、今日はこれで」


『うん。おやすみ、みーちゃん』


 別れのあいさつと同時にスマホを耳から離し、通話終了ボタンを押す。彼はこちらが切るまで絶対に通話を切らないとっても優しい人なのだ。まだ会ったことはないけど。


 私は今、「性癖マッチングアプリ」という、性癖でマッチングしてくれるマッチングアプリで彼と通話をしていた。性癖に重きが置かれるこのアプリでは顔写真の公開は必須ではない。このアプリなら自称顔面偏差値四十五陰キャオタクの私でも気兼ねなくマッチングできる。まさに神アプリだ。


 ちなみに私の性癖は『イケメンに飼育されたい』だ。比喩的な意味はなく、本当に飼育されたいのだ。「それは性癖?」と聞かれると微妙だが、データが保存できたのだからアプリ的には性癖なのだろう。


 アプリを使い始めてから一ヶ月、最初は苦労したが、やっとイケメンと直接会うまでこぎつけた。今やり取りしている人は"飼育員"さんはベンチャー企業の社長をしているらしい。どんなにキモいメッセージを送っても丁寧に返してくれるし、私が『テキストでのやり取りが苦手』と伝えたら電話でのやり取りに切り替えてくれた。とにかく超いい人なのだ。私はそんな人と明日会う。なんか夢みたいだ。


 ピロン


 あ、彼からのメッセージだ。そういえば待ち合わせ場所の住所を送ってくれるって言っていたな。送られてきた住所はうちの近くの高級店だった。すごく高いビルの上にあるやつで、ドラマの撮影で使われたと聞いたことがある。こんな高級店で初デートなんて。どうしよう少し早めに言ったほうがいいかな? 逆にちょっと遅れて行ったほうがいいのかな? というか何を着ていけばいいのかな? そもそも私入店できるのかな? 私だけ入店拒否とかされないかな? 出てきた料理ちゃんと食べられるかな? 費用割り勘かな?


(あ〜、もうダメ…… ネガティブが止まんないよぉ)


 その日、私は持病のマイナス思考のせいで一睡もできなかった。ホント、悪い妄想やめたい。



 「あの、ごめんなさい…… 遅刻して」


 翌日、私は遅刻した。結局お日様が昇るまで眠れなくて、起きたときには朝日は夕日に変わっていた。急いで準備をしたが、慣れないメイクに手間取って、待ち合わせ時間に家を出てしまった。多分、汗でメイクが落ちているだろう私を見ても彼はニコッと優しい笑みを浮かべてくれた。


「大丈夫だよ。俺もさっき来たとこ」


 絶対嘘だ。時刻は十九時十五分。待ち合わせの時間は十五分も過ぎている。さっき来たところなら彼も遅刻したことになる。


「いや、本当にすみません。なにかおごりますから」


 私は財布を取り出す。大体の人はこうやって何か買っておけば許してくれる。高校時代からの私の処世術だ。何かおごれるものを探していると、頭にポンと手が置かれた。


「そんなことしなくていいよ。言ったじゃん、『みーちゃんがどんな子でも俺は気にしない』って」


 彼の神対応に私の顔はトロットロになる。やばい。こんな顔を見られちゃ嫌われる。でも、こんなに優しくされたの初めてだ。


「じゃ、行こっか。今日は俺のおごりだから好きなだけ食べていってね」


 予想外の言葉にビクッとする。えっ? こういうのって身分が低いほうが前払いじゃないの? よくて割り勘じゃない?


「そんなの悪いですよ。そこはちゃんと私が払います。ちょうど財布も出してるので」


「フフッ、いいよ。初デートだし、俺にかっこつけさせてよ」


 そう言って彼はまた私の頭に手を置いた。その仕草がまたかっこいい。もうカッコつける必要なんてないじゃん。さらさらの白髪も、ちょっとエッチな感じの流し目も、チャイナ風の刺繍が入った黒シャツも、クロップドパンツも、全部がかっこいいんだから。


「ねえ、かっこつけさせてもらっていいかな?」


 かっこよさでマヒしていた私の眼の前に彼の顔が現れた。やめて! そんなに近くで美しいものを見せないで! 目が…… 目が潰れるから! そう思ったけど、そんなクレイジーな気持ちはグッと押さえて、普通の対応をする。


