花風天翔

智郷めぐる

第一集:花か、雪か、灰か

若蓉ルォロン兄さん!」

 名前を呼ぶ。

 連合軍と土人形達が行く手を阻み、声も手も届かない。

「戻っておいで! みんなで一緒に扶桑ふそうへ帰ろう。守ってあげるから!」

 雪が降り積もるように、灰が舞う。

 あたり一面を埋め尽くさんばかりの血を吸い、灰は重く、熱を失っていく。

「誰からも傷つけられないように、私が盾にでも、繭にでもなるから! だから……、お願い、若蓉ルォロン兄さん」

 若蓉ルォロンは虚ろな瞳でただただ戦場を見つめている。

 その腕には愛おしい義弟の遺体を抱きしめながら。

 浅はかで愚かな人間たちが、その手に栄光と権力を得るために殺し合っている、凄惨で滑稽な絵巻物でも眺めるように。

「私の声、聞こえてる……? う、あ」

 杏花シンファの背に痛みと同時に熱さがはしる。

杏花シンファ!」

 瑞雲ルイユン杏花シンファの背を斬った敵兵を斬り伏せた。

 流れ出す血液は衣に染み込み、重さを増しながら杏花シンファの意識を奪おうとしてくる。

 声が出ない。

杏花シンファ!」

 瑞雲ルイユンの身体に倒れ込む。

 助けたい、護ってあげたい、ひどい悲しみから救い出してあげたい、と、心から願う友人の名前すら血の混じる僅かな呼吸音に変わってしまう。

 それでも杏花シンファは口を動かし、友の名を呼ぶ。

「る、お」

 身体が思うように動かなくとも。

「しん、ふぁ……?」

 若蓉ルォロンは目を見開き、手を伸ばした。

 しかし、倒れゆく大切な人の元へ行くことはできなかった。

 ここは戦場。

 間にはいくつもの屍と憎悪、そして狂気が立ちはだかっている。

 若蓉ルォロンの目に弱い光が戻るも、すぐに涙に変わり、その表情には絶望と怒りの炎が満たしていった。

 白い火炎が渦高く伸び、空を覆い尽くしていく。

「私を信じてくれた人が……、みんな死んでしまった……」

 若蓉ルォロンの目を闇が支配した。

 瑞雲ルイユンは、血を流しながらも懸命に呼吸を続ける妻を抱き抱えながら、若蓉ルォロンに視線を向けた。

「もうやめろ! こんなことをして、何になる!」

 瑞雲ルイユンの声が戦場の喧騒の中に響き渡る。

「君はずっと私を疑っていた。いくら杏花シンファが信じようとも」

「それなら何故、杏花シンファの助けを拒むんだ! どうして振り払うような真似をする!」

 若蓉ルォロンは弱々しく微笑むと、白炎を纏った右腕を振り上げた。

「もう、遅いんだよ」

 振り下ろされたその腕はまるで、命を刈り取る大鎌のようだった。


☆★☆★☆


 千年ほど前、大秦国だいしんこくにとても清廉で善政を敷く皇帝がいた。

 柔軟な思考だけでなく、心根も美しく、そして見目も大変麗しく、国中から好かれていた。

 ただ、清すぎる水には魚が棲めないことと同じで、長年甘い汁を啜ってきた高官達にとっては非常に邪魔な存在でもあった。

「上皇陛下であらせられる兄君の時はこんなことはなかったのに」

 酒を杯に注ぎながら、兵部尚書がため息をついた。

「あの方は政治には全く興味がありませんでしたからな。後宮さえ華やかであればそれでよかったのでしょう」

 吏部尚書は自室の扉を閉め、会話が外に漏れないよう、侍女たちも全員下がらせた。

「なぜ弟君に譲位などなされたのか」

「最も寵愛されていた貴太妃がお亡くなりになったからですよ。皇帝位に興味も未練もなくなってしまわれたのでしょう」

「死因は何でしたかな」

 戸部尚書は酒肴に舌鼓を打ちながら尋ねた。

「大きな声では言えませんが……、心の病ですよ」

「皇太后陛下から酷く虐められておいででしたから」

「有る事無い事噂され、耐えられず……」

白絹自害ですか……」

「……ん? 根も葉もない噂を誰が信じたというのです?」

