ゆきのひ

ぎゅむ、ぎゅむ。

足の裏で雪が踏み潰されて

奇妙な声を漏らす。

風船を擦った時にも似た軋みのある音は

耳の奥に大きな粒を

詰め込むようで苦手になった。


湊「ゆうちゃん?」


詩柚「んー?」


湊「どうかしたの?なんか怖い顔してるから、どうしたのかなーって。」


ランドセルの蓋が開いているのか

彼女が歩くたびに

金具が当たってかたかたと音がした。

雪を踏む音はそれに紛れて

幾分か緩和していたので

特に指摘もしなかった。


詩柚「何にもないよぉ。強いていうなら、ちょっと眠くて。」


湊「そうなんだ!夜更かしだ!」


詩柚「ふふ、そうだねぇ。」


雪の潰れる音も、

夜の風の音も

水が滴る音も嫌いになった。

これまで気にならなかったもののはずが

酷く嫌悪を感じさせるものへと

成り代わっていた。


どれもこれも理由なく

急に嫌いになったわけではない。

思い出すたびに手が震える。


湊「手ぶるぶるだよ、寒いんでしょ!手袋貸してあげる!」


湊ちゃんは昨日や一昨日、

はるか昔からと

全く同じように笑って

自分のつけていた手袋を

私の手にはめてくれた。


詩柚「でも、湊ちゃんが寒くなっちゃうでしょお?」


湊「マフラーに埋めるの、こう!」


詩柚「…あはは、危ないよぉ。」


震えていた手も

彼女の残った温もりのおかげで

些か止まっていた。

くすり、と笑う。

天が落ちてきたと錯覚するような

出来事があったとしても、

湊ちゃんが笑顔で

彼女が幸せなのであれば、

きっとこれから先も怖くない。





***





詩柚「…ん。」


目を開く。

ぼやけた視界のまま

目に注ぐ電球の光を遮るように手で覆う。

1度瞼を閉じてうんと伸びをした。

そういえば早めに学校へと

来ていたのだっけ。

時計の針は昼寝を始めた時から

10分ほど進んでいた。


何か夢を見たような気がした。

懐かしいような、

心が痛くなるような…。

一概に楽しい、寂しいとは

言えないようなものだったと思うが、

その感触以外これっぽっちも

記憶に残っていなかった。


詩柚「はぁ。」


最近、刻々と時間が過ぎることに

不安を抱くことがある。

このまま過ぎてしまえと

深く深く願っている。

持久走のようなものだ。

ゴールが近くなればなるほど

そのことしか考えられず焦る。

しかし、できることといえば

そのまま走り続けるだけ。


その不安が押し寄せるたび

普段は1、2時間に1度やってくる強い睡魔が

より高頻度で襲ってくる。

数十分ほど眠り、目を覚ます。

それなのに夜もしっかり眠るのだ。

1日の何時間をこうして

スキップしているのだろう。

この体質になり早数年。

生活にも慣れたが、

仕方のないこととはいえ悔やむ時がある。


恥じるようなことをしたわけではない。

むしろ間違いなどなかった。

あれが最善だ。

最善だった。

そう、湊ちゃんのお母さんだって

言っていたじゃないか。

私もそう思う。

何ひとつ間違ったことなどしちゃいない。

なのに私も湊ちゃんのお母さんも

こうしてある程度の負荷を抱え

生きなければならないなんて不条理だ。


詩柚「…よくない目覚めだなあ。」


夜間の授業が始まるまでは

また30分ほど時間がある。

携帯をさわっていれば

あっという間にすぎるけれど、

天気のいい今日ばかりは

何故か勿体無いように思って、

荷物を持って体育館へと向かった。


体育館の2階部分では

見知らぬ運動部の人たち数人が

準備運動をしていた。

私のように暇を潰している人は

どうやら今日はいないらしい。

柵の元まで行き、下を見下ろした。


体育館ではきゅ、きゅ、と

館内履きが音を鳴らしている。

冷房も効いていないこんな暑い中で

よくこうも俊敏に動けるものだ。

嫌味ではなく純粋にすごい、と思う。


いくよー、だの

きっとポジションや人の名前などが飛び交う。

声を掛け合って

ボールとリズムよく打っている。

ノックというものだろうか。

その中で。


「湊ー!」


詩柚「…。」


鋭い角度で飛んでくるバレーボールを

湊ちゃんが腰を下げてフォームを取り

膝をうまいこと使って

腕で跳ね返した。

たん、といい音が鳴る。

ちゃんとした位置に当てれば

痛くないと言うけれど、

何度もボールを打っているせいで

ほんのり赤くなっているのが見えた。

痛そう、とぼんやり思う。

けれど、そんなそぶりなど

一切見せることなく

ボールを拾い順番を回す。

時に部員と楽しげに話し、

時には「大丈夫」「できるできる」と

士気を上げる言葉をかけていた。

私には見せることのない顔だ。


私は部活をしているわけでもないし

ましてやバレーボール部でもない。

あの顔を向けてもらえないのは

当然なのだろう。

しかし、理解していたとしても

引っかかる部分はあるわけで。

彼女が笑顔を向けた先の人が

もし私やその周囲のことを知っていたら。

よくない噂や事実を吹き込まれたら。

私はその人を引き離さなきゃいけない。


だからこそ、夏休み前に

湊ちゃんと連絡が取れなくなったのは

本当に怖くて仕方がなかった。

もしも帰省していたら。

もしあの場所に行っていたら。