「あ、えっと、じゃあ、お願いします」


「うん。素直でよろしい」


 そういって彼は三度私の頭に手を置いた。スキあらば頭をなでてくれるな。なで方がプロ級でめちゃくちゃ気持ちよくてクセになりそうだから無限に享受できるけど。


 「じゃ、行こっか」といって彼は私に手を差し出した。え? これ、何? 手、繋いでもいいの? は? イケメンと手? そういうのって選ばれし者しかできないんじゃないの? 私の思考と体は完全にフリーズした。フリーズした私に焦れた彼はガッと私の手を掴んで、入口へと引っ張って行った。ふわぁ、イケメンに手を繋がれて連行されてるぅ。私は幸せに包まれたまま、私はレストランに入った。


 後で私にあんなことが起こるなんて、このときはわからなかった。



 「そっか、みーちゃん今お休み中なんだ」


「いやお休みっていうか、私なんか働かないほうがいいかなって」


 人生初の高級ワインにビビりながら、私は「飼育員」さんこと、上飼手かみかいて いくさんに自分の経歴を話した。


 私は無職だ。三ヶ月前、ちょっとしたイジりに耐えきれず三年働いた会社を辞めた。それ以降、働くのが怖くなって再就職にも踏み出せず、毎日ベッドの上で時間が過ぎるのを待っていた。


 そんな日々の中で見ていたペット動画で「私をペットにしてくれる人を探せばいいんだ」と気づき、私を飼ってくれそうな人をいろんな手段で探した。そして今、運命の人を見つけたわけだ。


「そっか、じゃあ今はご家族と一緒に住んでるの?」


「えぇ、母と二人で暮らしてます。まあ、でも部屋から出てないし、ご飯は自分で買って食べてるので、母が私を認識してるかはわかりませんが」


 お母さんは私のことが嫌いだ。私が何をしても文句しか言ってこないし、大変なときは助けるどころか足を引っ張ろうとするし、今も家賃と称して私の口座から勝手にお金を取っている。きっと私にいなくなってほしいんだろうな。


「でもさ、お仕事せずに、ご飯は自分でだとキツくない?」


「えへへ、そうなんですよー。多分来月には貯金が尽きるので、私、もう、ダメかもしれませんね」


 私はハハハと笑った。実際は「ダメかも」ではない。誰も助けてくれず、働けない現状では、私はもうダメなのだ。嫌な現実を思い出してしまった私の心にはどんよりした暗雲が立ち込めた。もう、ゲリラ豪雨だってこんなに一気に曇らないのに……


「ふーん。じゃあ、今日みーちゃんがお家に帰らなくても心配する人は誰もいないんだ」


 心も顔も曇り空の私と違って、上飼手さんはキラキラ笑顔だ。話題が話題だけ笑顔なのがにちょっと怖いけどやっぱり魅力的な笑顔なので、私はすこしの疑いもなく彼の問いに答えてしまう。


「はい、まあ、今日だけじゃなく、ずっといなくなっても誰も気にしないと思いますよ」


 自分で言って泣けてくる。いきなり家を出ていったお父さんがいれば、少しは違ったかもしれない。 でも、お父さんが私に優しくするとなぜかお母さんの機嫌は悪くなる。だから、傷心の私にお父さんが話しかけでもしたら、お母さんは烈火のごとく怒り、私を家から追い出しただろう。生きている祖父母も昔の友達もみんなウジウジした私を見てイライラしていた。だから、実家以外に頼れる場所もない。きっと私は、いないほうがいいんだ。そう結論付けた瞬間、急ににすごく悲しくなってきた。その悲しさを紛らわすために私は手に持っていたワイングラスのワインを一気飲みした。


「みーちゃん? どうしたの?」


 上飼手さんが心配そうにこちらを見つめる。その対応自体は嬉しかったが、同時に申し訳なさも感じた。優しくされて嬉しい気持ち、心配させちゃって申し訳ない気持ち、これからお母さんがいる家に帰らなきゃならない気持ち、将来が不安な気持ち、お酒一気飲みして吐きそうな気持ち、いろんな気持ちがゴチャッと混ざってどうしていいかわからない。少しでも楽になりたい。そう思って、胸につかえていた気持ちを上飼手さんに吐き出した。