 若き吏部侍郎は純朴な表情を浮かべながら小首を傾げた。

「市井の人々ですよ」

「でも、市井の声など後宮には届かぬでしょう?」

 吏部侍郎の質問は続く。

「それが、届くのですよ」

「え、どうやってですか」

「各自治体からの上奏文です。それはもう、大量の」

「じょ、上奏文⁉︎」

 驚きのあまり杯を落としそうになった吏部侍郎を微笑ましく見守りながら、兵部尚書が当時を懐かしむように話し始めた。

「貴太妃の艶聞や後宮での贅沢三昧な様子などを聞きつけた市井の人々が『皇帝陛下へ仕えるには不適切』と糾弾したのです。それを知った皇太后陛下やそのお父上は歓喜し、手の内にある官僚達に次々と新たな噂を作らせ、貴太妃を廃する上奏をさせ続けたのです」

「噂は全部嘘だったのですよね……?」

「もちろん。でも、人というのは驚愕する内容であればあるほど盛り上がるというもの。その流れを止めるのは容易ではありません」

 吏部侍郎が相槌を打とうとしたその時、戸部尚書が髭を撫でながら唸った。

「ううん、なるほど……。噂、ですか」

「何か思い浮かんだのですか?」

 それまで静かにしていた兵部侍郎が興味深そうに尋ねた。

「例えば、例えばですよ? 陛下がもし善政の裏で異民族を厚遇し、その公主を娶ってその間にできた子を立太子させようと画策しているなんて噂が流れたら……」

「民心は著しく離れ、廃位せよとの上奏が相次ぐでしょうね」

 兵部尚書が嬉しそうに頷いた。

「さらに付け加えるとすれば、異民族を厚遇するために、北と西の国境で戦っているいくつかの軍の軍力を下げようとしている、とかでしょうか」

「軍方からの支持を奪えるのは素晴らしいですぞ」

「では、兵部と吏部、戸部で連携し、軍資金を下げられて不満を漏らしている将軍たちを集めて早速取り掛かりますか」

「でも、次の帝位は誰の手に渡すのですか? 皇長子殿下は陛下に似て善良ですし、嫡子の皇太子殿下は他の皇子が束になっても敵わないほどの軍功がおありです」

 また吏部侍郎が純粋な瞳で年長者達を見渡した。

重祚ちょうそするのですよ」

「……え! 上皇陛下を再度、帝位に……?」

 吏部侍郎はついに杯を落とし、服が酒に塗れた。

「お戻り願いましょう。貴太妃の従姉妹に、貴太妃に容姿がそっくりの女子おなごがいるらしいですぞ」

「では、後宮におられる妃の皆様やその皇子、公主達は……」

 吏部侍郎は戸部尚書が渡してくれた布で酒を拭いながら聞いた。

 すると、兵部尚書がなんでもないことのようにさらりと答えた。

「陛下と共に来世へ旅立っていただこうではないですか。間違っても禍根は残せませんからな。今上帝の皇統が一人でも生き残ってしまえば、いずれ必ずや災いとなりましょう」

「こ、公主の中にはすでに嫁いでいる方々も……」

 吏部侍郎は今日、今、この場にいることを後悔し始め、声が小さくなっていく。

「残念ですが、流行病にはかないますまい」

「は、流行病?」

 吏部侍郎の声が上ずる。

「熱病に見せかけて殺せる毒を飲んでいただくのです。お子様ともども」

「ど、ど、どうやって、ですか」

 吏部侍郎はもう隠せないほど手が震え出していた。

「この天下に皇太后派の間者が何人いるとお思いで?」

「そんな……」

 親の威光もありのんびりと生きてきた吏部侍郎にとって、今成されている会話は恐怖でしかない。

「再び皇后に戻るためなら何でも協力して下さるでしょうね」

 兵部侍郎は顔面蒼白になっている吏部侍郎を心の中で嘲笑しながら杯を空けた。

 この会話の僅か一月後、皇帝は国家転覆を画策した容疑で廃され、その血を継ぐすべての皇子が共謀容疑で死をたまわり、皇后をはじめとする妃と公主達は同時期に病にかかり、その子供達と共に亡くなった。

