第八集:悪意の始まり

 何度か小競り合いはありつつも、法霊雅学ほうれいががくは残すところあと三日となっていた。

 最後の試験も終わり、最優秀者として瑞雲ルイユン菫鸞ジンラン茜耀チィェンイャォの三名が表彰された。

「難しすぎるよ……」

 杏花シンファは座学の試験を思い返し、悲しくなった。

「まあまあ。ジン閣主かくしゅには『法霊武門ほうれいぶもん出身ではないのにここまで出来ていたら合格点ですよ』って言われていたじゃない」

 菫鸞ジンランの笑顔が心に突き刺さる。

「それはみんなからすれば及第点ってことでしょう」

 座学の試験に関していえば、莅月リーユェ若蓉ルォロン扶光フーグゥァンも満点をとっている。

杏花シンファは武術演習で満点だったのだから、気にすることないよ」

 莅月リーユェに頭を撫でられても、気分は晴れなかった。

 もし蒼蓮ツァンリィェンだったら最優秀者に選ばれていただろう。

「なんだ、まだ落ち込んでいるのか」

 如昴ルーマオが呆れ顔で近づいてきた。

「満点の人にはわからないですよ、レイ公子若君

「武術の試験で七十人全員を打ち負かしておいてその態度はないだろう」

 菫鸞ジンランとの試合で武闘場の床を破壊してしまったことを思い出し、杏花シンファは血の気が引いた。

 そんな杏花シンファを見て少なからず心配したのか、如昴ルーマオは溜息をついた後、小さな声で言った。

「……茜耀チィェンイャォも褒めていたぞ」

 如昴ルーマオがわずかに頬を赤らめ、杏花シンファから顔をそむけた。

「あら、レイ公子若君の婚約者様に褒めていただけたなんて! とても嬉しいですわ」

 如昴ルーマオは顔全体を赤く染めながら「だ、黙れ」と言い残し、立ち去って行った。

茜耀チィェンイャォ姉さんと如昴ルーマオ兄さんが許嫁なのが有名だとは知らなかった」

 杏花シンファ以外はみんなが知っていることらしく、昨日雑談の中で話題に出た時は思わず叫んでしまったほどだ。

「あの二人はお母様同士がとても仲が良くて、偶然、同じ日に同じ場所で産気づいて、数分差で出産したんだよ。産まれたのが男女だったから、その場で許嫁にすることが決まったんだって」

 菫鸞ジンランは、耳まで赤くしたまま歩いて行く如昴ルーマオを見ながら微笑んだ。

「気付かなかったことが悔しい。茜耀チィェンイャォ姉さんとお茶をしていると、高確率で如昴ルーマオ兄さんが話しかけてきたのに……。あの二人、全然顔に出さないんだもの」

「産まれた時から許嫁で、法霊武門ほうれいぶもんの会合でも常に隣の席。お互いの家が剣術を伝統武術としていて、合同演習もよくしていたら、もう夫婦みたいな関係になっちゃうんじゃない?」