「グスッ、なんでもないです。ただちょっと、なんで私、生まれたんだろってぇ」


 感情がゴチャついたせいか私は泣き出しそうになっていた。そんな私を神回手さんはジッと見つめていた。


「…… みーちゃんさ。今日うちに泊まらない?」


「ほぇ?」


 間抜けな返事をしてしまった。だが、それも仕方ないだろう。だって私は今、何の脈絡もなくイケメンからお泊りの打診をされたのだ。いや、望むところではあったんだけど、実際に言われるとどうしていいかわからないわけで…… パニクる私をおいて、上飼手さんは話し続ける。


「みーちゃんがいいなら、今日だけじゃなくて明日もあさってもずっーと泊まっていいよ。俺、アプリに書いた通りお世話するのが好きだからさ」


 セリフの最後に上飼手さんは微笑んだ。その微笑みで見つめられたら何でも言うことを聞いちゃう。そんな魔力が込められた微笑みだった。でも、私は抵抗しようと決めた。だって、申し訳ないもの。いや、望むところではあったんだけど…… あれ? これ、さっきも言った?


「え、でも、そんなことしたら、上飼手さんに迷惑が…… 」


「迷惑じゃないよ。むしろお世話させてもらえるのが嬉しいくらいだし」


「いや、でも、その、着替えとか」


「あぁ、それなら買ってあげるよ。それに前の彼女が服置いてっちゃったから、パジャマくらいならあるし」


 ダメだ。上飼手さん、全然折れない。それどころかどんどんお泊りする方向に話が進んでる。いいのかな? 家には帰りたくないけど、初対面の人のうちにお泊りなんて。


「ね、いいかな、みーちゃん?」


「えっと、あの…… 」


 一生懸命断る理由を考える。でも、何もでてこなかった。


「…… はい」


 最終的に私は上飼手さんの誘いを承諾した。正直、上飼手さんを信用できるかというと微妙だ。いくらマッチングアプリでやり取りしていたとはいえ今日会ったばかりの人を家に正体なんて怪しすぎる。お世話好きだとしても普通私みたいな女を家に連れて帰りたいと思うだろうか? もしかしたら上飼手さんは家であやしいビデオを取っているのかもしれない。…… いや、私が誘われた時点でそれはないか。会ったとしても人身売買とかかな? 上飼手さんの家にいったら最後、もう帰れないかもしれない。


 でも、そんな不安があっても、私はゴミを見るような視線をぶつけてくるお母さんの元には帰りたくない。家に帰るくらいなら、たとえ命の危険があってもこっちのほうがはるかにマシだ。お母さんとの関係に疲れていた私は心からそう思った。


「ありがとう。じゃあ食べ終わったら早速行こっか。うち、この近くなんだ」


 上飼手さんの微笑みは相変わらず魅力的だ。でも、変な想像のせいかそのときの微笑みはなんだか怖かった。やっぱり不安だ。これから私は何されちゃうんだろう。めちゃくちゃにされちゃうのかな? まあ、もう希望もないし、どうなってもいいか。そう思いながら、私は運ばれてきた料理を食べた。


(うわっ、このエビチリ、めちゃくちゃおいしい)



 「はい、ここがみーちゃんのお部屋だよ」


 上飼手さんが案内してくれた部屋はすごくキレイだった。きちんと整えられたベッド、部屋の真ん中に置かれた丸テーブル、壁際にある小さい冷蔵庫、その横にそびえる大きなクローゼット、そして可愛い観葉植物が置かれた南国風のお部屋だ。


 窓ははめ殺しで高い位置にしかないので、空気の入れ替えには難儀しそうだが、そんなこと気にならないくらい素敵なお部屋だ。


「え、ここが私の部屋?」


「うん、食べ物や飲み物は冷蔵庫に入ってるから好きなように飲み食いして。パジャマはクローゼットに入ってるのを使ってね。サイズが合わなかったら今度一緒に買いに行こう」


 至れり尽くせりとはこのことだ。こうなって来ると気になるのが家賃だ。今、私の自由に使えるお金は財布の中の一万円と小銭のみ。これで一泊できるだろうか。


「あの、こんなに至れり尽くせりだと、やっぱりお家賃けっこうしますよね?」


「ううん、ずっとタダでいいよ。だって、俺がしたいことさせてもらってるんだもん。むしろ、みーちゃんにお金を払いたいくらいだよ」


「えっ! タダでいいんですか?!」


 夢でも見ているのだろうか? 確かに「お世話させて」とは言われていたし、私もそういう都合のいい男性を探していたけど……


「じゃあ俺はもう寝るから、みーちゃんも早く寝なよ。じゃ、おやすみー」


 上飼手さんは手をひらひら振りながら部屋を出ていってしまった。私はさっき言われたとおりにクローゼットに入っていたパジャマを着て、電気を消し、ベッドに入った。


(ベッドふかふか。大丈夫これ? 寝てる間にベッドに沈んじゃわない? )


