第二集:汚れた神器

 鮮やかな翡翠色の深衣しんいに、杏の花が透かし模様で入っている白い衣を身に纏った少女が一人、呆けた顔で立っている。

 深衣しんいと同じ色の髪紐で結われた一本の三つ編みが背中で揺れ、風の強さを感じる。

「ここが氷妃河ひょうひが法霊武門ほうれいぶもんシュェ氏の『不凍航路ふとうこうろ』か……。瑞雲ルイユンが言っていた通り、白い壁が天まで届きそう……」

 目の前に広がる景色は純白の壁。

 それ以外に見えるのは、頂にまだ雪の残る鋭利な角度の岩山と、目が醒めるような鮮やかな青の門。

 不凍航路ふとうこうろは、乾燥したこの地で唯一の川である氷妃河ひょうひがが始まる場所。

 シュェ氏の先祖は氷妃河ひょうひがの守り手であり、この大秦国だいしんこくにおいて河川を使った戦術を得意とした船乗り。

「ここで四ヶ月間、上手くやっていけるかな……」

 杏花シンファは荷物の入った鞄の紐をギュッと握り締めながら、少しだけため息をついた。

 晩夏の風が頬を撫ぜ、遥か上空へと舞い上がる。

「全員が集まるまでの一週間。法霊武林ほうれいぶりんのこと、どこまで覚えられるだろう」

 青い門に近づきながら、予習した内容を頭の中で反芻した。

 大秦国だいしんこくには、法霊武林ほうれいぶりんに属する特別な力を持った人々がいる。

 長命種の人間の一族、世杉シーシャン族末裔と、蓬莱国ほうらいこくから渡ってきた同じ長命種の五葉ウーイェ族末裔がそれにあたる。

 彼らは普通の人間との婚姻関係を結びながら特別な力と血を分け合っていった。

 次第にその血は薄くなり、かつては七百歳もあった寿命が、今では二百歳にまで減少。

 幼年期、少年期、老年期は一般的な人間と同じだが、青年期がとても長く、壮年期がそれに続く。

 見た目は常人と何ら変わりはないが、彼らはこの世に生まれ出でるときに神々から一つの種を授かっている。

 名を霊植種れいしょくしゅと言い、身体に宿り、修練を重ねると成長し、体内で霊力を生み出すようになる。

 霊力は身体能力や自己治癒能力を大幅に向上させるだけでなく、各武門ぶもんの伝統武器や法器と呼ばれる特殊な道具を自由自在に操ることに使う。

 霊力の強弱は生まれ持った才能によるところが大きいが、修練の成果によってはその差を補うこともできる。

 心身の成長に合わせ、種は次第に植物の様相を呈するようになり、霊力花れいりょくかと呼ばれるその形は人によって違う。

「霊力の授かり方は蓬莱ほうらいも同じなんだけどなぁ」

 自身の左腕に淡く光る植物を出現させながら、杏花シンファは一番重要な項目を思い浮かべたところで、青い門にぶつかった。

「痛っ! ……誰も見てないよね。よかった」

 周囲を見渡し、人気のないことを確認するも、恥ずかしさに顔が熱くなる。

杏花シンファ……?」

 背後、頭の上の方で名を呼ぶ声が聞こえた。

「……瑞雲ルイユン! それに、リン宗主まで……。どうしてここに?」

 紺碧の深衣しんいに身を包む長身の美男子が二人、両足に装着している風火輪ふうかりんを使って空から降りてきた。

 一人は表情に乏しいが頬を赤く染め耳まで赤くなっている。杏花シンファの幼馴染、リン 瑞雲ルイユン

 美しく長い髪を高い位置で結い上げ、残りは背中に流れているため、隠すことができずに余計に頬を赤らめている。

 もう一人は優雅で柔和な笑みを浮かべ、大人の余裕を感じる佇まいの若き宗主、リン 琅雲ランユン

 リン氏は両刃の剣を使った戦闘術を得意とする武門ぶもんである。

「君のご両親に頼まれて、シュェ宗主に会いに来たのだよ。星辰薬舗せいしんやくほと交流があるのは我らリン家だけ。杏花シンファの病状をわかっていて、正しく説明できるのは私が適任だ、と」