「あの態度はそっけないんじゃなくて、特に会話しなくても相手のことが手に取るようにわかってしまうってことなのね」

「まあ、杏花シンファ瑞雲ルイユンはある意味特殊だから」

 瑞雲ルイユンが頷いている。

「そんなことより、あと三日だよ? みんな帰っちゃうんだよ? 私は寂しくてたまらない」

 菫鸞ジンラン杏花シンファの腕を抱きしめながら泣き真似をし始めた。

「いつでも、文字通り飛んでくるから。まあ、扶桑ふそうは少し遠いけれど、兄の白龍ならその日のうちに到着できるし。配達の時にでも着いて行くよ」

「絶対? 絶対?」

「か、可能な限り」

 杏花シンファの困ったような表情を見た菫鸞ジンランは、左右を歩く二人にも泣き真似を披露した。

瑞雲ルイユンは? 莅月リーユェは?」

 莅月リーユェは苦笑しながら答えた。

「あ、うん、可能な限り」

 瑞雲ルイユンはいつも通り、正直に答えた。

「可能な限り」

「三人とも、全然心がこもってないじゃない!」

 可愛くわめ菫鸞ジンランを慰めながら、杏花シンファはこちらに気付いて近付いてくる二人に手を振った。

若蓉ルォロン兄さん、扶光フーグゥァン兄さん」

 どうやら杏花シンファ達のことを探していたようだ。

 小走りで駆け寄ってきた。

 若蓉ルォロンも、どこか寂しそうな笑顔をしている。

「また、会えるよね?」

 杏花シンファは笑顔で「もちろん」と口にしたが、それは若蓉ルォロンの隣で作り笑顔をしている扶光フーグゥァンへの牽制でもあった。

 それに気付いたのだろう。

 扶光フーグゥァンが一歩杏花シンファの前に出た。

欒山らんざんまで来てくれるのかな」

「行ってもいいの? 扶光フーグゥァン兄さん」

杏花シンファなら大歓迎だよ」

「ありがとう。絶対に行くね」

 何も知らない若蓉ルォロンは、「本当? ふかふかのお布団用意しておかなくちゃ」と喜んだ。

「あのね、欒山らんざんは雪が……」

 若蓉ルォロンが地元の説明をしようとしたその時、藤陵とうりょう フォン氏の門弟三人が近付いてきた。

莅月リーユェお嬢様、若様がお待ちです」

「え……、兄上が? どうして?」

 莅月リーユェの戸惑いをあえて無視したのか、莅月リーユェの背を優しく押すように連れて行ってしまった。

「何なの」

 杏花シンファが追いかけようとすると、今度は煌風こうふう イン氏の門弟が五人やって来て、「若様方が皆様をお呼びです」と告げた。

「行かないとどうなるの?」

 瞳が光っている杏花シンファを下がらせ、菫鸞ジンランが尋ねた。

シュェ公子若君、困らせないで頂きたい。無理やりお連れしたくはありません」

「へえ。無理やり連れていける自信があるの? 不凍航路ふとうこうろが誰の縄張りか、知ってるよね」

 五人は左手に持っている刀に手をかけるも、菫鸞ジンランとその後ろにいる瑞雲ルイユン杏花シンファを見て後ずさる。

 すると、そこへジン姉弟と如昴ルーマオがやってきた。

イン氏の礼儀作法はその程度か」

 如昴ルーマオイン氏の門弟たちを睨みつけた。

「あなた達が敵う相手じゃないのはわかっているでしょう」

 茜耀チィェンイャォの冷たい視線が威圧する。

「何が起こっているのか知る必要がある。そうだろ、杏花シンファ

 如昴ルーマオが何を言おうとしているのか悟り、杏花シンファは怒りを鎮めた。

「私達は己の意志で行くから、あなたたちは主の元へ戻りなさい」

 自分達よりもはるかに強い茜耀チィェンイャォの言葉に従うしかないイン氏の門弟達は、逃げるように立ち去った。

「様子がおかしいの。うちの門下生も、レイ氏の門下生も、みんな連れて行かれてしまったのよ」

「おそらく、シュェ氏とリン氏、ニー氏もそうだろう。今日はシュェ宗主が不在だ。始めからこの日を狙っていたのかもしれない」

「どういうこと?」

 杏花シンファの質問に、柔桑ロウサンが答えた。

氷妃河ひょうひがイン氏とフォン氏の兵が集まっているんだ。その数は少なくない」

 緊張が走る。

「父上が法霊武林ほうれいぶりん全体を探っていたのだが、小さな武門ぶもんのいくつかが裏切ったらしい。面目ない」

「仕方ないよ。富豪榜三位のフォン氏と八位のイン氏が組んだのだもの。レイ宗主のせいではない」

「その通りだよ、如昴ルーマオ兄さん」

 杏花シンファは微笑みながらも、指先が冷たくなっていくのを感じた。

「行こう」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの背に触れ、頷く。

 それだけで、心が落ち着いていく。

 六人はイン氏の門弟たちが向かった方向へ歩いて行った。

「……なんなの?」

 たどり着いたのは裏山の登山口。

 集められた門下生の周囲を、イン氏とフォン氏の門弟が取り囲み、その前方にはイン兄弟とフォン兄妹が立っている。

 莅月リーユェの目と頬が赤く掠れている。

杏花シンファ、今は我慢するしかないのかも」

 菫鸞ジンランが今にも飛び出していきそうな杏花シンファを制止する。

「ようやく全員集まりましたね。では、イン公子若君

 佳栄ジャロンに促され、隆戦ロンヂャン風火輪ふうかりんで浮かびながら口を開いた。

「一月後、螢惑けいこく山で行われる、煌風こうふう イン氏主催の鬼幻きげん祭祀に招待する」

 杏花シンファ以外、皆の顔が強張った。

「我が父、イン宗主と、盟友であるフォン宗主の度重なる協議の結果、百年間行われてこなかった祭を復活させることとなった。これは法霊武林ほうれいぶりん全体の結束を強め、脅威に備えることを目的としている。煌風こうふうまではイン氏の兵士が護衛する故、安心して参加されよ」

 瑞雲ルイユン菫鸞ジンランの目に怒りが見える。

 場がざわつく中、隆戦ロンヂャンはさらに続けた。

「此度の祭祀は法霊武林ほうれいぶりんにとっては誉れである。そこで、その武勇を隣国まで知らしめたく思い、蓬莱国ほうらいこく星辰せいしん王の娘、シン 杏花シンファ殿も招待することに決まった」