 ただ、この時、たった一人悪意の網目をすり抜け、無事だった皇子がいた。

 肺の病を患い、その療養のために空気の綺麗な山奥にある寺院で療養していたのだ。

 廃帝と、世杉シーシャン族の傍系ぼうけいが建国した小国から嫁いできた玲瓏れいろう公主との間に生まれた第七皇子。

 寺院は母方の遠い親戚が建立したものであるため、皇宮の警戒対象に入っていなかったのだろう。

 秋の冷たい風の中、父親の廃位と兄弟姉妹の訃報を聞くこととなった第七皇子は、咳とともに口から流れ床に滴る血を眺めながら誓った。

「父上、貴方の血は決して絶えない。いつか必ず、この天下を穿うがやいばとなりましょう」

 一週間後、廃帝が死罪となった。

 その知らせは第七皇子の元へも届いたが、不可思議な尾鰭がついていた。

「父上の両足が無かっただと?」

 皇族専用の牢まで毒酒を運んだ刑部尚書と、刑の執行を見届ける役目を与えられた親王が目撃したのだという。

 廃帝は取れかけていた石煉瓦を壁から外し、それで両足を叩き切ったのだ。

 しかし、身体から離れたはずの両足はどこにも見当たらず、廃帝はただただ嗤うだけで誰の質問にも答えようとしない。

 なぜこのような狂気にはしったのかも、両足をどこへやったのかも。

「父上の意図を探らねば」

 元々虚弱であるため、体調を整えながら父の思考を理解するには困難を極める日々。

 廃帝の死から一年後、再び巡ってきた深まる秋の日に、それは突然目の前に現れた。

しょう王殿下。お父君からです」

 目に涙を浮かべ、真っ直ぐとしょう王を見つめる大僧正だいそうじょうは、その手に黒ずんだ箱を持っている。

 その隣では、すでに出家の身となっていた廃帝の弟が、真剣な面持ちでしょう王を見つめている。

 しょう王は箱を受け取ると、黒ずみが乾いた血液であることに気づいた。

「お父君が貴方様に残し、託された、最期の呪い願いでございます」

 意を決し、箱を開くと、そこには幼い頃に一度だけ見せてもらった大秦国だいしんこくの神器の一つが入っていた。

「そうか……、そういうことか。父上の意図が分かったぞ」

しょう王は口元を歪めながら嗤うと、それを箱から取り出し、秋の陽光に照らした。

「美しい……」

 輝くそれは、細かな意匠にまで手入れが行き届いており、見た目は皇族に永く伝わる神器にしか見えない。

 まさか呪物に変わってるなど、誰が信じようか。

「また今生でお逢いできてとても嬉しいです、父上……」

 しょう王は神器に頬を寄せ、目を潤ませた。

「お前と私で、兄上の仇をとろうではないか」

「はい、叔父上」

 可愛い甥であるしょう王を、廃帝の弟は優しく抱きしめた。

 家族の訃報を知ってから、初めての涙だった。

 しょう王が神器の一つを受け取ってから一月後、皇宮では禁軍大統領とその側近の処刑が行われていた。

「神器を四つも失うなど、大失態どころの騒ぎではないぞ! 一月前にも一つ無くなっているというのに……。その捜査も全く進まず頭を抱えていたところにまたか! 九族皆殺しではないだけ感謝せよ。これは皇后陛下の崩御による恩赦である」

 十日前、皇宮の警護を任されている禁軍の兵士が十人殺され、彼らが守っていた宝物庫内にある密室から神器が四つ盗まれてしまったのである。

 三省六部や御史台の官僚達、軍侯、太監、後宮で仕えている宦官や女官など、使える人員全てを導入して探し、調査も進めたが、盗んだ者も侵入経路も神器の行方も何もわからなかった。

 その責任を取らされ、禁軍の面々が処刑されることになったのである。

 残念なことに、誰が何人死のうと神器紛失事案は解決せず、気づけば千年の時が過ぎていた。

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