自己肯定感低めの女子が約束を守りきれずおもらしする話
「う…… ううっ」
あまりの苦しさに、ベッドの上でうめき声を上げる。けがをしているわけではない。お腹におしっこがたまっていて苦しいのだ。
お腹に手をやれば固くなっているのがわかる。一リットル以上たまっているかもしれない。ちょっとでも油断すると漏れ出しそうだ。
「だったらトイレに行けば?」と普通の人は思うだろう。でも、私はトイレに行けない。
体の自由を奪われているわけではない。手も足も動く。部屋に閉じ込められているわけでもない。この家の扉は全部開いていて外にだって行ける。
私を縛っているのは心理的なものだ。この家の主がアプリのメッセージ機能でかけた言葉の呪い。
『部屋から出ないって約束してくれると嬉しいな。みーちゃんなら約束してくれるよね?』
彼はその前のメッセージで十八時半ごろ帰って来ると言っていた。今は十八時二十五分。後五分我慢すればトイレに行ける。だが、そこまで我慢できるかわからない。
「ダメ…… おもらししちゃダメ」
私は虚空に向かって呟く。おもらしは絶対にダメなのだ。彼の家を汚してしまったら、きっと怒って捨てられてしまう。そうなったら生きていけない。だから命をかけて我慢する。彼を怒らせないように、捨てられないように。
◆
『うん、じゃあ明日の十九時、直接会おうね』
「はい、そうしてもらえると嬉しいです…… でも、会ったら、わたしに失望しちゃうかも」
『大丈夫だよ。みーちゃんがどんな子でも俺は気にしないから。じゃ、後で待ち合わせ場所の住所送るね』
「はい、お願いします。じゃあ、今日はこれで」
『うん。おやすみ、みーちゃん』
別れの挨拶と同時にスマホを耳から離し、通話終了ボタンを押す。彼はこちらが切るまで絶対に通話を切らない。優しい人なのだ。まだ会ったことはないけど。
私は今、「性癖マッチングアプリ」という、性癖でマッチングしてくれるアプリで彼と通話をしていた。これなら自称顔面偏差値四十五の陰キャなオタクの私でも気兼ねなくマッチングできる。まさに神アプリだ。
ちなみに私の性癖は「イケメンに飼育されたい」だ。比喩的な意味はなく、本当に飼育されたいのだ。「それは性癖?」と聞かれると微妙だが、データが保存できたのだからアプリ的には性癖なのだろう。
アプリを使い始めてから一ヶ月、最初は苦労したが、やっとイケメンと直接会うところまでこぎつけた。今やり取りしている人は"飼育員"さんというハンドルネームで、ベンチャー企業の社長をしているらしい。どんなにキモいメッセージを送っても返してくれるし、私が『テキストでのやり取りが苦手』とメッセージを送ったら『じゃあ通話にしよっか』と電話でのやり取りに切り替えてくれた。超いい人だ。あぁ、明日この人に会えるなんて夢みたい。
ピロン
あ、彼からのメッセージだ。そういえば待ち合わせ場所の住所を送ってくれるって言っていたな。
送られてきた住所はうちの近くの高級店だ。すごく高いビルの上にあるやつで、ドラマの撮影で使われたと聞いたことがある。こんなところで初デートなんて。何を着ていこうか。少し早めに言ったほうがいいかも。明日が楽しみすぎる。その日、私はワクワクしすぎて一睡もできなかった。
◆
「あの、ごめんなさい…… 遅刻して」
「大丈夫だよ。俺もさっき来たとこ」
絶対嘘だ。時刻は十九時十五分。待ち合わせの時間は十五分も過ぎている。さっき来たところなら彼も遅刻したことになる。
「いや、本当にすみません。なにかおごりますから」
私は財布を取り出す。大体の人はこうやってものを買っておけば許してくれる。高校時代からの私の処世術だ。何かおごれるものを探していると、頭にポンと手が置かれた。
