つぼみの下、二人

くまいぬ

拝啓、親愛なる…

あの時、君を呼び出した、あの学校終わりの放課後。大地に降りしきった雪は、もう完全に雨と雲に還元されてしまっていて、でも、身も凍るように冷たい大気は、まだ僕達の肺をピリピリと刺激し続けていたよね。

ああやって二人きりで向き合う機会は、僕達が大きくなってからは滅多に無かったから、とても緊張していたのを思い出すよ。

なんて事ないちょっとした会話、それから、度々訪れる静寂の時間。あの静かな桜の木の下で、僕は君に打ち明けた。

その時言葉と共に口から漏れ出て、情景へと溶けていったあの白い吐息は、今でも僕の心に染み付いて離れない。


はぁ、はぁ、はぁ


ポツンと佇まう、蕾を蓄えた桜の木、サラサラと靡く背の低い緑が囲ったアスファルト。そこに、君が居た。

「遅いよ」

「ごめん、先生と色々話してて」

制服の袖口で額から流れ落ちる水滴を拭っていると、やはり訪れる季節の変わり目を実感する。

「幼馴染と先生、どっちが大切だ」

「そりゃ、どっちも」

だから、こんなに急いで来たんじゃ無いか。

二人は桜の木の下で対面していて、そこでは、いつもよりゆっくりと時間が流れているような気がした。

「ほら」

彼女は歩み寄ると、ポケットからハンカチを取り出して、僕の額や輪郭を優しく撫で始める。

僕は、そんな状況に頬を赤らめ狼狽する様な事もせず、ただ、身体の熱を奪っていくそよ風をそっと感じ取るように、彼女の美しい手付きと表情を眺めていた。

「この時代にわざわざ手紙を寄越すなんて、一体何用?」

彼女の手が離れ、僕の荒い息遣いが大方落ち着きを取り戻してきた頃、先に口を開いたのは彼女の方だった。


あの事を初めて知った君は、こんなのおかしいって、僕の胸をポンポン叩いて泣きながら怒ったよね。

その時の君の様子は、まるで駄々を捏ねた子供みたいだった。

別に、それを貶そうとなんて思ってない。だって、その姿は、僕にはとても懐かしく感じられたから。

小さい頃の君は、とてもわがままだった。気に入らない事があると僕の頭をよく叩いてたし、女の子だからって理由で何でも自分を優先させていたよね。

そのせいで、何度君に泣かされたか分からない。

それでも、子供心なりに、僕はずっと理解していたよ。君が、そんな態度の裏に含ませた底抜けの優しさを、当時友達の居なかった僕にくれていたって事。

今では、君もあの頃と比べたら少し大人しい性格になってしまったから、そういう姿を久しぶりに見る事が出来て、本当に嬉しかったんだ。

ただ、やがて身長差が出来て、あんなに痛かった君の拳も、もうあまり痛いとは思えなくて、何年か振りに君と密着して、僕たち大人になったんだなって実感した。


「ただ…いや、なんて言えば良いのかな…。君と、二人きりで話したい事があったんだ」

サラ、として澄んだ風が、僕たちの髪や服の繊維の隙間をサッと駆け抜ける。

「僕が、去ってしまう前に…話したい事が」

彼女を呼び出したのは僕の方なのに、本題に入ろうとした途端、思うように口が動かない。僕の中で、色んな感情と思いが錯綜しているのを感じる。

もう、覚悟は決めたと思ってたのにな。

僕の曖昧な返事を聞いて、彼女は黙ったまま横を向いた。正確に言うと、桜の木の方を。

その表情は、曇り一つない晴天の様に澄んでいて、彼女を飾る穏やかな初春の景色とはとても似つかない程に、僕の心を掻きむしった。


僕たちは、大人になってしまった。

なってしまったなんて言うと、悪い事のように聞こえてしまうかも知れないけどね。

でも、安心して欲しいのは、僕は大人になる事がどういう事なのかを、僕なりに少しは理解しているつもりだっていう事。

つまり、僕はまだまだ未発達の子供だって、理解しているっていう事。


「君にあの事を告げた日…僕は眠れなかった。朝になるまで、ずっと考え事をしてたんだ」

何度でも、鮮明に脳内へと映し出されるあの時の情景。

僕の告げた事実は、深く彼女を傷付けてしまった。

僕自身が初めてあの事を告げられてから、一番危惧していた事が、現実になってしまった時だ。

僕だけじゃ無い、僕以外の大切な人にも、悲しみを振り撒いてしまう。

悲しみは伝染し、更なる悲しみを引き込む。


戦場へ行かなければならないと聞かされてから時間は経ったけど、僕自身、未だに恐怖心も、不安も、ずっと残ったままだよ。

それでも、やっぱり一番堪えたのは、君の涙だった。

君に伝えなければならない。

