第58話
「くそッ! くそッ!! くそぉぉぉッ!!」
犬歯は唇を喰い破り、涙と一緒に血が流れる。
すると、
「やめな。みっともない」
左肩に置かれた丸々と膨れた右手。
「離せよッ!」
「シン。……ちょいと落ち着きな」
シンはようやく、その手の主に気が付いた。
「……母さん……」
「ったく。数年ぶりに姿を見たと思ったら、こんなになって……」
「なんでッ!?」
「なんでって、バカなこと考えてる――息子を殴りに来たんだよ」
でっぷりと膨れた腹を揺らし、シンの母は悪態をつく。しかし、その表情をシンは知らない。優しく慈愛に溢れる、まるでロザリアが浮かべていたような笑顔がシンに初めて向けられたのだ。
そして、その傍らには
「私たちは親として失格だ。お前に、こんな辛い選択をさせてしまったんだからな。すまなかった」
無言無関心で母の行いを肯定し続けた父がいた。
「よく聞きな。私たちはもう死んでいる」
「なッ!?」
「だから、よく聞きな!!」
母は、右手を振り上げた。以前のように殴られると両目を力強く閉じるが、訪れたのは頭を撫でる優しい手の平の感触だった。
「ったく。私たちは救われるべきじゃない。アンタはそう思っていないと言い聞かせてるけど、立派な虐待をしていた。その自覚もある。そんな奴らのために、傷作る意味はないだろ?」
「シン。……お前と会話するのは何年ぶりだろうか。こんなに大きく、立派になったな。お前の名前はな、誰かを信じて……信じられる人間人なれと、そう願って付けたんだ。そう願ったのに、私たちがお前を信じることが出来なかった」
「だから、お前はお前の道を進みな。私たちはもう消えるよ」
シンの父と母の足元が、徐々に向こうの風景と同化していく。
母親の言葉通り、消えようとしているようだ。
勿論、シンはそれを見過ごせるはずもなく、
「待ってくれッ!?」
二人の元へ駆け寄ろうとするが、
「待ってください!!」
「ッ!? 離してくれッ!?」
紫髪の女性に引き留められる。
すると、両親は微笑み、
「覚えてないと思うけど、私たちは誰かが隣にいないとダメなんだ。私みたいな、クズになるんじゃないよ」
「シンをお願いします。無鉄砲なところもあると思うけど、悪気はないんだ」
そして、両親は消えていった。
『これがシンに用意されたもう一つの選択肢』
両親が消えてなくなると、白色だった周囲の景色が徐々に変化していく。
青空と辺り一面に広がる美しい花畑。吹き抜ける清らかな風。そして、シンの隣には美しい紫髪の女性がいる。
『力を手放すことで訪れるであろう平和な未来です。心穏やかに、誰かの役に立つ仕事をして、心から惹かれる女性と家庭を築き、幸福を積み上げていくでしょう』
女性は、シンの腕を取り満面の笑みを浮かべると、
「シン君。行こう! お母様とお父様の言葉と一緒に! 私たちはアクセサリウスを忘れて生きるの!」
舗装された綺麗な石床の道の先にある、輝かしい太陽を指さす。
(誰なのか分からない。……でも、なんだろうこの気持ち。不思議と信用できる、一緒にいたいと……)
『どちらの道を進みますか?……といっても、答えは決まっていますね』
ロザリアは、”それでいい”と言わんばかりだ。心なしか嬉しそうだ。
シンの前方には光り輝く幸福が待っている道。背後には、血にまみれた争いが続く道が伸びている。
シンは幸福な道へ向け、一歩踏み出す。
そして、
「オレは……」
『答えを。力を手放せば、アナタには幸福な未来が待っています』
シンの心に灯っていた覚悟の炎が、両親からの言葉によりロウソクほどに小さくなっていた。
目の前に広がる光景は嘘であることは明白。それなのに、シンは自ら騙されようとしていた。
(言い訳もある。誰もオレに戦えなんて言っていない。なら……もう止めても……誰も文句は……)
その時、声が聞こえる。
「ホント、しつこいな」
「ふっ、褒め言葉として受け取っておこう」
ソルとマリアの声だ。硬質な何かがぶつかり合う甲高い音が響いている。
「諦めなよッ!」
「諦めないさ。私の親友が、大切な選択をしようとしている。それが終わるまでは、一歩も退かんッ!」
「シンは戦いを諦める。それでも待つのかい」
「勿論さ。シンは優しすぎる。本来ならば、その選択をするべきさッ!」
背後に続く血にまみれた道の先で、二人は戦っている。
シンはそれを理解した。
『答えを聞かせてください』
俯くシン。
思考はクリアになり、今まで感じていた煩わしさが消えていく。
両目に力強い意思を宿し、心の炎を燃え上がらせる。
「……マリアが待ってる。行かないと行けない」
シンは肩を震わせる。
握りこぶしに力が籠る。
「オレは本当にバカだったッ! 周りの人間を訳も分からず巻き込む大馬鹿だッ! みんなが居なくなって心のどこかで喜んだ!」
シンが心に溜まる暗い感情を力の限り吐き出していく。
「力を与えられて浮かれてたッ! オレは家族が戻ってこなければってそう思ったんだッ!」
『ならばこそ、平和な道を選ぶべきです。アクセサリウスは誰かが戻してくれます。よしんば戻らなくても、シンにとっては都合がいい』
シンは顔を上げ、ロザリアを射貫く。
「そうじゃないだろッ! オレは自分の意思で、直接、今までの思いを家族に言わなきゃならないッ! こんな形で別れるなんて、全然フェアじゃない! そんなの誠実じゃ……マリアなら真正面からぶつかって意見を言うとそう思う!」
シンは、争いが続く道を見据え、大きく一歩を踏み出した。
「オレは全部欲しい。アクセサリウスもマリアとの日常も。あの時の覚悟は嘘にしたくない。誰かを助けられる、真っすぐな人間になりたいんだ」
しっとりとした言葉だ。力強くも、落ち着きもある。今までのシンの精神性ならば考えられないほどに、大人びていた。
「オレが進む道は戦いの道だ。それが答えだ――ロザリア」
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