「ああ、そんなわざわざ……」

 杏花シンファは幼い頃から不治の病を患っている。

 大隔世遺伝により、数十代前に存在した先祖の力を受け継いでしまったのである。

 それは、父方の莫大で強力な霊力と、母方の類稀なる生成量の仙力せんりょく

 強すぎる力は杏花シンファの身体の負担となり、本来ならばあるじを強化するはずのものに命を脅かされているのだ。

 そのため、杏花シンファは生成される霊力の半分を体調と体力の維持に使うしかなく、普段は仙力せんりょくだけを用いて医術と薬術、そのほか様々な術を行使している。

 深衣しんいの上に着ている白い衣は、母の仙力せんりょくが編み込まれた、杏花シンファの体調維持には欠かせない特別なもの。

 しかし、これから関わろうとしているのは霊力を正道とする法霊武林ほうれいぶりんの人々。

 病状の説明なしでいきなり仙力せんりょくを使えば、どんな目で見られるかは火を見るよりも明らかだ。

「私の身体や力、症状や服用する薬について書かれた書簡を父から預かっているんです。てっきり、私に全て任せてくれているんだと思っていました。お手を煩わせてしまいましたよね……」

 元気な笑顔が萎んでいく杏花シンファを優しい瞳で見つめながら、琅雲ランユンは微笑んだ。

「ご両親は心配なのだよ。困ったことがあれば、我が弟に頼るといい。杏花シンファと同様、今回の法霊雅学ほうれいががくに参加するからね」

瑞雲ルイユンも参加……、するの?」

 杏花シンファは幼馴染を見上げ、つい表情が緩んだ。

 瑞雲ルイユンは端正な顔立ちを少しも変えることなく、でも目を輝かせ、杏花シンファを見つめながら頷いた。

「可愛い弟には困ったものだ。雅学までまだ一週間もあるというのに、私が杏花シンファとともにシュェ宗主に会う予定があると言ったら……」

「兄上」

 瑞雲ルイユン琅雲ランユンの言葉を遮るように、その顔を見た。

「ふふ」

 琅雲ランユンは表情とは裏腹に素直に育ってくれた弟を見て微笑んだ。

「では、そろそろ中に入ろうか」

 紺碧の門に琅雲ランユンが白い玉佩ぎょくはいをかざすと、門が内側に開いていった。

「わあ! 建物の中に、川が流れている!」

 真っ白な石畳が碁盤の目のように土地を形成しており、その間全てに清らかで冷たい水が満ち、川となって流れている。

 それぞれの区画を繋げるためにかかっている橋も白くて美しい。

 まるで一つの街のよう。

シュェ氏は氷妃河ひょうひがの水質管理もしていてね。この川は壁の下を潜って東西にのび、周辺の街や村に綺麗な水をもたらしているのだよ」

不凍航路ふとうこうろは水とともに生きているのですね」

 初めて見る涼やかで荘厳な光景に、杏花シンファは目を奪われた。

杏花シンファには……」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの腕に触れ、少し、本当に少し表情を緩めながら言う。