 慣れない環境とベッドが柔らかすぎるせいで目が冴えた。というか辞職してからずっと目が冴えなかった日がない。ベッドの上を無意味にゴロゴロしたり、天井を凝視したりしたけどやっぱり眠れない。しばらくスマホでゲームをしていたが、それでも眠れない。その日私は新聞屋さんのバイクの音が聞こえても、朝日が窓から差し込んでも全く眠ることができなかった。


(ヤバ、朝になっちゃった。全然寝てない…… )


 別に予定はないので眠る必要はない。だが、夜眠れていないとなんというか人間としてダメって言われている気がして、つらい。私はスマホを放り投げて、頭からかけ布団をかぶった。そしてギュッと目を閉じ、眠気が来るのを待った。


(お願い、早く意識落ちてぇ。じゃないと…… )


 じゃないと上飼手さんに捨てられる。何となくそう思ったので、私は頑張って眠ろうとした。その努力が功を奏したのか、私の意識は次第に薄れ、数分後には完璧に眠りに落ちることができた。



 柔らかベッドの上で目が覚めた。体は重く、思い通りに動いてくれない。目だけをキョロキョロ動かして、周りを見る。目に映るのは床にものが散乱し、カーテンが締め切られた暗くて汚い自室、ではなかった。


(あれ? ここどこ? )


 寝ぼけた頭で考える。でも、頭がすごく痛くて回らない。なんで頭が痛いのかそれすらもわからなかった。


(とりあえず、今何時? )


 手探りでスマホを探して、電源を入れる。時刻は十五時三十分。真っ当な人間ならとっくに起きて活動を始めている時間だ。その事実が胸にグサリと刺さったが、それよりも気になることがあった。スマホにメッセージ通知が届いていたのだ。


(通知が来てるのは『性癖マッチングアプリ』? あ、もしかして上飼手さん? )


 そうだ。だんだん思い出してきた。私は『性癖マッチングアプリ』で知り合った上飼手さんの家にお呼ばれされ、部屋に泊めてもらったんだった。家賃ゼロですっごくいいお部屋に泊めてもらって、上飼手さんこそこの世の神だと思ったのだ。


 じゃあ、このメッセージはなんだろう? もしかして「今すぐ出ていけ」みたいなメッセージかな? その可能性は充分にある。だって、あまりにも話しがうますぎたもの。私は恐る恐るアプリを開き、メッセージを見た。メッセージの内容は私が想定していたものとは全く違っていた。


『おはよう、みーちゃん。起こそうとしたんだけどよく寝てたから、そのままにしちゃった。俺は仕事だから行くね。夕方の六時半くらいには帰るよ』


 上飼手さんはちゃんとお仕事に行ったみたいだ。「出ていけ」って内容じゃなかったのにはほっとしたけど、働きもせず昼まで寝ていたのは罪悪感だ。


(あれ? メッセージまだ続いてる。なんだろ? )


 よく見ると後にもメッセージが続いていた。けっこう長いメッセージだ。スマホをスワイプしてとりあえずメッセージの全体を画面に収めてから読み始めた。


『そうだ、みーちゃんに一つだけお願い。俺が家にいないときはその部屋から出ないでね。俺、社長だから家には見られたくない資料がいっぱいあるんだ。みーちゃんを疑うわけじゃないけど、部屋から出ないって約束してくれると嬉しいな。みーちゃんなら約束してくれるよね?』


 そういえばベンチャー企業の社長って言ってたっけ。だったらきっと見られたくない情報の一つや二つお家にあるだろう。そういうことなら、私は絶対に部屋を出ない。というか出る気もない。引きこもりは私が最も得意分野なのだから。


 ブルッ


(…… なんか、めっちゃオシッコしたいな)