「そんなことしなくていいよ。言ったじゃん、『みーちゃんがどんな子でも俺は気にしない』って」
彼の神対応に私の顔はトロットロになる。やばい。こんな顔を見られちゃ嫌われる。でも、こんなに優しくされたの初めてだ。
「じゃ、行こっか。今日は俺のおごりだから好きなだけ食べていってね」
「え、悪いですよ。そこはちゃんと私が。ちょうど財布も出してるので」
「フフッ、いいよ。初デートだし、俺にかっこつけさせてよ」
大丈夫だよ。かっこつけなくても十分かっこいいよ。さらさらの白髪も、ちょっとエッチな感じの流し目も、チャイナ風の刺繍が入った黒シャツも、クロップドパンツも、全部がかっこいいよぉ。
「ねえ、かっこつけさせてもらっていいかな?」
「あ、えっと、じゃあ、お願いします」
「うん。素直でよろしい」
そういって彼はまた私の頭に手を置いた。スキあらば頭をなでてくれる。なで方がプロ級で、めちゃくちゃ気持ちいい。クセになりそう。
「じゃ、行こっか」といって彼は私に手を差し出した。え? これ、何? 繋いでいいの? 手、繋いでもいいの? パニクる私に焦れたのか、彼は私の手を掴み、入口へと引っ張っていく。ふわぁ、イケメンに手を繋がれて連行されてるぅ。
幸せに包まれたまま、私はレストランに入った。後で私にあんなことが起こるなんて、このときはわからなかった。
◆
「そっか、みーちゃん今お休み中なんだ」
「お休みっていうか、私なんか働かないほうがいいかなって」
人生初ワインにビビりながら、私は「飼育員」さんこと、
私は今、無職だ。三ヶ月前、ちょっとしたイジりに耐えきれず三年働いた会社を辞めた。それ以降、働くのが怖くなって再就職にも踏み出せず、毎日ベッドの上で時間が過ぎるのを待っていた。
そんな日々の中で見ていたペット動画で「私をペットにしてくれる人を探せばいいんだ」と気づき、私を飼ってくれそうな人をいろんな手段で探した。そして今、運命の人を見つけたわけだ。
「そっか、じゃあ今はご家族と一緒に住んでるの?」
「えぇ、母と二人で暮らしてます。まあ、でも部屋から出てないし、ご飯は自分で買って食べてるので、母が私を認識してるかはわかりませんが」
うちのお母さんは私のことが嫌いだ。私が何をしても文句しか言ってこないし、大変なときは助けるどころか足を引っ張ろうとする。今も家賃と称して私の口座から勝手にお金を取っている。きっと私にいなくなってほしいんだろう。
「でもさ、お仕事せずに、ご飯は自分でだとキツくない?」
「そうなんですよ、多分来月には貯金が尽きるので、私、もう、ダメかもしれませんね」
ハハハと私は笑う。実際は「かも」ではない。誰も助けてくれず、働けない現状では、私はもう生きていけない。
「ふーん。じゃあ、今日みーちゃんがお家に帰らなくても心配する人は誰もいないんだ」
「はい、まあ、今日だけじゃなく、ずっといなくなっても誰も気にしないと思いますよ」
自分で言って泣けてくる。いきなり家を出ていった父がいれば、違ったかもしれない。 でも、父が私に優しくすると母の機嫌が悪くなるから、結局追い出されちゃうんだろうな。祖父母も友達もみんなウジウジした私を見てイライラしていたから、実家以外に頼れる場所もない。きっと私はいないほうがいいんだ。
急にすごく悲しくなってきて、私は手に持っていたワイングラスのワインを一気飲みした。慣れないアルコールのせいで頭がグワングワンする。
「みーちゃん? どうしたの?」
「グスッ、なんでもないです。ただちょっと、なんで私、生まれたんだろってぇ」
ダメだ。泣いちゃダメだ。上飼手さんを困らせたら、嫌われちゃう。
「…… みーちゃんさ。今日うちに泊まらない?」
「ほぇ?」
アルコールのせいで思考力が低下しているのかな? 情報が処理できない。え、今、お泊りの打診された?