その使命感は最初からずっとあったはずなのに、君が悲しむ姿を見るのに怖気付いて、かなり遅れてしまった。

先延ばしにしたって、結局意味は無かったのに。

ごめんね。


「あの時…実は、君に一番伝えたかったはずの言葉を、僕はずっと胸の内に隠したままだった」

そう言い放って、また口が言う事を聞かなくなってしまう。

彼女にハンカチで拭ってもらったはずの汗も、また僕の額や背中を湿らせ始めた。

何やってんだよ、僕は。

強い焦燥感が、胸の奥で重力に従い、重くのし掛かかっていくのを感じる。

それでも彼女は、そんな情け無い僕から顔を背けたまま、ずっと桜の木を見つめていた。


あの時はまだ、一つも蕾を付けていなかった桜の木。今では、ぽつぽつと可愛らしい膨らみを蓄えつつあるよ。

そう、時間は、いつだって過ぎゆく物。


…やっぱり、彼女の顔は美しかった。

靡く長髪、スラっとした首筋、凛とした眼差し。

君を形作る全ての要素が、美しい。

でも、それだけじゃ無い。

君の明るさに満ち溢れた声、少し乱暴だけど、真っ直ぐで優しい性格。

今まで君が僕に向けてくれた君の全てが、愛らしい。


今、こうして僕が文字を書いている間にも、君が僕の拙い文章を読んでくれている間にも。

いつだって、僕たちの時間は過ぎ去って行く。


…馬鹿だ、僕って。


冬の身も凍るような厳しさも、僕たちが生まれ育ったこの町ではもう薄れ始めて、豊かな緑と共に心地良い風が、そっと襲来する日も近い。

今日の放課後。もう一度、あの桜の木の下に来てくれてますか。


現実世界で、どれだけの時間が経っていたのか分からない。

一瞬にも、一生にも感じる長い時間を過ごしていた気がする。

春の陽気は、すぐそこまで迫っている。

僕の気持ちを食い止める枷は、もうとっくに外れていた。

多分、それはずっと前から。

「この思い、あの日君がここで泣いた時から、ずっと胸の奥にしまって置こうと決めてた。でも…こうして君の顔を眺めてたら、やっぱり、僕ってどうしようも無く自分勝手な男なんだなって、気付いちゃった」

喉の奥でつっかえていた物が、スッと吐き出され、宙を舞う。

「僕、君の事が好きなんだ」

彼女と僕の距離は、推定2、3メートルは離れている。

僕は、彼女に向けて一歩踏み出した。

「君の事が、どうしようも無く、大好きなんだ」

もう一歩。

彼女は、顔を背けたまま、俯いていた。

「どうせこうなるって、本当は薄々理解してた」

もう一歩。

一歩ずつ歩を進める度に、僕の中の何かが崩れ去って、新しい僕が形成されていく。

「未来の事だとか、僕たちに待ち受ける苦しみだとか、そんなのどうでも良い事だって思わせてしまう程、君を愛してるって、僕が一番理解していたはずだったんだ」

もう、歩を進める必要は無かった。

子鹿の様に全身をプルプルと振るわせ、か弱い声で嗚咽する彼女を力一杯抱き寄せるのには、もう充分な距離だった。

「愛してる」

やっと、こっちを向いてくれた。

涙でくしゃくしゃになったその顔も、綺麗だ。

「バカぁっ!バカバカバカぁー!」

懐かしい感じがした。

僕の胸の中で、彼女が僕をポンポン叩いて泣きながら怒る。

手紙ではそうでも無いって書いてたけど、やっぱり彼女の拳は痛かった。

ドスドスと連続で鋭い痛みがやって来て、その度に少し顔をしかめる。

でも、嬉しかった。

その痛みだけで、充分だった。

そう思わせる程に、幸せだった。

僕たちは、二人して目を真っ赤に腫らしながら泣きあって、抱き合って、思いを伝え合った喜びを分かち合いながら笑い合って、抱き合ったまま互いに腕の中、色んな昔話をした。時には懐かしみながら、時には愚痴りながら、怒ることもあった。

すごく楽しかった。

僕たちは、その時を味わっていた。

すごく悲しかった。

全力で、その時を生きていた。

いつか時間が経って、二人の手が離れて、それから更に時間が経って、色んな事を後悔する時も来るのだろう。

だからこそ、今という時間を生きて行こう。

そうやって全力で生きていれば、今際の際には、きっとこの幸せな時を、思い出せるだろうから。

芽吹きの季節。ポツンと佇まう、蕾を蓄えた桜の木。その下に、世界で一番幸せな、二人がいた。

僕はもう、この手を離さない。

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つぼみの下、二人 くまいぬ @IeinuLove

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