第42話 クソ野郎

 何に対しても、やる気が出ない。



 画材を、近くの百貨店に買いに行こうかと思い立っても、体が動かない。もしも、レジでお金を払いそびれたら、犯罪者になってしまうという、いらぬ心配が内側で大きくなって、結局、行かない。



 おかしい……いや、自分がおかしくなってしまったのかもしれないと、ゆずるは苦悩する。ベッドで横になる生活になってから、すべてがネガティブな思考に汚染されてしまう。


 レジでお金を払いそびれるなんて、そんなことはあり得ないのに、起こりえないことに対して過剰に不安になってしまう。


「ああ……」



 爪を立てて、頭をポリポリと搔きむしる。もう4日も風呂に入っていなかったから、白いフケと、抜けた髪の毛がポロポロと、枕の上に落ちた。


 禿げるんじゃないか、こんな若い歳で、と、思わせるぐらいに、パラパラと髪が抜け落ちている。ストレスか、それとも、不潔によるものか、はたまた、その両方か。



「んんんんー……」



 ゆずるは一人、ベッドの上で呻いた。


 もしも、地球に隕石が落ちたら、もしも、日本が戦争に巻き込まれたら、もしも、巨大な地震が起こったら、もしも、家が火災に見舞われたら……せっかく描いた絵が、日の目を浴びることなく、失われてしまう。それが、次第に大きな不安の影を落として、体の内側をぞわぞわとさせる。



 そんな【不安の妄想】に苛まれ続ける自分のことを「怠け者」とか「弱虫」とか、思ってしまって、また心が落ち込む。




 七瀬も、来栖も、夏目も、母も、父も、祖父も、祖母も、先生たちも、かつてのいじめっ子の唐松たちも、みんな外に出て頑強に、そして楽しそうに生きているだろうに……



 どうして、自分は、こんなに小さくうずくまって怯えているのだろう。




――それは、「確約のない明日」が、どうしようもなく不安だったからであろう。




――それは、生きることに怯え、死ぬことに恐怖する「生きたしかばね」として生きているからであろう。




「今日も大学行かないの?」



 母の声が、部屋のドア越しに聞こえてきた。その母の声を聴くだけでも、もしかしたら、家を追い出されるんじゃないかという不安が這い上がってきて、喉が渇き、瞼がピリピリと痙攣した。



「……ごめん」

「はいはい。お母さん、仕事いってくるね」



 ドタドタという、母が廊下を歩く音が聞こえてきて、その少し後には、車のエンジンがかかる音がした。レースの白いカーテンから恐る恐る外を覗いてみれば、黒い軽自動車が、加賀美家の狭い敷地内から出て行った。



 父も、仕事のため、早朝に家を出ている。



 やっと家で一人になれて、心が落ち着いた。今日も衣食住を恵んでもらえて、「生きてしまっている」のだと実感する。


 暇な時間があると、将来のこととか、日本の社会のこととか、世界の紛争のこととか考えてしまって、鬱気分になるのは、「社会」について大学で学んでしまったが故の副作用だろうか。



 スマホをいじって、意味のない時間をやり過ごす。



「ん?」



 ちょうど、メールの着信があった。ピロンという、着信音が顔の近くで鳴ったので、びくっと驚かされた。



 メールは、高校生の時の同級生、【夏目春香なつめはるか】からであった。



 ただ一言、『今なにしてる』とメッセージが飛んできた。



――――メール――――



夏目:今なにしてる?


ゆずる:寝てる


夏目:起きてるじゃん


夏目:この返信してるってことは


ゆずる:正論だわ


ゆずる:大学休んで、ベッドで横になってるって意味


夏目:サボり?


ゆずる:鬱


夏目:あらあら


夏目:大丈夫そう?


ゆずる:不安で体調が悪くなる


夏目:重症だね


ゆずる:なんでメール送ってきたの?


夏目:1限空きコマで暇だった


夏目:今度の土曜日に、水族館どう?


夏目:一緒に行こう


ゆずる:まじ?


ゆずる:行きたい


夏目:大丈夫なの?


夏目:体


ゆずる:気合いでなんとかする


夏目:そうか


夏目:無理しないで


夏目:8時に、雛菜ひなな駅の西口で集合でどう?


ゆずる:おけ



――――――――――――――――




 まさかの誘いを、夏目から頂いた。ぜひ、こんな引きこもりを外の世界へと連れ出してほしいものだ。



 ゆずるは、夏目と水族館へと行く約束を交わした。



 しかし、こんな容姿では、とても夏目に会えたものではないと、スマホの黒い画面に反射した自分の顔を見て、思う。



 髪は寝癖が立ってボサボサとしていて、不摂生から、頬に大きなニキビが住んでいた。唇はささくれ立って乾燥していたし、爪は、アカが溜まって伸びきっていた。


 さっそくベッドから起き上がると、肩と膝に痛みを覚え、息が切れて、胃がひっくり返りそうになって、軽くえずいた。めまいがひどく、ドアの輪郭が歪み、ぼやけて見えた。



 数日間、ろくに動いていないと、こんな状態になるらしい。




 重い足取りでトイレへ向かい、次いでシャワーを浴びる。シャンプーの泡立ちが存外に悪く、三回洗って、ようやく髪本来のサラサラとした質感が取り戻された。


 脱衣所にて、化粧水をペシペシと顔に浸透させる。それから、頬のニキビには白いクリームを塗りこむ。どうか、夏目と会う土曜日までには治りますようにと願いながら、次いで、毛虫のような眉毛を細く整え、うっすら青っぽく生えてきたヒゲを剃刀ひげそりで剃る。


 鏡に映った自分を、ゆずるは、このように評した。




「……クソ野郎」と。





――夏目と水族館へ行き、死ぬと決めた。具体的には、どこかの海岸へと赴いて、処方されている睡眠用の薬を大量に摂取し、大海原へと踏み出す……もう、生きるも死ぬも嫌になった。



「その瞬間」までは、明るく生きよう。

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