慈雨源郷じうげんきょうに来てほしい。好きになってほしい」

 杏花シンファは驚き、頬が熱くなるのを感じた。

 十年前、家族で蓬莱国ほうらいこくから大秦国だいしんこくに移り住んできたばかりの頃。

 まだ友達と呼べる者もおらず、本ばかり読んで過ごしていた。

 歳の離れた兄は父の手伝いで店に立ち、まだまともに言葉も話せないほど小さな弟は母の腕の中。

 そんな時、星辰薬舗せいしんやくほに客として来たリン氏一行の中に、幼い瑞雲ルイユンがいた。

 琅雲ランユンの後ろに隠れながらこちらを伺ってくる少年。

 暇を持て余し、歳の近い友人が欲しかった杏花シンファは、迷うことなく少年に話しかけた。

 話しかけられたことに驚いた瑞雲ルイユンは、顔を真っ赤にして泣き出してしまった。

 杏花シンファが固まっていると、琅雲ランユンが「弟はとても人見知りが激しくて、少し泣いてしまいやすいのだが、とても良い子で優しい子だから、仲良くしてくれると嬉しい」と言って二人の中を取り持つように間に入ってくれた。

 杏花シンファはそっと瑞雲ルイユンの手をとり、「驚かせちゃってごめんなさい。もし良ければ、少しお話ししよう」と笑顔で誘った。

 すると、瑞雲ルイユンは「お、お花みたい……」と呟き、涙で濡れた目を輝かせ、杏花シンファを見つめながら頷いた。

 それからは瑞雲ルイユン琅雲ランユンにくっついて星辰薬舗せいしんやくほに通った。

 そして、杏花シンファが十二歳、瑞雲ルイユンが十四歳の時。

 帰り際に瑞雲ルイユン杏花シンファの手を取り、言ったのだ。

「成人したら迎えにくる。私が生まれ育った慈雨源郷じうげんきょうに一緒に帰りたいから」と。

 その後は琅雲ランユンが若くして宗主の座についたことで扶桑ふそうまで訪れることが出来なくなり、会う機会は無くなっていた。

(あ、あれは子供の約束……、だよね……?)