「みーちゃんがいいなら、今日だけじゃなくて明日もあさってもずっーと泊まっていいよ。俺、アプリに書いた通りお世話するのが好きだからさ」
「え、でも、そんなことしたら、上飼手さんに迷惑が」
「迷惑じゃないよ。むしろお世話させてもらえるのが嬉しいくらいだし。ね、お願い、今日うちに来てくれないかな?」
「でも、私、その、着替えとか」
「あぁ、それなら買ってあげるよ。それに前の彼女が服置いてっちゃったから、パジャマくらいならあるし」
なんかお泊りする方向に話が進んでる。いいのかな? 家には帰りたくないけど、初対面の人のうちにお泊りなんて。
「いいかな、みーちゃん?」
「えっと、あの…… はい」
私は上飼手さんの誘いを承諾した。正直、上飼手さんを信用できるかというと微妙だ。でも、ゴミを見るような視線をぶつけてくる母の元には帰りたくない。家に帰るくらいなら、危なくてもこっちのほうがマシだ。
「ありがとう。じゃあ食べ終わったら早速行こっか。うち、この近くなんだ」
「はい」
上飼手さんはニコニコしてこちらを見ている。喜んでくれたみたいでよかった。
でもやっぱり不安だ。これから何されちゃうんだろう。めちゃくちゃにされちゃうのかな? でも、上飼手さんになら、めちゃくちゃにされたいかも。そう思いながら、私は運ばれてきた料理を食べた。
うわっ、このエビチリ、めちゃくちゃおいしい。
◆
「はい、ここがみーちゃんのお部屋だよ」
上飼手さんが案内してくれた部屋はすごくきれいだった。きちんと整えられたベッド、部屋の真ん中に置かれた丸テーブル、壁際にあるちんまりした冷蔵庫、その横にそびえるおっきなクローゼット、そして可愛い観葉植物が置かれた南国風のお部屋だ。
窓ははめ殺しで高い位置にしかないので、空気の入れ替えには難儀しそうだが、そんなこと気にならないくらい素敵なお部屋だ。
「え、ここが私の部屋?」
「うん、食べ物や飲み物は冷蔵庫に入ってるからお昼はそこのものを食べていいよ。パジャマはクローゼットに入ってるのを使ってみて、サイズが合わなかったら今度一緒に買いに行こうね」
至れり尽くせりとはこのことだ。こうなって来ると気になるのが家賃だ。今、私の自由に使えるお金は財布の中の一万円と小銭のみ。これで一泊できるだろうか。
「あの、こんなに至れり尽くせりだと、やっぱりお家賃けっこうしますよね?」
「ううん、ずっとタダでいいよ。だって、俺がしたいことさせてもらってるんだもん。むしろ、みーちゃんにお金を払いたいくらいだよ」
「えっ! タダでいいんですか?!」
夢でも見ているのだろうか? 確かに「お世話させて」とは言われていたし、私もそういう都合のいい男性を探していたけど、まさか実在するなんて。
「じゃあ俺はもう寝るから、みーちゃんも早く寝なよ。じゃ、おやすみー」
上飼手さんは手をひらひら振りながら部屋を出ていってしまった。私はさっき言われたとおりにクローゼットに入っていたパジャマを着て、電気を消し、ベッドに入った。
(ベッドふかふか。大丈夫これ? 寝てる間にベッドに沈んじゃわない? )
いつもと違う環境のせいで目が冴える。というか辞職してから夜ちゃんと眠れた試しがない。柔らかベッドの上を無意味にゴロゴロしたり、天井を凝視したりしたけどやっぱり眠れない。こんなときはと思い、私はスマホでゲームを始めた。普段だってゲームをやっているうちに寝落ちしちゃうし今回もそうなるだろう。そう思い、タプタプと画面をタップして眠気が来るのを待った。でも、その日はなんだか調子が悪くて新聞屋さんのバイクの音が聞こえても、朝日が窓から差し込んでも全く眠ることができなかった。
(ヤバ、朝になっちゃった。全然寝てない…… )
別に予定はないので眠る必要はないのだが、夜眠れていないとなんというか人間としてダメって言われている気がして、つらい。私はスマホを放り投げて、頭からかけ布団をかぶった。そしてギュッと目を閉じ、眠気が来るのを待った。