 突然の尿意に私の体が震えた。考えてみれば当然だ。私は昨夜慣れないお酒を飲んで、そのアルコールを排出しないまま、昼までずっと寝ていた。そうすればオシッコくらいしたくなるだろう。いくら私が引きこもりの天才とはいえ、人間である以上たまにはトイレに行く。これはもう仕方ないのだ。


 私はトイレに行くためにベッドから降りた。両足が地面につくと同時にお腹にズシッと重さを感じる。それを抱え込むように私は前かがみになり、お腹に両手を回した。どうやら私のお腹には想像以上にいっぱいオシッコがたまっているようだ。私は重くなった体を引きずって部屋のドアを目指した。そして、ドアノブに手を掛けたとき、ふとさっきのメッセージを思い出した。


(あ、そっか。部屋を出ちゃいけないんだっけ)


 ドアノブから手を離し、ドアと距離を取る。危ない危ない。尿意に思考を支配されてうっかり上飼手さんとの約束を破るところだった。とりあえず私は安息の地であるベッドに腰掛けた。


(…… これ、トイレってどうすればいいんだろ?)


 天井を見上げながら考える。今、私のお腹にはオシッコがたまっている。すぐにでもトイレに行きたい。でも、部屋から出ることは禁じられている。この部屋にトイレはない。冷蔵庫の中には飲み物の容器があるかもしれないが、きっと中身が入っている。その中身を飲み干すことは今の私には不可能だ。ということは……


(もしかして私、上飼手さんが帰ってくるまでオシッコできない? )


 状況を整理した私の全身から血の気がサーッとひいた。さっきスマホで見た時間は十五時三十分。上飼手さんが帰って来るといった時間は夕方六時半ごろだから、十八時三十分ごろ。つまり、私はこの爆発しそうなお腹のまま、三時間もオシッコを我慢しなければならないのだ。


 誰もいないのだからこっそりトイレに行けばいいかもしれないが、バレたときが怖い。なにより世話を焼いてもらっっている身分で約束を破るのは申し訳なさすぎる。だったら、私の取れる選択肢は一つ。上飼手さんが帰ってくるまで、体の中にオシッコを留めておくことだ。


(大丈夫、なはず。お母さんが家にいたときとか、昼から夜までずっと我慢したこともあるし)


 頭の中で自分が一番トイレを我慢した思い出を引っ張り出して、自分を鼓舞する。


 でも、今回は前日から飲まず食わずで排泄の必要が殆どなかったあのときとは違う。前日に利尿作用のあるアルコールをしこたま飲み、酔いを冷ますために大量の水分も補給した。きっと私の体はこれからどんどんオシッコを生成するだろう。そしてオシッコは私のお腹にどんどんたまっていく。この状況で三時間もオシッコを我慢できるかと言われると「ムリ」が正直な感想だ。


 それでも私は絶対に我慢しなければならない。そうしないと上飼手さんに捨てられてしまう。私はベッドの上に正座して、少しうつむき、両手を脚の間に差し込んだ。経験上、これが一番オシッコを我慢できる体勢、パーフェクト・ガード・フォーメーションだ。これ以上のものは私の中にはない。後は気合いだ。私は歯を食いしばり、体から発せされる「オシッコしたい!」の欲求を抑え込む。


(ダメ、絶対…… 約束破っちゃダメだし、オシッコもらしてもダメ…… 絶対、上飼手さんが帰ってくるまで、我慢する)


 バッチリ覚悟を決めて、私は尿意との戦いに赴いた。



 あれから三時間、私はベッドの上に正座してオシッコを我慢し続けていた。最初はスマホをいじってゲームをしたり、時間を確認したりしていたが、もうそんなことはできない。スマホをいじるには最低でも片手を使わなければならない。しかし、片手を離せば確実におもらしをしてしまう。私の尿意はそこまで切迫していた。


「フッ…… ハァ…… オシッコ…… まだぁ」


 よくわからない独り言が口から漏れ出す。はたから見ればキモい奴だ。こうでもしていないと意識がオシッコに集中して、つらい。おもらししないためにはこうやってブツブツ喋っていないとダメなのだ。


 ちらりとベッドの枕元においてあった目覚まし時計を見た。今は十八時二十五分。だから、後五分、オシッコを我慢すればトイレに行ける。でも、そんなに我慢できるか正直わからなかった。


