第41話 滅殺の呪文
本当に、まずいことになった。
一年生、前期の成績が、夏休み初頭にメールで届けられた。
『社会学、不可』の表示を目にした瞬間、ゆずるは背筋から凍り付いて、固まってしまった。
必修である単位を落としてしまった。留年こそしないシステムなのだが、二年生の前期で、必ず取り返さねばならない。そうしなければ、大学の卒業ができない。
偏差値の高い大学を目指すことは、将来の就職に際して有益となるという考えは、概ね正しいだろう。ただ、その前提となる大学の卒業を為さねば、大卒というカードを手元に持った就職はない。
下手に、偏差値が高いところに挑んだことが、間違いであったのかもしれない。合格を勝ち取ったはいいものの、講義が難解で、テストの手ごたえは、過去の12年間の学生としての生活の中で、最悪だった。
で、そういうネガティブなことが頭にこべり付いたままバイトをしていると、ミスをしやすくなるというのは自明。
「おい、加賀美!何やってんだよ!!」
「す、すみません!今すぐに移動させます」
「マジでさぁ、お前、ピッキングの作業向いてねぇよな」
軽作業という分野の、倉庫において商品を仕分けしたり、検品をしたり、【ピッキング】といって、注文票を確認しながら商品をピックアップする業務内容のアルバイトを行っている。
人生で初めてのアルバイトだ。
重い荷物もあって、立ちっぱなしで、かなり体に負担がかかるが、体力はつく。腕の筋肉を中心に良い形の体になったので、コンプレックスの一つだった体の貧弱さが、多少なりとも改善された。ただし……
上司ガチャ……?は、ハズレだった。
ここでいう上司とは、倉庫の監督者のこと。
「勉強だけできるクズがよぉ……」
また人格を否定されるような愚痴を言われるが、無視無視。黙って作業に戻るが、お互いにストレス無く仕事ができるというもの。
おかげで、精神的に強くなれた気がする。
しかし、とにかく、暴言が多い。彼は冗談で言っているのだと、他のバイト仲間たちは、そうやって考え、受け流して、作業に集中していた。彼らに倣って、ゆずるも、硬い精神のバリアを張って、箱をあちらこちらへと担いで走り回った。
「おーい、ゆずる、また間違ってるんだよ!!」
「あ、すみませんでした……」
どうしても、将来への不安や、大学のことに関する不安などの雑念が頭の中の大部分を占めていて、作業にミスが出てしまう。そして、また監督者に怒鳴られるのだった。
「マジで、ふざけんじゃねぇぞ……今度おんなじことやらかしたら、指折るからな」
「っ――」
ふと、監督者が発した言葉に、全身の震えが止まらなくなった。
どう解釈しても脅迫の罪に該当するそれが、どうも、受け流せる代物ではなかった。
――小学生の頃のことが、フラッシュバックする。
唐松……やつは、給食当番の仕事を押し付けるために腕相撲をさせて、小指を折ってきた。
「バカ、何やってんだ!!」
固い地面にべたっと尻もちをついたが、かろうじて、商品に傷をつけないように、抱え込んだ。監督者がドタドタと足音を響かせながら迫ってきたので、「足が痺れてしまいまして」と、嘘をついた。
本当は、心臓が破裂しそうなぐらい胸の内側が痛くて、頭がキーンとする頭痛があって、泣きそうで、猛烈な吐き気に襲われていた。膝は笑っていて、立ち上がることができなかった。
それもこれも全部、『指を折る』という、トラウマを蘇らせる呪文のせいだ。
「早く立てよ、ほら」
「は、はい……」
芯が取れてしまったような脚に鞭打って、監督者の肩を借りながら、根性で立ち上がった。
いまだに頭痛がして、吐き気が止まらなかった。
「おい、どうした?」
「……体調がとても悪くて」
「ああ?しょうがねえな、休憩のやつと交代してこい!」
「すみません……」
よろよろと、手持ちの商品だけを所定の位置に置いて、バックヤードのほうへと歩いた。休憩時間だった先輩に交代を懇願すると、嫌な顔をされたが、了承してくれた。
――もう、限界だ。
トイレに駆け込み、盛大に嘔吐した。
トラウマの声が、今も脳裏で響いている『いえーい、オレの勝ち!じゃあ、給食当番の仕事、よろしくな~』という、小学生、唐松の声が。
――そして「きゃはは」と嘲り笑う、七瀬の姿が思い出された。
「おい、大丈夫か?」
トイレの個室の扉をドンドンと叩く音が響いた。監督者だ。
「……つらいです」
「いいよ、もう帰れ。使えねぇ置物、邪魔なだけだ」
監督者は、トイレを出て行った。「誰かのシフト代わっとけよ」と言いながら乱暴にドアを閉めたせいで、ドンっという大きな音がトイレに響き渡った。
それからゆずるは、バイトを辞め、大学にも行かず、布団にくるまるばかりの日々を過ごした。
趣味だった絵も、描く気力が湧かなかった。
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