もし全てを知ったのなら。

眠っちゃいけないのに

ストレス負荷と比例して

睡眠時間が延びていく自分の体質に

恨みすら抱いた。


そしてある日突然彼女は帰ってきた。

しばらくご飯を準備できなくて

ごめんねなんて言って、

たくさんの食材を持ってきながら。

それどころじゃなかった私は

話を聞く余裕などなく

どこに行っていたのか、

何をしていたのかを問い詰めてしまった。

東北の方に旅に出ていた、

友達と一緒に行っていた。

それ以外は「どうだっけ」「また今度」と

はぐらかされるばかり。

その後何度か聞くも

ぱっとしない顔をして

「もう過ぎたことだから」と

やはり口を固く閉ざすのだった。

距離を置かれた。

そう思ったけれど、

夏休み前の話をする時以外は

これと言って異変などない。

これまで通りだからこそ

その話してくれない事実が

妙に浮いてしまって

余計奇妙に映るのだ。


いつまでも表面の私のことを

盲目に信じていて欲しい。

湊ちゃんと今後更に深い仲に

なりたいわけではない。

今と同じ距離が続けばいい。

ただそれだけなのだ。

鉄の柵を握る手に力が入っていた。


手を離し、眠るように腕を組み

頭と一緒に柵の上に乗せた。

ぼうっと下を見ていたその時だった。


湊「…!」


湊ちゃんが偶然にも見上げ、

にこにこの笑顔で

私に大きく手を振ってくれた。


詩柚「…。」


自然と笑みが溢れる。

小さく手を振った。

彼女はそれを見届けた後、

友達に説明しているのか

近くにいた部員と話していた。


詩柚「…まあ、いいのかな。」


彼女の笑顔が見れたのだから。

今日はそれだけでいい日のように思えた。


数十分眺め、

早めに教室に戻ろうと

体育館の1階へ降りた時だった。

小走りでこちらに走ってくる影が見え、

振り返るとそこには湊ちゃんがいた。


湊「ゆうちゃん!」


詩柚「あれ、部活は?」


湊「今休憩!飲み物無くなっちゃったから買いに行こうと思って。一緒にどうですかい?」


詩柚「じゃあ、お言葉に甘えて。」


湊「ふっふっふー、そう来なくっちゃ。」


校舎内で1番体育館の近くにある

自動販売機へと向かう。

彼女は迷わずスポーツドリンクを買い、

そしてまたお金を投入した。

2本買うのか、と思っていると

不意に湊ちゃんが口を開いた。


湊「どれがいい?」


詩柚「え。いいよお悪いし。」


湊「のんのん。今日お水持ってきてる?」


詩柚「ううん。いつも持ってきてないよ。」


湊「だーめ。まだ暑いんだから熱中症になっちまうよ。ほれほれ好きなの選んで。」


詩柚「なんでも」


湊「何でもいいはなし!」


詩柚「…じゃあ、同じやつがいいなあ。」


湊「スポーツドリンクね、おっけい。」


私が熱中症を危惧して

選んだと思ったのだろうか、

湊ちゃんはうきうきで

がこんと鳴った自販機から

それを取り出して渡してくれた。


詩柚「ありがとう。」


湊「ううん!こちらこそ練習の応援ありがとねん。ゆうちゃんの顔見れてちょいと元気出たよ。」


詩柚「…そっかぁ。」


湊「んー、むむ、これどこかで見たことあるような。」


詩柚「…?」


湊「あ、そうだ。雪の日!」


詩柚「何かあったっけ。」


湊「うちが確か手袋忘れちゃってさ、寒いなって時にゆうちゃんがおしるこ買ってくれたの。何でだっけ、遠回りして帰ることになって、自販機探してさ。」


詩柚「…!」


ぎゅむぎゅむ。

雪を踏んだ日のこと。

確か、私の手が震えていて

湊ちゃんが手袋を貸してくれた日のことだ。

早く帰らなきゃいけないと思ったのに、

手は震えるわ暗い顔してるわの私を案じて

湊ちゃんの提案で遠回りして

帰ることになったのだ。

道中、やっぱり彼女の指先は

寒さが故に真っ赤になってしまって、

自動販売機まで足を伸ばした。

そこであったかいおしるこを買って

彼女へと渡したのだ。

あの時の湊ちゃんの

溶けたような暖かい笑顔は今でも忘れない。


詩柚「手袋、貸してくれたんだよ。」


湊「うちが?」


詩柚「そう。」


湊「でっへへ、全然記憶と違うや。でもね、あの時のおしるこすっごく記憶に残ってるんだよ。」


詩柚「…大人になったねぇ。」


湊「お互いね。このスポドリはあの時のお返しってこった!」


風情はないけどね、と

自嘲気味に笑いながら言う。

いつの間にか立場は

真逆になってしまった。

今や、もしかしたら

私が守られる側にいるのかもしれない。

湊ちゃんも今年で

18歳になるのだもの。

時間というのは時に遅く、

そして時にとてつもなく早いものだ。


湊「これから授業だしょ?頑張ってね!」


詩柚「うん。湊ちゃんも部活、応援してる。」


湊「ありがとまる!じゃあまた!」


部活の休憩時間はそう長くないのだろう、

話は手短に、また大きく手を振った。

人にぶつかりそうになる彼女を眺め、

その背が見えなくなってから

手元に残った飲み物を見つめる。

冷たく、結露した水滴が

手の溝に流れていく。

今に限ってはそれすら

手放したくないと思ってしまった。











あしあと 終

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