「ダメ…… おもらししちゃダメ」


 私は虚空に向かって呟く。放った言葉はどこかへ消える。あぁ、こんな風にオシッコもどこかへ消えてくれたら。この三時間、何度も考えた思考がまた頭をよぎった。でも、オシッコは消えてくれない。逆にどんどん勢力を増して、私のお腹を圧迫してくる。


(もう、ムリ…… 今なら行っちゃっていいかな? でも、もし鉢合わせたら)


 トイレへと続く扉を睨む。あそこから外へ出れば、すぐにこの苦しみから解放される。でも、それは上飼手さんとの約束を破ることにつながる。約束を破らずトイレに行くには後五分、尿意をこらえるしかないのだ。


「ふぇ、あっ、はっ…… ふぅ」


 自分の一挙手一投足に意識を払う。体のモジモジも、手の差し込み方も、息の仕方も、一つ間違えればダムの決壊につながる。失敗ばかりで嫌われ者の私だけど、ここで失敗するわけにはいかない。おもらしして上飼手さんの家を汚すなど絶対にダメだ。


ピロン


 いきなり私のスマホの通知音が鳴った。ビクッとして少しだけ下着を濡らしてしまう。私は失敗がこれ以上広がらないように全身に力を込める。


ショワワワワ


 オシッコが少し出たことで体は完全に排泄モードに入ってしまい、私の意思とは関係なく結構な量のオシッコが下着を汚した。だが、私の必死の訴えが通じたのか、オシッコは下着に五百円玉くらいのシミを作ったところで止まってくれた。


(あぁ、よかった…… 全部出ちゃうかと思った。うぅ、下着濡れて気持ち悪い…… というか誰? 私にメッセなんて)


 自分を驚かせたスマホにソロリと左手を伸ばす。下着にオシッコを染み込ませたおかげで片手を離しても大丈夫なくらいの余裕はできた。が、それでも状況は切迫している。もし、届いているメッセージがくだらない内容だったら、相手に思いつくかぎりの罵詈雑言を浴びせてやろうと決めてスマホを手に取る。メッセージ通知は『性癖マッチングアプリ』のものだった。


(うえっ?! マチアプってことは上飼手さんから? なんだろ? あっ! もうすぐ帰るからおみやげ何がいい、とかかな? うん、きっとそうだ!)


 尿意で麻痺した私の思考回路は自分に都合のいい妄想を作り出す。でも、それが妄想だなんて私は全く気づかない。上飼手さんはもうすぐ帰って来る。そして、私はトイレでちゃんとオシッコができる。そうやって都合よく考えていないと尿意に屈しそうだった。私は妄想を現実と勘違いしたまま、うきうき気分でメッセージを確認した。


『今日中に対処しなきゃいけないトラブルが発生したから帰るのが七時になっちゃいそう。またせてゴメンね。お土産買っていくから許して〜』


 メッセージの内容は私の妄想とは真逆。戦いの終焉ではなく、延長を告げるものだった。


(えっ…… ウソ、もう限界なのに、後三十分も? だって、私もうパンツぐしょぐしょなんだよ? これ以上は…… ムリだよ)


 そういえばなぜ私はメッセージで「おトイレってどうすればいいですか?」と聞かなかったのだろう? とっても単純な話だ。でも、できなかった。今まで会った人達は質問すれば「自分でなんとかすれば?」と言ってきたので、"質問イコール悪"の方程式が私の中に出来上がっていた。上飼手さんならきっと優しく答えてくれただろうけど、もうそんなことどうでもいい。


 さっきから勝手にオシッコの出口がヒクヒクと痙攣している。体は全く動かない。この体勢を崩せばおもらししてしまうことが直感でわかった。仮に今すぐ上飼手さんから「おトイレ行くだけなら部屋から出ていいよ」と許可をもらっても、多分部屋の扉にすらたどり着けない。私はもう精神的にも肉体的にも完全に限界だった。


(…… もういいや)


 瞬間、私は我慢を諦め、自らオシッコの出口を開放した。


ジョボボボボボボボボボボボボボボボ


 借りていたパジャマが股からお尻にかけて色を変え、脚の間に挟んでいた右手はビッショリと濡れ、昨日から一番長い時間を過ごしたふわふわベッドには恥ずかしいシミが描かれる。でも、それらすべての事象が私にはどうでもよかった。


(はぁ〜、めっちゃ気持ちいい)