 現在、杏花シンファは十六歳で、瑞雲ルイユンは十八歳になったばかり。

 瑞雲ルイユンの成人まであと二年。

「あ、えっと」

「返事は急がない。まだ二年ある」

 全身に優しい雷がはしる。

「う、うん。わかった」

 何がわかったのか自分でもわからなかったが、それはきっと幼い頃に微かに夢見ていたことの続きのような気がして、杏花シンファは胸の前で自身の手をぎゅっと握りしめた。

「おお! 琅雲ランユン、いらっしゃい。待っていましたよ。瑞雲ルイユンも一緒とは珍しいですね」

 突然、底抜けに明るい声が響き、その主の方へと身体を向ける。

青鸞チンルゥァン兄さん。お久しぶりです。相変わらずお元気そうですね」

 純白の深衣しんいを纏い、手の甲には氷花紋。

 雅な見た目とは裏腹に、身体そのものを武器とする近接格闘術が専門のシュェ家宗主、シュェ 青鸞チンルゥァン

「毎日鍛錬を欠かしませんから。で、そちらのお嬢さんが例の……」

 杏花シンファは自分に移された視線を感じ、一歩前に出て作揖さくゆうした。

シュェ宗主、初めまして。扶桑ふそう星辰薬舗せいしんやくほの娘、シン 杏花シンファと申します。この度は雅学への参加を許可していただき、ありがとうございます」

「こちらこそよろしくお願いします、杏花シンファ。このような見目麗しく可愛らしい女子おなごがまさか……」

青鸞チンルゥァン兄さん」

 琅雲ランユンの真剣な瞳に、青鸞チンルゥァンは口をつぐみ、頷いた。

 そしてまた笑顔に戻ると、杏花シンファ瑞雲ルイユンを見て言った。

「今回の雅学には私の弟、菫鸞ジンランも参加します。どうぞ、仲良くしてやってください」

 杏花シンファ瑞雲ルイユンは共に作揖さくゆうした。

「では、二人は私の部屋に。瑞雲ルイユンは雅学で宿泊予定の部屋で休んでいておくれ」

 瑞雲ルイユン杏花シンファ琅雲ランユンを交互に見てから、少し寂しそうな顔をした。

「あのね、瑞雲ルイユン。私には……、今はまだ話せない秘密が幾つかある。もしかしたらそのどれかが瑞雲ルイユンを傷つけてしまうかも……」

「気にしない」

 瑞雲ルイユンは側から見れば全く表情に変化がないけれど、杏花シンファにとって彼の目は、より多くの感情を語ってくれる。

杏花シンファに幾つ秘密があろうと、私の想いは変わらない」

 杏花シンファが声を出すよりも早く、青鸞チンルゥァンが「え! 二人はそういう感じなのですか!」と興奮し出してしまったため、琅雲ランユンによって口が塞がれた。

「さあ、青鸞チンルゥァン兄さんが騒ぎ出さないうちに行こう、杏花シンファ

「あ、は、はい!」

 杏花シンファ瑞雲ルイユンの目をまっすぐ見ることが出来なかったが、小さな声で「またあとでね」と言うのが精一杯だった。

 瑞雲ルイユンの微かな「うん」が聞こえ、顔が綻ぶ。

 しかし、これから二人の宗主に話すことは、とても笑っていられるような話題ではない。

 青鸞チンルゥァンに案内され、部屋へ入ると、二人の後に続いて円座わろうだに腰を下ろした。

リン宗主、こちらにいらしていただいた本当の理由を隠させてしまい、申し訳ありません」

「大丈夫だよ。ただ、瑞雲ルイユンは何かを感じ取っているようだ。あまり長い間は隠せないだろう」

「わかりました……。シュェ宗主、リン宗主。これよりする話は、心から信用に値すると確信した者にしか聞かせる事ができません。ただ、今はその時ではなく、お二人だけにお伝えいたします」

 杏花シンファが「梅園」と言うと、その背後に三名の従者が現れた。

「白の狩衣かりぎぬ白梅はくばい。医術と刀術を得意としております。黒の狩衣の女子おなご紅梅こうばい。守りのまじないと弓術を得意としており、この二人は双子。そして緑の水干すいかんの少年が青梅あおうめ。隠密と浮遊を得意としており、この姿は本来の姿ではありません。本来の姿は邪気が強く、『災禍』を司っているため、雅学の間は常に子供の姿をさせます。この三名は蓬莱に伝わる陰陽術により私の従者となった者達です」

 二人の宗主は三名の従者を見つめながら、すでに実力の片鱗を見せた杏花シンファの底知れなさに胸が高鳴るのを感じていた。

「紅梅」

 杏花シンファが目配せすると、紅梅は、くうに向かって手を伸ばし、円を描いた。

「我々の声が漏れないよう、陣を張らせていただきました」

 鞄から一つの艶やかで重厚な箱を取り出し、それを二人の目の前へと置いた。

 絹の紐に蝋で封がされている箱を見て、二人は顔を見合わせた。

「私、シン 杏花シンファは、蓬莱国星辰せいしん王殿下の名代として参りました。中には大秦国だいしんこく皇帝陛下と蓬莱国天皇陛下、両陛下の玉璽ぎょくじが押印された聖旨せいしが封じられております」

 琅雲ランユン青鸞チンルゥァンは真剣な表情で杏花シンファと箱を見つめた。

「箱を開き、中の聖旨を手にした瞬間、それは命令に変わります。両陛下はそれを望んではいません」

 杏花シンファは鞄からもう一つ、桐の箱を取り出すと、蓋を開けた。

 中には巻物が入っている。

「ここにあるのは、両陛下が聖旨を発するに至った事案を書き記したもの。こちらをご覧になり、そして私の話を聞いた上で、聖旨を受けるかご判断ください」

 二人が頷いたのを確認し、杏花シンファは巻物を広げて話し始めた。

「ことの発端は、およそ千年前。大秦国だいしんこくの神器が盗まれた事……」

 当時、大秦国だいしんこく蓬莱国ほうらいこくに友好的な国交は無く、海を超えてその事態を聞きつけた蓬莱国ほうらいこく天皇は、「我が国まで災禍が及ばぬよう、警戒し、守りを固めよ」と陰陽術師や法師たちに命じるだけで、大秦国だいしんこくに力を貸す事はなかった。

