第七集:冷

 法霊雅学ほうれいががくが始まってから二ヶ月が過ぎ、一度目となる試験を終えた門下生達はしばしの休日を楽しんでいた。

 氷妃河ひょうひがの街へ遊びに行く者も多く、とても活気がある。

 空気は冬の気配が濃くなり、水の豊富な不凍航路ふとうこうろの気温は一足先に火鉢が必要なほど下がり始めていた。

 今日は特に昼を過ぎてからの冷え込みが強い。

杏花シンファ、さ、寒くないの?」

 扶光フーグゥァンにこれでもかと着込まされている若蓉ルォロンが、杏花シンファの変わらぬ格好に驚いている。

「ああ、確かに私のこの見た目は寒そうだよね。上に着ている霊仙衣れいせんい仙力せんりょくを纏わせると、暖かくも涼しくも出来るから、私はこれでもかなり暖かく過ごしているんだよ」

「そうなんだ。杏花シンファは身体が弱いから心配で」

「心配してくれてありがとう。もし私に何かあればあの三人が騒ぐだろうから、そうじゃない時は安心して」

「ふふ。わかった」

 笑う二人の目線の先にいるのは、瑞雲ルイユン菫鸞ジンラン莅月リーユェ

「何笑っているの?」

 視線に気付いた菫鸞ジンランが蝶々を見つめる子猫のような顔でやってきた。

「私達の友達は可愛いなぁって思って」

「当たり前でしょう」

 椿を彷彿とさせる華やかな笑顔に、杏花シンファもつられて笑顔になる。

 三人で笑っていると、残りの二人も寄ってきた。

杏花シンファの笑顔を見逃してしまっただろうか」

「いつでも見られるんだからいいじゃない」

 莅月リーユェに言われ、瑞雲ルイユンは少し迷って頷いた。

扶光フーグゥァン兄さんの具合はどう?」

 杏花シンファが尋ねると、ちょうど前に立っている莅月リーユェがこわばった。

「今朝も熱が下がらなくて。後で診てくれる?」

「もちろん」

 扶光フーグゥァンは試験の日から体調を崩し、三日経った今でも部屋から出られないでいる。

 試験当日はいつもとは違い、席順が変えられていた。

 そのため、若蓉ルォロンよりも先に席が近かった夜湖やこ ジン氏の茜耀チィェンイャォがそれに気付き、杏花シンファと共に扶光フーグゥァンを宿舎まで運んだのだ。

 茜耀チィェンイャォジン氏で医術師をしているらしく、とても手際が良かった。

 「あなたと話してみたかったの」と言われた時は、患者を目の前にしているのに杏花シンファは舞い上がりそうに。

 ただ、どうやら茜耀チィェンイャォは性分が天然らしく、女性門下生達が「シン公子若君」と呼ぶのを間に受け、杏花シンファのことを美しい少年だと思っていたようだ。

 扶光フーグゥァンの看病中、互いの認識を改めるのに一時間もかかった。

 「じゃぁ、私は先に戻るね」と、若蓉ルォロンは宿舎の方へ向かった。

 扶光フーグゥァンのことが心配なのだろう。

「…ねぇ、どうしたの? 莅月リーユェ姉さん、扶光フーグゥァン兄さんの話題が出るといつも目を伏せているよね」

 莅月リーユェ扶光フーグゥァンの殺意がこもった目を見てからというもの、彼に対しうまく接することができないでいる。

「なんていうか、その……」

 自分の見間違いかもしれない。でも、そうでなかったら?

 考え出したら止まらなくなってしまった莅月リーユェは、悩むくらいなら関わらなければいい、と、ずっと一人で扶光フーグゥァンを避けてきた。

「私と瑞雲ルイユンを睨んでいたこと?」

「え! 気付いていたの……?」

 莅月リーユェが目を見開き、杏花シンファを見た。

「殺気まで込められたら誰でも背筋が凍るよ」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの隣で頷いた。

「大丈夫だよ、莅月リーユェ姉さん。私も瑞雲ルイユンも、身を守るすべは心得ているから」

「私もいるし」

 菫鸞ジンランは握った拳を前に突き出しながら言った。

 風を切る音が少し怖かったが、誰も口には出さなかった。

(この状況は幸運とも言える。ジン氏と私がニー氏を監視できるのだから)

 すでにどの武門ぶもんがこちら側なのかは青鸞チンルゥァンから教えてもらっている。

 協力関係にある各武門ぶもん世子せしにも伝わっているだろう。

 瑞雲ルイユンも、失われた神器のことや、杏花シンファが何故ここにいるのかなどを琅雲ランユンから全て聞いている。

――「法霊武門ほうれいぶもん間で起きた事案は法霊武林ほうれいぶりん内で解決すべし、というのが両陛下のお考えです。しかし、過去の事例を見る限り、そうは言っていられません」