(お願い、早く意識落ちてぇ。じゃないと…… )
じゃないと上飼手さんに捨てられる。何となくそう思ったので、私は頑張って眠ろうとした。その努力が功を奏したのか、私の意識は次第に薄れ、数分後には完璧に眠りに落ちた。
◆
ふわふわのベッドの上で目が覚めた。体は重く、思い通りに動いてくれない。目だけをキョロキョロ動かして、周りを見る。目に映るのはカーテンが締め切られ、床に脱いだ服が散乱した汚い自室、ではなかった。
(あれ? ここどこ? )
寝ぼけた頭で考える。でも、頭がすごく痛くて回らない。なんで頭が痛いのかそれもわからなかった。
(とりあえず、今何時? )
手探りでスマホを探して、電源を入れる。時刻は十五時三十分。真っ当な人間ならとっくに起きて活動を始めている時間だ。その事実が胸にグサリと刺さったが、それよりも気になることがあった。スマホにメッセージ通知が届いていたのだ。
(通知が来てるのは『性癖マッチングアプリ』? あ、もしかして上飼手さん? )
そうだ。だんだん、思い出してきた。私は『性癖マッチングアプリ』で知り合った上飼手さんの家にお呼ばれされ、部屋に泊めてもらったんだった。家賃ゼロですっごくいいお部屋に泊めてもらって、上飼手さんこそこの世の神だと思っていた。
じゃあ、このメッセージはなんだろう? もしかして「今すぐ出ていけ」みたいなメッセージかな? その可能性は充分にある。だって、あまりにも話しが美味しすぎたもの。私は恐る恐るアプリを開き、メッセージを見た。メッセージの内容は私が想定していたものとは全く違った。
『おはよう、みーちゃん。起こそうとしたんだけどよく寝てたから、そのままにしちゃった。俺は仕事だから行くね。夕方の六時半くらいには帰るよ』
上飼手さんはちゃんとお仕事に行ったみたいだ。「出ていけ」って内容じゃなかったのにはほっとしたけど、働きもせず昼まで寝ていた私はちょっとだけ罪悪感を感じた。
(あれ? メッセージまだ続いてる。なんだろ? )
よく見るとさっきのメッセージの後にもメッセージが続いていた。けっこう長い。私はスマホをスワイプしてとりあえずメッセージの全体を画面に収めてから読み始めた。
『そうだ、みーちゃんに一個だけお願い。俺が家にいないときはその部屋から出ないでほしいんだ。俺、社長だから家には見られたくない資料がいっぱいあるんだ。みーちゃんを疑うわけじゃないけど、部屋から出ないって約束してくれると嬉しいな。みーちゃんなら約束してくれるよね?』
そういえばアプリでベンチャー企業の社長って言ってたっけ。だったらきっと見られたくない情報の一つや二つお家にあるだろう。そういうことなら、私は絶対に部屋を出ない。というか出る気もない。引きこもりは私が最も得意分野なのだから。
ブルッ
(…… なんか、めっちゃおしっこしたい)
突然の尿意に私の体が震えた。考えてみれば当然だ。私は昨夜慣れないお酒を飲んで、そのアルコールを排出しないまま、昼までずっと寝ていた。そうすればおしっこくらいしたくなるだろう。
私がいくら引きこもりの天才とはいえ、人間である以上たまにはトイレに行く。私はトイレに行くためにベッドから降りた。両足が地面につくと同時にお腹にズシッと重さを感じた。それを抱え込むように私は前かがみになり、お腹に両手を回す。どうやら私のお腹には想像以上にいっぱいおしっこがたまっているようだ。私は重くなった体を引きずって部屋のドアを目指した。そして、ドアノブに手を掛けたとき、ふとさっきのメッセージを思い出した。
(あ、そっか。部屋を出ちゃいけないんだっけ)
ドアノブから手を離し、ドアと距離を取る。危ない危ない。尿意に思考を支配されてうっかり上飼手さんとの約束を破るところだった。とりあえず私は安息の地であるベッドに腰掛けた。
(これ、トイレってどうすればいいんだろ?)