 さっきまで尿意に支配されていた思考は今度は快楽に支配されていた。もう気持ちいい以外のことは考えられない。借り物を汚しているとか、本気を出せば後三十分くらい我慢できたかもとか、そんなことは一切考えられない。ただただ、オシッコが尿道を通って外へ出ていくのが気持ちよくって、もうとろけてしまいそうだった。


 ジョボボボボボボボボボ


 ずっとためこんだオシッコは全然止まってくれない。ふと、お腹に手をやるとシュウウと穴が空いた風船みたいにしぼんでいるのを感じた。それがなんだか面白くて、私は左手をお腹に当てた後、わざとお腹に力を入れた。


(うわっ、お腹、すごい勢いでしぼんでく。これ、全部オシッコだったんだ。ふふっ、すごっ。私、こんなにオシッコためられたんだ)


 気持ちよさと楽しさでどんどん行動がおかしくなる。今からでもおもらしを止めようという気持ちは微塵も湧き上がってこなかった。


ショロロロロ……


 けっこう長い時間をかけて、私のおもらしは終わった。ハァハァと息を荒げながら周りを見る。足元には大きな黒いシミ。ふわふわベッドのシーツは私のおしっこをいっぱい吸って、もう見る影もない。パジャマはぺたん座りしていたのもあって、下はもう再起不能なくらいぐしょぐしょだ。あまりにひどい状況を目の当たりにして、さすがの私も顔を歪めた。


(あーあ、これ、追い出されちゃうよなぁ)


 いきなり気分が暗くなる。さっきまではあんなに楽しくて、気持ちよかったのに。しかし、現実的に考えて、もう上飼手さんの家にはいられない。とりあえず上飼手さんが帰ってきたら謝って、もっているお金を全額渡して出ていこう。


(これからどうしよう…… 家には帰りたくないし。かといって他にあてもないし…… うーん)


 びしょ濡れパジャマのままで今後のことを考える。だが、尿意との戦いで疲弊した体と頭ではいい考えなど思いつかくはずもなかった。それどころか、考えているうちに私の意識は遠のき、強烈な眠気を感じてきた。


(うぐっ…… めっちゃ眠い…… あー、これでベッドで寝るの最後かもだし、一旦寝かせてもらおう)


 自暴自棄になっていた私はオシッコで汚れたベッドの上で横になり、目を閉じた。疲れていたからか昨日の夜とは違って、すぐに眠りに落ちることができた。



「みーちゃん、起きて。みーちゃん」


 体がゆさゆさと揺すられる。まだ眠ってからそんなに時間が経っていない私を起こすとは。一体どこの不届き者だろう? 私は体を揺すってくる手をはねのけた後で、起こしに来た奴の顔を睨みつけた。


「や、おはよ。みーちゃん」


 睨みつけた先には上飼手さんがいた。


「ヒッ…… 上飼手さん」


「ただいま。ゴメンね、遅くなって。でも、ケーキ買ってきたから許してね」


 上飼手さんはニコッと笑う。私は全く笑えなかった。寝ぼけて忘れていたが、私はベッドの上で盛大にオシッコを漏らしてしまい、今までふて寝していた。きっと怒られるに違いない。


「あ、あの…… 上飼手さん、私」


「あ、もしかしてケーキ嫌い? じゃあ、クッキーとかあるけど」


「あの! 違うんです! えっと、その」


「? 違うの? じゃあ何かな?」


「その、ですから」


 ベッドに横たわったまま、モジモジする。上飼手さんは相変わらずニコニコとこちらを見つめてくる。私はなんとなく恥ずかしくて、かかっていた掛け布団で顔を隠した。あれ? 私、掛け布団なんてかけて寝たっけ?


「もしかして、言いにくいことなの? 例えば…… おねしょしちゃったとか」


 上飼手さんがニヤリと笑う。その笑顔を見て私は悟った。多分、上飼手さんは帰ってすぐ、おもらし跡地で眠る私を発見したのだ。そして、なぜか起こす前に掛け布団をかけてから私を起こした。きっとそういうことだろう。


「まあ、なんかお酒飲み慣れてなさそうだったし、こういうこともあるかもって思ってたけどさ」


「えと、そのですね、これはおねしょじゃなくて」


「ん? おねしょじゃないの?」


 しまった。これは言うべきではなかった。おねしょということにしておけば話は終わっただろうに、自分のバカさ加減が恨めしい。とはいえ、出した言葉を戻せない。それに上飼手さんとはこれでバイバイなのだ。最後くらい、誠実でありたい。そう思って、私は本当のことを上飼手さんに伝えた。