 その後、大秦国だいしんこくは二度に及ぶ滅亡の危機に晒されることとなる。

 一度目は唯一にして最後の女性趕屍匠かんししょうによる反乱。

 今からおよそ八百年前のこと。

 彼女は自身の父親が偽りの申告による不敬の罪で死罪にされたことを恨み、失われた五つの神器のうちの一つである古琴を用いて武人の僵尸きょうしの軍団を率いて皇宮へ攻め込んだ。

 古琴はその弦が全て人間の腸から作られたものに替えられており、放つ怨念や邪気は桁外れ。

 彼女が皇宮に至るまでに殺した者は数十万にのぼり、たった一人で二つの城まで落としてしまった。

 この時、その反乱を鎮め、皇宮を守り抜いたのは、当時の国師とその弟子達。

 彼らは世杉シーシャン族の血を引く道士で、彼女が僵尸きょうし達に出した命令を、呪符と音律を使うことで書き換え、進軍を止めたのだった。

 趕屍匠かんししょうは悲願目前で侵攻を阻止され、皇宮に向かいのろいの言葉を吐き捨ててから自害。

 趕屍匠かんししょうが死んですぐ、古琴は封じられた。

 その後、何度試しても古琴を浄化する事は出来なかったため、国師によって破壊されることに。

 二度目の危機は四百年前。

 当時の皇帝は何人皇子が生まれても、三年以内に全員が亡くなるという悲劇に見舞われていた。

 正統なる血筋の後継者がいなくなれば、国力を損ない、他国に攻め入る隙を与えることになる。

 しかし、何度子供を作ろうと、生き残るのは公主だけ。

 そこで、すでに国交があり学友であった蓬莱国ほうらいこく天皇へ助けを求めた。

 天皇は大秦国だいしんこくへ、その時最も信頼を置いていた陰陽術師を派遣した。

 陰陽術師は到着するとすぐに皇宮へ向かい、皇帝に謁見した。

すると、すぐに「滅ぼした国から娶った公主を冷遇し、結果自害に追い込んだことは?」と皇帝に尋ねた。

 皇帝は顔面蒼白になり、「十五年前に……。だが、何の能力も持たぬ女子おなごに、このようなのろいがかけられようか。それに、すでに死んでいるというのに……」と震えながら口にした。

 陰陽術師はそこで何かに気づき、「寝殿を見せて頂いても?」と言った。

 皇帝は「全ての寝殿への入室を許可しよう」と太監たいかんを呼び、陰陽術師を案内させることに。

 その中の一室に入ると、陰陽術師の手の中にあった呪符が激しく燃え上がり、灰となった。

 同行していた太監たいかんは怯え、部屋の中には入らず、陰陽術師が何かを探しているのを見ていた。

 「ありました。これが原因です」と、陰陽術師が手にしたのは香炉。

 太監たいかんが「そ、それは唯一取り戻せた神器……。悪夢に魘されて眠れない陛下に安眠していただこうと、使用が許可されているもので……」と、声を震わせながら言った。

 「取り戻したはいいが、遅かったようですね。この香炉に入っている香灰は焼かれた人間の灰です。とても強い呪術がかけられており、浄化は不可能。破壊するしかないでしょう」と事もなげに言い、太監たいかんに皇帝へ報告しに行くよう伝えた。