天井を見上げながら考える。今、私のお腹にはおしっこがたまっている。すぐにでもトイレに行きたい。でも、部屋から出ることは禁じられている。この部屋にトイレはない。冷蔵庫の中には飲み物の容器があるかもしれないが、きっと中身が入っている。その中身を飲み干すことは、今の私には不可能だ。ということは……
(もしかして私、上飼手さんが帰ってくるまでおしっこできない? )
状況を整理するとそういうことになる。さっきスマホで見た時間は十五時三十分。上飼手さんが帰って来るといった時間は夕方六時半ごろだから、十八時三十分ごろ。つまり、私はこの爆発しそうなお腹のまま、おしっこを後三時間もおしっこを我慢しなければならないのだ。
誰もいないのだからこっそりトイレに行けばいいかもしれないが、バレたときが怖いし、なにより世話を焼いてもらった分際で約束を破るのは申し訳なさすぎる。だったら、私の取れる選択肢は一つ。上飼手さんが帰ってくるまで、体の中におしっこを留めておくことだ。
(大丈夫、なはず。お母さんが家にいたときとか、昼から夜までずっと我慢したこともあるし)
頭の中で自分が一番トイレを我慢した思い出を引っ張り出して、自分を鼓舞する。
でも、今回は前日から飲まず食わずで排泄の必要が殆どなかったあのとき違う。前日に利尿作用のあるアルコールをしこたま飲み、酔いを冷ますために大量の水分も補給した。きっと私の体はこれからどんどんおしっこを生成するだろう。そしてそれが私のお腹にどんどんたまっていく。この状況で三時間もおしっこを我慢できるかと言われると「ムリ」が正直な感想だ。
それでも私は絶対に我慢しなければならない。そうしないと上飼手さんに捨てられてしまう。私はベッドの上に正座して、少しうつむき、両手を脚の間に差し込んだ。経験上、これが一番おしっこを我慢できる体勢だ。これ以上のものはない。後は気合いだ。私は歯を食いしばり、体から発せされる「おしっこしたい!」の欲求を抑え込む。
(ダメ、絶対…… 約束破っちゃダメだし、おしっこもらしてもダメ…… 絶対、上飼手さんが帰ってくるまで、我慢する)
バッチリ覚悟を決めて、私は尿意との戦いに赴いた。
◆
あれから三時間、私はベッドの上に正座しておしっこを我慢し続けていた。最初はスマホをいじってゲームをしたり、時間を確認したりしていたが、もうそんなことはできない。スマホをいじるには最低でも片手を使わなければならない。しかし、片手を離せば確実におもらしをしてしまう。私の尿意はそこまで切迫していた。
「フッ…… ハァ…… おしっこ…… まだぁ」
よくわからない独り言が口から漏れ出す。はたから見ればキモい奴だ。こうでもしていないと意識がおしっこに集中して、つらい。おもらししないためにはこうやってブツブツ喋っていないとダメなのだ。
ちらりとベッドの枕元においてあった目覚ましを見る。今は十八時二十五分。だから、後五分、おしっこを我慢すればトイレに行ける。でも、そんなに我慢できるか正直わからなかった。
「ダメ…… おもらししちゃダメ」
私は虚空に向かって呟く。放った言葉はどこかへ消える。あぁ、こんな風におしっこもどこかへ消えてくれたら。この三時間、何度も考えた思考がまた頭をよぎった。でも、おしっこは消えてくれない。逆にどんどん勢力を増して、私のお腹を圧迫してくる。
(もう、ムリ…… 今なら行っちゃっていいかな? でも、もし鉢合わせたら)