 視線が集まる。

 瑞雲ルイユンが剣に手をかけた。

 菫鸞ジンランは拳と足に霊力花れいりょくかを纏わせ、今にも跳び上がり殴りつけに行きそうだ。

 杏花シンファは慌てて二人の前に立ち、「何かする前に、どういうことなのか教えて」と手を広げた。

シン殿が何もご存知ないのは生国が違うのだから仕方のないこと。リン公子若君シュェ公子若君に代わり、フォン公子若君から説明を」

 佳栄ジャロンが指名され、莅月リーユェが声を出さず泣き出した。

 妹のことなど何も気にならないといった様子で、佳栄ジャロン風火輪ふうかりんで浮かび上がった。

「ご説明いたします。鬼幻きげん祭祀とは、鬼幻きげん界との間にある結界を解き、こちらにやってくる悪鬼羅刹あっきらせつを一ヶ月間毎日討伐し、個々の能力を高めることを目的として行われていたものです。この度、その伝統を復活させることとなりました。各武門ぶもんには目標討伐数を割り振り、それが達成されるよう努力を重ねてもらいます。戦術を見直し、隊列を組みかえ、法術と武術の精度を高めるなどですね」

 そういうことか、と、杏花シンファは前方へ振り向いた。

「ただ、困ったことに、星辰薬舗せいしんやくほには門弟がいないご様子。医術師や薬術やくじゅつ師のお弟子さんたちを同行させたところで……、足手まといですよね? そこで、シン殿にはイン氏の兵から」

「必要ない」

 杏花シンファの声が響く。

 瑞雲ルイユン菫鸞ジンランがその腕を掴み、杏花シンファがその先に言うであろう言葉を遮ろうとするも、遅かった。

「一人で充分です」

 こうなることがわかっていたのだろう。

隆戦ロンヂャン佳栄ジャロンわらいながら頷き合った。

「さすがは医仙いせん。そう言ってくれるだろうと……」

杏花シンファは私と共に戦場へ出る」

 杏花シンファの鼓動が跳ねる。

 横を見ると、瑞雲ルイユンがまっすぐ前を睨みつけている。

 菫鸞ジンランは驚いて固まっている。

リン 瑞雲ルイユン、どういうつもりだ」

 瑞雲ルイユン杏花シンファに向かって微笑むと、隆戦ロンヂャンを睨みつけ、言った。

杏花シンファと私は夫婦となる誓いを立てている。このことは私の兄上も、杏花シンファの兄君も承知のこと。そのため、リン氏として参加することが望ましい」

 何故か菫鸞ジンランが先に頬を紅潮させ、次に杏花シンファが顔全体を赤く染めた。

「な……。ま、まだ祝言をあげたわけじゃ」

 隆戦ロンヂャン佳栄ジャロンが意表を突かれて言葉に詰まっていると、茜耀チィェンイャォ如昴ルーマオが一歩前へ出た。

「あら、私は如昴ルーマオの許嫁としてレイ氏の席に座ることもよくあるけれど。あなた達も見たことくらいあるでしょう」

杏花シンファリン公子若君の婚約者としてリン氏と行動するのは何も問題ない」

 法霊武林ほうれいぶりんでも影響力のある夜湖やこ ジン氏と紅葉山荘こうようさんそう レイ氏の言葉に、その場にいる門下生たちが同意の声を上げ始めた。

「そうかよ……。そっちがそのつもりなら、いいだろう。許可してやる。だが、条件がある」

 隆戦ロンヂャン佳栄ジャロンに耳打ちした。

「では、シン殿がリン氏と参加するに際し、こちらからの条件を提示いたします。リン氏には、シン殿が討伐予定だった目標数を加算することとします」

 杏花シンファたち以外の皆が凍り付いたように、静まり返った。

「それならば、我々も文句はありません。若い二人の婚約を心からお祝いさせていただきます」

 菫鸞ジンラン杏花シンファ瑞雲ルイユンを見る。

「大丈夫だよ、菫鸞ジンラン

 杏花シンファは笑顔で頷くと、「質問」と声を上げた。

「質問とは、何でしょう?」

 佳栄ジャロンの問いに、杏花シンファは笑顔で答える。

「私達が目標討伐数を完遂したら、友達のところへ加勢に行ってもいいのでしょうか」

 場が、騒めき始めた。

「はっ。そんな簡単に終えられると? いいでしょう。もしも完遂出来れば、好きな戦場へ行くことを許可します。いいですね? 隆戦ロンヂャン

「勝手にしろ。鬼幻きげん祭祀のあと、生きて俺の前に現れることが出来たら、今までの非礼をすべて謝罪してやるよ」

 高笑いが聞こえる。

菫鸞ジンランなら大丈夫だとは思うけれど、でも、助けに行くよ」

「まったく……。二人とも、本当に困った親友だなぁ。祝言では私を一番前の席にしてよね」

「当たり前だよ」

 瑞雲ルイユンも頷く。

「そうだ、私も少しは牽制しておこうかな」

 「梅園」と杏花シンファが呟く。

 白梅、紅梅、青梅の三人が、杏花シンファと同じように瞳を杏色に光らせ、空中に現れた。

 それを見た隆戦ロンヂャンは、口元を歪め鼻で笑った。

「せいぜいその奴隷どもと頑張れ」

 吐き捨てるようなその言葉は、杏花シンファには届かなかった。

 杏花シンファを囲む友人達とのおだやかな会話が、悪意を遮ったのだ。

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