 皇帝の命によりすぐに香炉は破壊され、中の香灰は陰陽術師によって適切に破棄された。

「ここまでの話はすでにただの歴史。これよりお話しいたしますのが、今に続く事案にございます」

 百年前、当時の氷妃河ひょうひがシュェ氏の女宗主が骨董市で鏡を手に入れた。

 それはこれまで見たどの鏡よりも美しく、精巧で、惹きつける魅力に溢れていた。

 シュェ宗主は修練も忘れるほどにその鏡に魅入り、常に手元に置いていた。

 鏡の異常さに気付いたのは、シュェ宗主の娘ただ一人。

 鏡について調べようと、商人を探したがすでにその姿はどこにもなく、それどころか、骨董市に参加した誰もその者を覚えてはいなかった。

 そんなある日、娘は、小鳥が羽ばたく様子を見て母親が騒ぐのを目撃。

 「ねえ、生き返ったのよ! ほら、あなたも見たでしょう!」と。

 娘は母が日に日にやつれていくことに危機感を覚え、隙を見て鏡を盗み、破壊。

 その瞬間、割れた鏡は宙へと浮かび、黒い煙をまき散らしながら四方へ飛散。

 太陽は翳り、空には暗雲が立ち込め、邪悪な波紋が広がった。

 それは海を超えて蓬莱国ほうらいこくまで伝わり、強い邪気に大秦国だいしんこくを案じた天皇は、稀代の陰陽術師である弟に頼み、大鷲の式神を使って大秦国だいしんこく皇宮へ危険を知らせた。

 大秦国だいしんこく皇帝から救援を求む返事を受け取った蓬莱国ほうらいこく天皇は、自身に宿る強大な護国の陣を大秦国だいしんこくまで広げ、一時的に災禍を封じた。

 天皇は原因究明のために十人の陰陽術師を大秦国だいしんこくへ派遣し、国中を捜索させ、一月後、それが氷妃河ひょうひが不凍航路ふとうこうろにあることを突き止めた。

 すでに正気に戻っていたシュェ宗主は、陰陽術師達を中へと案内し、娘が破壊した鏡を見せた。

 鏡が嵌め込まれていた部分も柄も全て珊瑚で出来ており、人間の血で磨き上げられた痕跡があった。

 「銅鏡部分がこの器に戻りたがっているようですね。封印するほかありません。砕け散っていった四つの破片は、この器が封印されている限り悪さをする事はないでしょう」と、氷妃河ひょうひがの裏山にある、夏でも雪深い場所へ祠を建て、封印することとなった。

 このことは歴代のシュェ宗主と大秦国だいしんこく皇帝にしか伝わることのない秘密。

「それが十年前、どこでそのことを知ったのか、法霊武門ほうれいぶもんの者が封印を解き、鏡の器を持ち去ってしまいました」

「そ、そんな……」

 シュェ宗主は胸に手を当て、倒れそうになる自分を支えるために深呼吸を繰り返した。

「裏山には何重にも結界がかかっており、祠を開けるには手の甲にこの氷花紋が刻まれていないと……」

「その結界はシン家の祖先がかけたもの。だから父は結界が破られたことを察知し、天皇陛下へと進言したのです。大秦国だいしんこくに危機が迫っていることと、結界を破るには別の方法があることを」

 杏花シンファは巻物の最後の部分を広げた。

「盗まれた神器は鏡を除いて残りは二つ。蝶舞の簪ちょうまいのかんざしと、琰櫻えんおうの指輪です。同じ人物の生体組織で汚された神器は呼応し、互いを求めます。つまり……」

蝶舞の簪ちょうまいのかんざし琰櫻えんおうの指輪を持った者なら、結界を突破し、祠を開けることも出来る……、ということか。……ん? 今、同じ人物の生体組織で、と……」

「そうです。盗まれた神器は全て、一人の人間を素材として呪物に作り変えられているのです」

「人間を……、素材に……」

 琅雲ランユン青鸞チンルゥァンは言葉を失い、杏花シンファが広げた巻物を見つめた。

法霊武門ほうれいぶもん間で起きた事案は法霊武林ほうれいぶりん内で解決すべし、というのが両陛下のお考えです。しかし、過去の事例を見る限り、そうは言っていられません」