トイレへと続く扉を睨む。あそこから外へ出れば、この苦しみから解放される。でも、それは上飼手さんとの約束を破ることにつながる。約束を破らずトイレに行くには後五分、尿意をこらえるしかないのだ。
「ふぇ、あっ、はっ…… ふぅ」
自分の一挙手一投足に意識を払う。体のモジモジも、手の差し込み方も、息の仕方すら、一つ間違えればダムの決壊につながる。失敗ばかりで嫌われ者の私だけど、ここで失敗するわけにはいかない。おもらしして上飼手さんの家を汚すなど絶対にダメだ。
ピロン
いきなり私のスマホの通知音が鳴った。ビクッとして少しだけ下着を濡らしてしまう。私は「あっ! あっ!」といって、失敗がこれ以上広がらないように全身に力を込める。少しだけおしっこが出たことで体は完全に排泄モードに入ってしまい、私の意思とは関係なくジョーと長めにおしっこが下着を汚す。だが、私の必死の訴えが通じたのか、おしっこを下着に五百円玉くらいのシミを作ったところで止まってくれた。
(あぁ、よかった…… 出ちゃうかと思った。うぅ、下着濡れて気持ち悪い…… というか誰? 私にメッセなんて)
自分を驚かせたスマホにソロリと左手を伸ばす。おしっこを下着に染み込ませたおかげで片手を離しても大丈夫なくらいの余裕はできた。が、それでも状況は切迫している。もし、届いているメッセージがくだらない内容だったら、相手に思いつくかぎりの罵詈雑言を浴びせてやろうと決めてスマホを手に取る。メッセージ通知は『性癖マッチングアプリ』のものだった。
(うえっ?! マチアプってことは上飼手さんから? なんだろ? あっ! もうすぐ帰るからおみやげ何がいい、とかかな? うん、きっとそうだ!)
尿意で麻痺した私の思考回路は自分に都合のいい妄想を作り出す。でも、それが妄想だなんて私は全く気づかない。上飼手さんはもうすぐ帰って来る。そして、私はトイレでちゃんとおしっこができる。そうやって都合よく考えていないと尿意に屈しそうだった。私は妄想を現実と勘違いしたまま、うきうき気分でメッセージを確認した。
『今日中に対処しなきゃいけないトラブルが発生したから帰るのが七時になっちゃいそう。またせてゴメンね。お土産買っていくから許して〜』
メッセージの内容は私の妄想とは真逆。戦いの終焉ではなく、延長を告げるものだった。
(えっ…… ウソ、もう限界なのに、後三十分も? だって、私もうパンツぐしょぐしょなんだよ? これ以上は…… ムリだよ)
そういえばなぜ私はメッセージで「おトイレってどうすればいいですか?」と聞かなかったのだろう? とっても単純な話だ。でも、できなかった。今まで会った人達は質問すれば「自分でなんとかすれば?」と言ってきたので、"質問イコール悪"の方程式が私の中に出来上がっていた。上飼手さんならきっと優しく答えてくれただろうけど、もうそんなことどうでもいい。
さっきから勝手におしっこの出口がヒクヒクと痙攣している。体は全く動かない。この体勢を崩せばおもらししてしまうことが私には直感でわかった。仮に今すぐ上飼手さんから「おトイレ行くだけなら部屋から出ていいよ」と許可をもらっても、多分部屋の扉にすらたどり着けない。私はもう精神的にも肉体的にも完全に限界だった。
(あ、これ、もうムリだ。もういいや)
絶対にしてはいけないことだったが、私は我慢を諦め、自ら水門を緩めた。
ジョボボボボボボボボボボボボボボボ
借りていたパジャマが股からお尻にかけて色を変える。脚の間に挟んでいた右手はビッショリと濡れる。そして、昨日から一番長い時間を過ごしたふわふわベッドには恥ずかしいシミが描かる。でも、そんな大惨事、今の私にはどうでもよかった。