――「無礼なことと承知の上で申し上げます。もし、現存する三つの神器が揃い、その強大な呪力を使って法霊武門ほうれいぶもんが結託し、大秦国だいしんこく全てをその手中に収めようと皇宮へ攻め入れば、蓬莱国ほうらいこく天皇陛下は兄弟分である大秦国だいしんこく皇帝陛下の救援のため、大軍を率いて法霊武林ほうれいぶりんそのものを亡きものとするでしょう」

 だからこそ、あの時、茜耀チィェンイャォは席の近い莅月リーユェではなく、杏花シンファに手伝いを頼んだのだ。

 莅月リーユェは善良だが、その兄、佳栄ジャロンは違う。

「私、扶光フーグゥァン兄さんを診てくる」

 杏花シンファは白梅を召喚し、診療道具の入った箱を受け取った。

「気を付けてね」

 菫鸞ジンランの言葉に瑞雲ルイユンも頷き、杏花シンファを送り出した。

 男性区画の宿舎へ入るために、不凍航路ふとうこうろの侍従に一声かけ、ついてきてもらう。

 ニー氏の部屋は入り口から二棟目。

「あ、若蓉ルォロン

 外の空気を吸いに出てきたようだ。

「来てくれてありがとう、杏花シンファ

 疲れた表情をしている若蓉ルォロンの後に続き、部屋へと入る。

 二人部屋の場合、寝台は部屋の左右端にある。

 杏花シンファは向かって左にある寝台へ近付いていく。

 そばに置いてある椅子に腰掛け、診療道具が入った箱を床に置いた。

「あ……。わざわざ、ありがとう」

 熱のせいか声は掠れ、目が潤んでいる。

「手首に触れてもいい?」

 扶光フーグゥァンは力無く頷いた。

 杏花シンファは酒精成分が入っていない消毒用の綿で手を拭ってから手首に触れた。

 脈を診るよりも前に、その熱さに驚く。

「処方した薬、ちゃんと飲んでる?」

「それが、せっかく飲み込めても、少しすると扶光フーグゥァンが嘔吐しちゃって……」

「じゃぁ……、吸引できるものに変えるね」

 扶光フーグゥァンの脈が少し早まった。

「それなら飲まなくてもいいし、吐くこともないから。すぐ良くなるよ」

 「白梅、用意して」と、杏花シンファが手にしたのは小さな丸い瓶。

「これを扶光フーグゥァン兄さんの鼻と口の近くで持って、若蓉ルォロン兄さんが霊力を流せば中の薬効成分が霧状になるから、それを扶光フーグゥァン兄さんが吸い込めばいいだけ」

 扶光フーグゥァンの脈が乱れる。

(やっぱり、わざとか)

 白龍の一件で仲良くなった日から、若蓉ルォロンとの交流は目に見えて増えていった。

 菫鸞ジンラン若蓉ルォロン扶光フーグゥァンを引き離してくれるおかげで、一緒にいられる時間も長くなり、信頼関係を築いていた矢先にこの熱病。

 若蓉ルォロンは起きている時間のほとんどを扶光フーグゥァンの看病に使い、部屋から出てくるのは食堂へ行く時くらい。

 杏花シンファ若蓉ルォロンと話せる機会はその時だけ。

やまいを利用するなんて絶対に許さない)