「あのですね、これはおねしょではなくて…… えっと、私、お昼に起きて、トイレに行きたかったんですけど、その、上飼手さんが帰ってくるまで部屋から出ちゃダメって…… だから、帰ってくるまで我慢しようとして。六時半までは我慢できたけど、もう限界で、七時まで我慢できなくて、全部ベッドで…… だから、その、ごめんなさい!」


 とりあえず全力で謝った。私のたどたどしい説明をウンウンと相槌をうちながら聞いていた上飼手さんは「そっか」と言って私の頭をなでながら話し始めた。


「正直に言ってくれてありがとう。それに約束もちゃんと守ってくれたんだね。みーちゃん、偉い偉い」


 泣きそうだった。結果だけ見れば私はただおもらしをしただけだ。責められることであっても、褒められることではない。そんな中でも上飼手さんは褒めるべき所を見つけて褒めてくれる。こんなにいい人に会ったのは生まれて初めてかもしれない。しばし、私は幸せな気持ちに浸る。でも、その時間は長くは続かなかった。


「でもさ、メッセージでトイレはどうすればいいかを聞くことはできたよね? それをしないでおもらししたのは許せないかな」


 上飼手さんの雰囲気が変わった。この雰囲気は怒っているのではない。私をいじっていた同僚がよく発していた、人の弱みを見つけて喜んでいるときの雰囲気だ。胃がキュッと締め付けられるような感覚に私は息を呑んだ。怯える私を全く気にせず上飼手さんはなでていた手をどけて、笑顔で続けた。


「許せないことをした子にはおしおきが必要だ。そうだよね、みーちゃん?」


 言葉が出てこなかった。上飼手さんの笑顔がとっても怖かったからだ。でも、なにか答えなければと思い、私はコクリと小さく頷いた。それを見た上飼手さんは満足したのかさらに言葉をつなぐ。


「そうだよね。じゃあ、今度の日曜、おしおきするから。それまでおもらししちゃダメだよ? じゃあ、お風呂に入ろ。びしょびしょで気持ち悪いでしょ? 着替えは昨日みたいにクローゼットから勝手に取っていっていいからさ」


 そういって上飼手さんは部屋の出入口の方に歩いていく。てっきり出ていけとか、体を売れとか言われると思っていた私はちょっぴり驚いて上飼手さんに聞き返してしまった。


「あの…… 今度の日曜におしおきって…… それだけですか? 出てけとか、体で稼いでこいとか言わないんですか?」


「ハハッ! みーちゃんを追い出すなんてありえないよ。体で稼げなんてのも論外、絶対にありえないよ」


 上飼手さんは高らかに笑った。でも、その目は全く楽しそうじゃない。きっと何か裏がある。それくらい、私にもすぐにわかった。それを証明するように上飼手さんは「だって」と言ってセリフを続けた。


「だって、みーちゃんは俺のものだもん。この家から自由に出ることも、他の人のものになることも許さないよ」


 上飼手さんは表情を変えずに私の方を見つめる。私は怖くてなんとなく目線を外してしまう。それでも上飼手さんは話し続ける。


「ね? これから一生一緒だよ。仲良くしようね、みーちゃん」


 頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。どうやら私はこの人に助けてもらったのではなく、ペットとして拾われただけのようだ。彼の言動からすると、私はもう人並みの自由は望めない。もう二度と好きなときに好きな場所に行ってはしゃげないのだ。家にいたときは選ばなかっただけでどこかへ行く選択肢自体はあった。今後はそんなささやかな自由すら認めてもらえない。逃げようにも逃げ場所はない。助けを求める人もいない。警察に駆け込んでも帰る場所がなくなるだけで何も解決しない。正に八方塞がりだ。


「…… ヘヘッ」


 何がおかしいわけではない。人とは絶望したとき笑ってしまうものなのだ。引きつった笑顔の私と邪悪な笑顔の彼の目が合う。


 これが私の軟禁生活の始まりだった。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


お読み頂きありがとうございます!


もしお気に召されましたら、ぜひぜひフォローや☆評価など頂けますとありがたいです<(_ _)>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る