(はぁ〜、めっちゃ気持ちいい)
さっきまで尿意に支配されていた思考は今度は快楽に支配されていた。もう気持ちいい以外のことは考えられない。借り物を汚しているとか、本気を出せば後三十分くらい我慢できたかもとか、そんなことは一切考えられない。ただただ、おしっこが尿道を通って外へ出ていくのが気持ちよくって、もうとろけてしまいそうだった。
ジョボボボボボボボボボ
ずっとためこんだおしっこは全然止まってくれない。ふと、お腹に手をやるとシュウウと穴が空いた風船みたいにしぼんでいるのを感じた。それがなんだか面白くて、私は左手をお腹に当てた後、わざとお腹に力を入れた。
(うわっ、お腹、すごい勢いでしぼんでく。こ、全部おしっこだったんだ。ふふっ、すごっ。私、こんなにおしっこためられたんだ)
気持ちよさと楽しさでどんどん行動がおかしくなる。今からでもおもらしを止めようという気持ちは微塵も湧き上がってこなかった。
ショロロロロ……
けっこう長い時間をかけて、私のおもらしは終わった。ハァハァと息を荒げながら周りを見る。足元には大きな黒いシミ。ふわふわベッドのシーツは私のおしっこをいっぱい吸って、もう見る影もない。パジャマはぺたん座りしていたのもあって、下はもう再起不能なくらいぐしょぐしょだ。右手は脚の間にあったので、手を洗った後くらいびっしょりだ。あまりにひどい状況を目の当たりにして、さすがの私も顔を歪めた。
(あーあ、これ、追い出されちゃうよなぁ)
いきなり気分が暗くなる。さっきまではあんなに楽しくて、気持ちよかったのに。しかし、現実的に考えて、もう上飼手さんの家にはいられない。とりあえず上飼手さんが帰ってきたら謝って、もっているお金を全額渡して出ていこう。
(これからどうしよう…… 家には帰りたくないし。かといって他にあてもないし…… うーん)
びしょ濡れパジャマのままで一生懸命今後のことを考える。だが、尿意との戦いで疲弊した体と頭ではいい考えは思いつかなかった。それどころか、考えているうちに私の意識は遠のき、強烈な眠気を感じてきた。
(うぐっ…… めっちゃ眠い…… あー、これでベッドで寝るの最後かもだし、一旦寝かせてもらおう)
自暴自棄になっていた私はおしっこで汚れたベッドの上で横になり、目を閉じた。疲れていたからか昨日の夜とは違って、私はすぐに眠りに落ちた。
◆
「みーちゃん、起きて。みーちゃん」
体がゆさゆさと揺すられる。まだ眠ってからそんなに時間が経っていないというのに私を起こすとは。一体どこの不届き者だろう? 私は体を揺すってくる手をはねのけた後で、起こしに来た奴の顔を睨みつけた。
「や、おはよ。みーちゃん」
睨みつけた先には上飼手さんがいた。
「ヒッ…… 上飼手さん」
「ただいま。ゴメンね、遅くなって。でも、ケーキ買ってきたから許してね」
上飼手さんはニコッと笑う。私は全く笑えなかった。寝ぼけて忘れていたが、私はさっき、ベッドの上で盛大におしっこをもらしてしまい、今までふて寝していた。きっと怒られるに違いない。
「あ、あの…… 上飼手さん、私」
「あ、もしかしてケーキ嫌い? じゃあ、クッキーとかあるけど」
「あの! 違うんです! えっと、その」
「? 違うの? じゃあ何かな?」
「その、ですから」
私はベッドに横たわったまま、モジモジする。上飼手さんは相変わらずニコニコとこちらを見つめてくる。私はなんとなく恥ずかしくて、かかっていた掛け布団で顔を隠した。あれ? 私、掛け布団なんてかけて寝たっけ?