 杏花シンファの瞳が光る。

 一瞬だったが、扶光フーグゥァンが口元を歪め、嗤ったのが見えた。

若蓉ルォロン兄さん、外で待機している侍従の方と一緒に、毛布を一枚借りてきてもらえる?」

「わかった。すぐに戻ってくるね」

 若蓉ルォロンは何も疑うことなく部屋を後にした。

医仙いせんは厄介だな」

「肺炎まで偽装して、何を企んでいるの?」

 体調は本当に悪いのだろう。

 扶光フーグゥァンは寝たまま顔だけをゆっくり杏花シンファの方に向け、嗤った。

「もう手首離してくれる? 脈拍で嘘かどうか見分ける必要もないでしょ」

「確かに」

 杏花シンファ扶光フーグゥァンから手を離すと、再び手を拭う。

若蓉ルォロンは私に依存している。それを壊されるわけにはいかないんだよ」

「健全な関係とは言えない」

「健全である必要がどこにある? それに、その善し悪しを決めるのは君じゃない」

 ただでさえ冷たい空気が張り詰める。

「良いことを教えてあげよう。だからもう私達には構わないでくれ」

「それを決めるのはあなたじゃない」

「言い返されてしまった。どうしようもないな」

 扶光フーグゥァンは楽しんでいるのか、「じゃぁ、良いことだけ教えるとするよ」と、話し出した。

煌風こうふう イン氏には気をつけた方がいい。その兵力は君の父君とその兄君の私兵を合わせた数よりも多いからね」

 杏花シンファの瞳が強く光り始めた。

「何故それを?」

「君達に特別な情報網があるように、私にもそれがあるんだよ」

 扶光フーグゥァンは掠れた声で高笑いした。

「ああ、そうか。イン氏には藤陵とうりょう フォン氏もついているから、蓬莱国ほうらいこく星辰せいしん王府のシン氏では止められないかもね、戦争」

 乱れそうになる息を整え、暴走しそうになる仙力せんりょくを抑える。

「どっちの味方なの」

欒山らんざん ニー氏は常に第三者だ。どちらにもつかない」

法霊武林ほうれいぶりんが滅んでも?」

「君がそうはさせないだろう? 例えそうなったとしても、私は若蓉ルォロンと仲良く暮らしていくさ。一面の焼け野原に転がるしかばねを笑いながらね」

 わからない。徹底的に、演じている。

 扶光フーグゥァンの目には、底のない闇が続いている。

「あ、君と瑞雲ルイユンは死なないでくれよ。若蓉ルォロンが悲しむ」

 もし、あと数秒でも若蓉ルォロンが戻ってくるのが遅かったら、杏花シンファの左手には刀が握られていただろう。

 殺しはしない。でも、脅すくらいはしたかもしれない。それとも、どうしていただろうか。

「ただいま。毛布、二枚も貸してくれたよ」

 無邪気な笑顔。

 可愛らしい笑顔。

 優しい笑顔。

 その手足に、見えない鎖が巻き付いていたとしても。

扶光フーグゥァン兄さんはもう大丈夫だよ。明日には熱も下がる」

「わあ! ありがとう杏花シンファ! よかったね、扶光フーグゥァン

「うん。杏花シンファの医術の腕と、義兄上の看病のおかげだよ」

 微笑みあう義兄弟は、はたから見ればとても麗しい。

 でも、その片方が酷く歪んでいたら?

「私、戻るね」

「わかった。送って行こうか?」

「大丈夫。書房に寄ろうと思っているから」

 若蓉ルォロンの笑顔を最後に部屋を出ようとすると、扶光フーグゥァンが身体を起こし、杏花シンファに笑いかけた。

「本当にありがとう。杏花シンファは身体が弱いんだから、私よりも気を付けた方がいいよ」

「うん。そうする」

 若蓉ルォロン扶光フーグゥァンに駆け寄り微笑むのを横目に、部屋を後にした。

 侍従の人とは男性区画を出たところで別れ、杏花シンファはそのまま空を飛び、裏山へ向かった。

(何の証拠もない)

 扶光フーグゥァンに特別な情報網があるという証拠も、何かを企んでいるという証拠も、若蓉ルォロンを依存させているという証拠すら、何もない。

星辰せいしん王府と明星王府の兵力なんて、蓬莱に知り合いの一人でもいればどうとでも調べられる。秘密にしていることではない)

 この状態では青鸞チンルゥァンにも、琅雲ランユンにも、瑞雲ルイユンにすら情報として伝えることはできない。

 蒼蓮ツァンリィェンに警告した結果扶桑ふそうが守りを固めてしまうと、イン氏とフォン氏の警戒心を余計に煽ることになる。

(それをわかっているから、私に話したんだ。ただの雑談の内容では、私が手も足も出せないと知って)

 誤情報だとは思わない。実際に、イン氏とフォン氏は警戒対象だ。

(何を隠しているの……?)

 裏山の山頂で仙力せんりょくを球状に纏いながら浮いていると、声がした。

杏花シンファ

 ゆっくりと地面に降り立ち、声の主と向き合った。

「飛んで行くの、見られてたか」

 瑞雲ルイユンは首を振り、杏花シンファの手をとった。

若蓉ルォロンに聞いたら、もう帰ったと言われて、探した」

「そっか」

 つい笑ってしまう。

「どこかおかしかっただろうか」

「ううん。嬉しくて」

「そうか」

 瑞雲ルイユンよりも純粋な人には会ったことがない。

「手が冷えている。帰ろう」

「うん。菫鸞ジンランまで来たら面倒だから」

 二人で空へ飛び出すと、少し下の方から「そんなところにいたのー?」と、菫鸞ジンランの声が聞こえてきた。

「もう。莅月リーユェは空飛ぶの苦手なんだから、二人ともあんまり高いところには行かないでよね」

「わかったわかった」

 地上では莅月リーユェがこちらに向かって手を振っている。

 杏花シンファ瑞雲ルイユンに向かって一瞬片目を瞑り、手を離した。

莅月リーユェ姉さん!」

 杏花シンファは地上へ降り立たず、莅月リーユェを抱きしめて上昇した。

「見て! 夕陽が綺麗だよ」

「もう、杏花シンファったら! ふふ。本当に綺麗ね」

 四人で夕陽を見て、杏花シンファは胸が苦しくなった。

 この平穏な日常を、こんなちっぽけな自分が守れるのだろうか。

 大切な人たちは両腕では抱えきれないほどいる。

 「守りたい人を守れるように強くあれ」と、よく祖父が言っていた。

 それが可能なほど、自分は強くなれているのだろうか。

 健康に生きることすらままならないこの身体で。

「ふう、上空は寒いね。ほら、降りるよ杏花シンファ

 菫鸞ジンランの声に我に帰る。

「ちゃんと抱きしめられていてね、姉さん」

「もちろん」

 四人で地上へ降り立つ。

 凍てつく風が通り抜ける。

 望んでも、望まなくても。

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