 杏花シンファは深呼吸し、二人を見つめた。

「無礼なことと承知の上で申し上げます。もし、現存する三つの神器が揃い、その強大な呪力を使って法霊武門ほうれいぶもんが結託し、大秦国だいしんこく全てをその手中に収めようと皇宮へ攻め入れば、蓬莱国ほうらいこく天皇陛下は兄弟分である大秦国だいしんこく皇帝陛下の救援のため、大軍を率いて法霊武林ほうれいぶりんそのものを亡きものとするでしょう」

 琅雲ランユン青鸞チンルゥァンは息を飲み、杏花シンファを見た。

「これは決して大袈裟ではありません。だからこそ、皇帝陛下がその善良さを信じている氷妃河ひょうひがシュェ氏と綺雨きうリン氏の宗主お二人にだけ、今、話しているのです」

「では、十年前に越してきたのは……」

「そうです。両陛下の弟分である我が父、蓬莱国ほうらいこく星辰せいしん王は、この天下に存在する陰陽術師の中で最も優れた術師であり、医術の腕も最高峰。そして我が母は医仙いせんの娘であり、本人も桃薬天女とうやくてんにょという称号を持つ至高の薬術やくじゅつ師です。両陛下と父の実兄である明星王殿下による協議の結果、『法霊武林ほうれいぶりんを監視し、事案の解決方法次第では援護し、それが不可能なら一掃せよ』と命を受け、派遣されてまいりました」

「一掃……。ご家族にそこまでの力があるのだな」

「父の命令で動く陰陽術師の兵が蓬莱国ほうらいこく星辰せいしん王府に十万、みやこにあるシン王府には一万。そして明星王殿下の兵も同じ数おります……。けほっ、けほっ、うっ」

 ここまで一気に話してきた杏花シンファはその精神的負担から咳が止まらなくなり、気付いたら血が混じり始めていた。

杏花シンファ!」

 琅雲ランユンが背をさすり、青鸞チンルゥァンが冷やした水を渡してくれるも、咳が止まらず飲むことができない。

 杏花シンファの目に涙が滲み、それは嗚咽に変わり、口から血が出たまま泣き出した。

「ごめんなさい……。ずっと騙してきて……。子供の頃はわからなかった。でも、両親と兄はずっと知っていて、苦しんできました。私は今回の雅学への参加……、いえ、潜入ですよね。それが決まる少し前に教えられました。まだ弟は知りません。どうか、弟だけは何も知らないまま育ってほしい。だから、私を恨んでください。この話を聞かされ、そして任務を打診され、受けると決めたのは私です。だから」

「謝らなくてはならないのは我々法霊武林ほうれいぶりんの方だ」

「そうですよ、杏花シンファ

 青鸞チンルゥァンはとても悲しそうな、そして優しい表情で杏花シンファを見つめ、水の入った杯を渡した。

「だって、杏花シンファは護りに来てくれたのでしょう? 二つの国と、私たち法霊武門ほうれいぶもんを。まだ神器の力が使われた形跡は無い。だからこそ、少しでも早く行動すれば間に合うと信じて」