「もしかして、言いにくいことなの? 例えば…… おねしょしちゃったとか」
上飼手さんがニヤリと笑う。その笑顔を見て私は悟った。多分、上飼手さんは帰ってすぐ、パジャマを濡らしておもらし跡地で眠る私を発見したのだ。そして、なぜか起こす前に掛け布団をかけてから私を起こした。きっとそういうことだろう。
「まあ、なんかお酒飲み慣れてなさそうだったし、こういうこともあるかもって思ってたけどさ」
「えと、そのですね、これはおねしょじゃなくて」
「ん? おねしょじゃないの?」
しまった。これは言うべきではなかった。おねしょということにしておけば話は終わっただろうに、自分のバカさ加減が恨めしい。とはいえ、出した言葉を戻せない。それに上飼手さんとはこれでバイバイなのだ。最後くらい、誠実でありたい。そう思って、私は本当のことを上飼手さんに伝えた。
「あのですね、これはおねしょではなくて…… えっと、私、お昼に起きて、トイレに行きたかったんですけど、その、上飼手さんが帰ってくるまで部屋から出ちゃダメって…… だから、帰ってくるまで我慢しようとして。六時半までは我慢できたけど、もう限界で、七時まで我慢できなくて、全部ベッドで…… だから、その、ごめんなさい!」
とりあえず全力で謝った。私のたどたどしい説明をウンウンと相槌をうちながら聞いていた上飼手さんは「そっか」と言って私の頭をなでながら話し始めた。
「正直に言ってくれてありがとう。それに約束もちゃんと守ってくれたんだね。みーちゃん、偉い偉い」
泣きそうだった。結果だけ見れば私はただおもらしをしただけだ。責められることであっても、褒められることではない。そんな中でも上飼手さんは褒めるべき所を見つけて褒めてくれる。こんなにいい人に会ったのは生まれて初めてかもしれない。しばし、私は幸せな気持ちに浸る。でも、その時間は長くは続かなかった。
「でもさ、メッセージでトイレに行っていいか、聞くことはできたよね? それをしないでおもらししたのは許せないかな」
上飼手さんの雰囲気が変わった。この雰囲気は怒っているのではない。私をいじっていた同僚がよく発していた、人の弱みを見つけて喜んでいるときの雰囲気だ。胃がキュッと締め付けられるような感覚に、私は息を呑んだ。怯える私を全く気にせず上飼手さんはなでていた手をどけて、笑顔で続けた。
「許せないことをした子にはおしおきが必要だ。そうだよね、みーちゃん?」
言葉が出てこなかった。上飼手さんの笑顔がとっても怖かったからだ。でも、なにか答えなければと思い、私はコクリと小さく頷いた。それを見た上飼手さんは満足したのかさらに言葉をつなぐ。
「そうだよね。じゃあ、今度の日曜、おしおきするから。それまでおもらししちゃダメだよ? じゃあ、お風呂に入ろ。びしょびしょで気持ち悪いでしょ? 着替えは昨日みたいにクローゼットから勝手に取っていっていいからさ」
そういって上飼手さんは部屋の出入口の方に歩いていく。てっきり出ていけとか、体を売れとか言われると思っていた私はちょっぴり驚いて上飼手さんに聞き返してしまった。
「あの…… 今度の日曜におしおきって…… それだけですか? 出てけとか、体で稼いでこいとか言わないんですか?」
「ハハッ! みーちゃんを追い出すなんてありえないよ。体で稼げなんてのも論外、絶対にありえないよ」
上飼手さんはすごく笑っている。でも、その目は全く楽しそうじゃない。きっとなにか裏がある。すぐにわかった。それを証明するように上飼手さんは「だって」と言ってセリフを続けた。
「だって、みーちゃんは俺のものだもん。この家から自由に出ることも、他の人のものになることも許さないよ」
上飼手さんは表情を変えずに私の方を見つめる。私は怖くてなんとなく目線を外してしまう。それでも上飼手さんは話し続ける。
「ね? これから一生一緒だよ。仲良くしようね、みーちゃん」
この時点で私はやっとこの人に助けてもらったのではなく、ペットとして拾われたのだと気づいた。私にはもう人並みの自由は望めない。
私はほんの少しだけ、後悔した。確かに飼育してほしいとは思っていた。でも、もう二度と、好きなときに好きな場所に行ってはしゃげないのだ。家にいたときは選ばなかっただけでどこかへ行く選択肢自体はあった。でも、そんなささやかな自由すら認めてもらえない。逃げようにも逃げ場所はない。助けを求めても、変わる場所を失うだけ。八方塞がりだ。
後悔してもう遅い。私は一生、上飼手さんのいいなりなのだ。
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