 杏花シンファは口に残る血を拭い、顔を上げた。

「そうでなければ、これまでの話をこんなにも悲しい顔をして話すはずがない。我々に、自分たちの力で解決して欲しいと願うから、涙が溢れてしまったのだろう」

 琅雲ランユン杏花シンファの背をゆっくりとさすり続け、「杏花シンファの泣き顔を見たら、瑞雲ルイユンがひどく心配してしまう」と微笑んだ。

「でも、こうなったら青鸞チンルゥァン兄さんと私は責任重大だ」

「そうですね。信用に足る者かどうか、各武門ぶもんの宗主を改めて見定めなければなりませんから」

「忙しくなるでしょう。弟たちが雅学に参加している間に事を進めないと」

「頑張らないとですね。可愛い杏花シンファをこれ以上泣かせたくないですもの」

 二人の温かな笑顔のおかげで、杏花シンファはようやく泣き止んだ。

「その通りです。あ、そうそう。杏花シンファの病状について、私から青鸞チンルゥァン兄さんに話しておかなければならないことがあります」

 琅雲ランユンに「お父君からの書簡をもらってもいいかな」と言われ、杏花シンファは鞄の中から取り出した白い巻物を渡した。

「それは聞いておかないと。すでに、その……、お身体が弱いのかな? という心配をしています」

「それには少々複雑な理由がありまして……」

 琅雲ランユンに「私が説明しておくから安心して休んでおいで。血が滲んでいる服を着替えないと、瑞雲ルイユンが卒倒するかもしれないから」と、宿舎で休むよう促されたので、杏花シンファは紅梅に陣を解かせ、青鸞チンルゥァン達に見送られながら部屋をあとにした。

杏花シンファ様、お薬を飲まれませんと」

「白梅、このくらい日常茶飯事だから大丈夫だよ。いつも通りちょっと休めば……、あ」

 廊下を少し歩いたところにある中庭に、瑞雲ルイユンが立っており、目が合った。

杏花シンファ、待っ……」

 瑞雲ルイユンは言い終わる前に杏花シンファに近付き、服や手、口元に残る血の痕を凝視した。

「何があった」

「ちょ、ちょっと体調を崩しただけ」

「体調を崩したくらいで、人は血を吐きはしない」

 至極真っ当なことを言われ、杏花シンファはたじろいだ。

「わ、私が虚弱体質なのは知っているでしょう?」

「白梅、薬は?」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの後ろに控えている白梅に懇願するような目を向けた。

 子供の頃、まだ家の事情を知らなかった杏花シンファは、梅園のことを瑞雲ルイユンに見せたことがあり、彼だけはずっとその存在を知っていたのだ。

杏花シンファ様が服用したがらないのです」

 白梅は雨に濡れた子犬のような悲しい目であるじの健康への無頓着さを訴えた。

杏花シンファ

 瑞雲ルイユン杏花シンファの手を取り、拭いきれていない血を自身の指でそっと拭いた。

「……わかった、わかったよ。薬飲むから、みんなしてそんな顔しないで」

 気付けば紅梅と青梅も子犬のような瞳で杏花シンファを見つめ、元気をなくしている。

 杏花シンファは白梅から薬を受け取り、口の中で噛み砕いて飲み込んだ。

 両親が持たせてくれている薬は全て水がなくとも服用できるように、噛み砕ける丸薬になっている。

 丸薬の中心には濃縮された薬効成分が液状になって入っており、とても不味い。

 服用しやすいよう最大限工夫してくれているのだが、生薬の味を緩和するために加えられている何かの甘さが後を引き、とても積極的に飲みたいと思うようなものではない。

瑞雲ルイユン様のおかげで杏花シンファ様に薬を飲んでいただくことができました。あとは常用薬だけですね」

 瑞雲ルイユンの目が杏花シンファから白梅へと移った。

「常用している薬があるのか」

「梅園、戻りなさい」

 白梅、紅梅、青梅の三人は杏花シンファの右腕上部にある杏花紋へと強制的に戻された。

 白梅が薬の説明をし始めたら、きっと瑞雲ルイユン杏花シンファが散歩をすることすら心配し出すだろう。

「大丈夫、大丈夫だから。ほら、えっと、そう、私着替えてくるね」

 瑞雲ルイユンの手からそっと自分の手を外し、杏花シンファは近くを歩いていた侍女を呼び止め、用意されている宿舎へと向かった。

 瑞雲ルイユンは手に残る微かな生薬と血の匂いに胸を締めつけられながら、歩いていく杏花シンファの背を、見えなくなるまでずっと見つめ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る